月のマーメイド 彼女のブルー

4

 

 

 

雪がちらつく、というフィリップさんの言葉に、ようやくわたしは寒さに気づいた。

心はレディ・アンへの不快と、彼女から遠ざかることで一杯だった。

受け取ったコートに慌てて袖を通した。フィリップさんが、背からそれに手を貸してくれる。その紳士らしい態度に、もう一度わたしは小さな声で礼を言った。

それに彼は「あなたの美しい黒髪を目にすることができて、光栄ですよ、レディ・ユラ」と、歯の浮くような言葉をさらりと、あっさりと返してくる。

その微笑みを長く見つめ続けるのは、わたしには辛い。

はらりと自身もコートを纏いながら、彼が「あ」ともらした。

「しまったな」

そうやって、手を額に置いた。

「どうなさったのですか?」

「いや、大したことではないのですが。急いで友人に別れを言って飛び出してきて、今気づいたのですよ。便乗してきたから、わたしは馬車を持っていないのです」

肩をすくめ、今からもう一度彼らのもとに戻るのも、バツが悪いと笑う。

宿泊先のホテルまで帰るという。そのホテルの場所をわたしは知っていた。ガイの大学のさらに向こうにあり、ここからはかなり遠い。

「まあ、いい。辻馬車でも拾いますよ」

そう言い、彼は「では」と、背中を向けようとした。

わたしのコートを届けるために、帰りの手段をなくした彼に、申し訳なさで、居心地が悪くなった。

わたしは彼の背に、「あの」と声を掛けた。

「辻馬車は、今の時刻、混み合ってつかまらないかもしれないですわ。よろしければ、お乗りになりません? お泊りのホテルまでお送りします」

わたしの誘いに、彼はまず遠慮した。それには及ばないと返し、もう一度わたしが「どうぞ」と言葉を重ねると、ちょっと考える風を見せ、

「では、お言葉に甘えて」

少し照れたように笑った。目もとがそれで、途端に少年のような表情を浮かべるのだ。ガイより若いことが、それでわかる。

わたしは目を逸らした。その黒い瞳はやはり、堪らないから。

 

馬車の中で彼は、快活に自身のことを述べた。

大学時代はマキシミリアンに住んでいたらしい。ガイが教える大学とは別の、そこでの学生生活は面白かったのだという。

「わたしたちのような遠方からの学生は、寄宿舎に入るのです。そこで身の回りの世話をしてもらいます。邸のようにとはいきませんが、まあ、快適と言えます。
何より、そこに入っている連中が面白い。厳しい親の監視から外れて、随分と羽を伸ばすのですよ。美しいご婦人に夢中になったり、酒や賭け事に手を出してみたり。
羽目を外し過ぎない程度のものですがね。
そのときに、随分と楽しい友人を持ちました」

「卒業後は、ご領地にお帰りになったのですか?」

「ええ、父が急逝し、已む無く。本当は、こちらで弁護人にでもなろうと思っていたのですよ。領地の農作物の管理より、わたしには向いていると思ったのです」

わたしが「余計なことを言ったわ」と詫びると、彼は簡単に首を振った。

「ちっとも。失礼ですが、レディ・ユラは、ご家族は?」

「…いいえ、おりません。主人と二人だけです」

どうしてだろう、そこで彼が黙り込んだ。手袋の手を唇に当てたまま動かない。しばらくそういう風だった。

そのしばしの間の後で、彼が今度は失言を詫びた。

それから、これまでの絶えず微笑を浮かべた瞳を、やや凝らし、わたしを見つめた。

「こんなことを申し上げるわたしを、どうぞ警戒なさらないでいただきたい」

おかしな前置きをする人だと思った。

そして、何を言う気なのだろうと。

彼は黒い瞳をぱちりと瞬いた。

「あなたに会ったのは、これが最初ではないような気がする」

 

わたしは背中に、ぞわりと悪寒を感じた。表情が強張るほどに動揺した。

それを必死で隠し、何でもないようにちょっと笑う。

「おかしなことを、おっしゃるのね。以前に二度もお会いしているではないですか。舞踏会と、その後王宮の回廊で」

それに彼は手を顔の前で軽く振った。そういう意味ではないという。

それが、気味が悪かった。

柏木先生にどこか似た彼が、そんなことを言うのが怖かった。

いまだ引きずる先生への微かな罪悪感を、ずるずると心の奥から引きずり出されるように思う。

「あなたの黒い瞳、そして黒髪に、ひどく魅かれる。気になってしようがない」

わたしは浮かべた笑みを止めた。また似たようなせりふ。先生がかつてわたしに向けたものと、似たようなせりふ。

膝に置いたバックの房飾りをいじり始めた。落ち着きなく、指に絡め、そしてうつむいた。

早く彼の目的地であるホテルに着き、別れてしまいたかった。

『あなたの関心を買うために、わたしは無礼にも、こんなことを口にしているのではないのです。それだけはご了解をいただきたい」

わたしは返事をしなかった。うつむいて、感覚のなくなるほど冷えた指先をぎゅっと互いに組んだ。

「あなたを知っている気がする」

「いいえ、舞踏会でお会いしたのが最初です」

「ええ、それはそうです。しかし、何か、わたしたちは互いに、大きな共通点のようなものを持っているように思えてならない。何だろう、それが魅かれる原因かな。申し訳ありません。まとまりのないことを申し上げて。
…わたしにもよく考えが整理できない。混乱しているのですよ」

フィリップさんはそこで、やっと以前の朗らかな笑みを表情に乗せた。

少し癖のある黒い髪、そして黒い瞳。

彼との共通点なら、わたしが同じ色の髪と瞳を持っていることだけ。他に何があるというのか。

窓に目を移すと、見慣れたガイの大学の前を通過するところだった。もうすぐ、彼と別れられる。

もうすぐ一人になれる。

窓を見るそのわたしの横顔に、彼が言葉を放った。

「わたしの家系は、必ず黒髪と黒い瞳を持っている子供が生まれるのです。何の作用なのでしょう。黒髪と黒い瞳の持ち主は、わたしの曽祖父が一人あったばかりだというのに。それから後、生まれる子は皆、黒髪と黒い瞳を持っているのです」

何が言いたいのだろう。わたしと彼の家系の持つ奇妙な作用に、何の関わりがあると言うのだろう。

彼は再び黙った。考えをまとめるように、または言葉を選ぶように瞳を伏せている。

「どうしてだろう、わたしはあなたの美しい黒い瞳と髪に、強く魅かれるのは。自分と同じ色の髪と瞳を持つあなたに、どうしてだか魅かれているのです」

わたしは無理に笑い、彼の言葉を混ぜっ返すように、「恋の告白みたいなお言葉ね」

それに彼は首を振り、やや強くわたしを見つめた。その瞳の色が、わたしはやはり怖い。

「恋ではない。恋だったらいいのに」

彼は繰り返した。わたしをどこかで知っている気がすると。刻まれているように感じるのだと。

近づく宵に深くなる闇。そして、足許から上る冷えは、わたしを包んで離さないのだ。

 

夜更け、ベッドに身を横たえたわたしを、ガイが引き寄せた。ふわりと腕に抱き、つつむ。

首筋に感じる彼の唇のくすぐったさに、わたしは身をちょっと引く。

「あ」

キスを受け、それが続いて彼の指がわたしの纏う夜着に滑る。愛撫の始まりで、それはいつもわたしをひどくときめかせる。

どこでだろう。彼の指がわたしのどこを彷徨ったときだろう。

不意に今日の午後会ったフィリップさんの表情が、ふと頭をよぎった。

彼の髪と瞳の黒。

それはわたしの胸の奥から、あの人の影を呼んでくる……。

「愛している」

ガイの甘いささやきにその影は遠くなり薄くなり、そしてまた現れる……。

「…嫌」

次々に甦る堪らない思い出に、わたしは思わず声を上げた。思わず身をよじり、ガイの指を避けた。

ガイは肌から手を移し、わたしの髪を優しくなぜた。「申し訳ない。気分じゃなかった?」

「ごめんなさい。ちょっと、頭が…痛いの」

彼はわたしの額に掌を置き、そうして身体を包んでくれた。

「きっとお嬢さんは、疲れたのでしょう。ユニークな軍人の夫人の集いとやらのせいで」

鼻の頭にちょっと彼は唇を置いた。

「我慢する。あなたが許してくれるまで」

「ごめんなさい」

彼に抱かれたいと思う。それに陶然となって、溺れるようにあの歓びに浸りたい。忘れたい。

けれど、冷めてしまう。身体が冷めている。

そのことに、わたしは戸惑った。

求める彼の腕を拒んだのは、初めて。

初めて、わたしは身体でガイを拒んだ。




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