月のマーメイド 彼女のブルー

5

 

 

 

たとえば、素肌に纏うシルクの柔らかな感触。

それは身に着けた途端、肌の熱に、とろりとなじんでいく。

たとえるのならそのように、多分、わたしはこの世界に溶け込んだ。

または、ウールの手袋越しに握る雪のつぶてを、徐々に手袋にしみ込ますように、わたしの持つ熱でもって、溶かす。

人が何かになじむとき、加わるとき、自らの熱を放ち、それで自分を包む微かなバリアを作る。

それが徐々に周囲に溶け、熱を失い、なじみ、同化していくのではないか。

そうしてなじんだ人は、外へ熱を放たなくなる。

肌になじんだ空気に、それ以上溶ける必要はないから。

そんな風に、わたしはこの世界に染まったのではないか。息づいているのではないか。

そんなことを思う。

肌に優しい、柔らかな空気。雰囲気。そして、自分を取り巻くそれらにひやりとするときがある。

なじみ切れていないわたしの何かが、自らの熱との温度差に驚きの悲鳴をあげる。

急いで熱を放たないと。溶けていかないと。早くなじまないと。

そんなことにきりきりする自分。

いまもわたしは、そんな自分を抱えている。

ガイのそばにありながら、彼に愛されながら、そんな自分を持て余しているのだ。

 

エドワード王子が軍の最高地位に立ったのと同じく、じわじわと波が寄せるように、その後見役を務めるガイの日常もこれまでとは違い、やや忙しげになった。

大学の講義、そして研究それに加え、四日に一度は軍の会議などがあり、王宮へ足を運ぶのだ。

会議はごく短時間で終わるときもあれば、深夜を過ぎることもしばしばあった。

長時間に及ぶ会議のとき、ガイは何をしているのか、折に触れ尋ねると、誰かの意見に耳を傾ける素振りで、目を伏せ、煙草をくわえ、別のことを考えているという。

「数式であったり、目の前に座るアンブレア大将の軍服のボタンが、膨らんだ腹にいつはち切れるのだろうとか、いろいろ。退屈ですからね。僕には軍の作法など、繰言に聞こえてならない」

わたしのことは?

そう問いたかった。軽口に紛らせて。それを訊いてみたかった。

ゴブジス島から帰って以来、にわかに忙しげになった日常に、ガイは不平をもらしはしないけれど、やや倦んでいるように見えた。

ブルーグレイの瞳に微かな疲れを乗せる彼に、どうしてだろう、わたしはそんな冗談めいた甘えさえ口にできない。

「落ち着いたら、ウィンザーにでも連れて行ってあげますよ。ほら、ちょっと懐かしいでしょう?」

そう言ってくれる彼に、わたしは「そうね」とうなずく。

どうしてだろう。

彼に甘えることをためらってしまうのだ。

 

 

ある宵、王宮の広間で、軍の上層部を招いたディナーパーティーが開かれた。夫人同伴という形で、わたしもガイと共にその席に向かった。

雪が舞う冷える夜で、馬車で両手を組みながら、本当なら、邸の居心地のいい書斎で、手紙の整理でもしていたら、どれほど気が楽だろうと思った。

一日に自分に課したその手紙の整理の仕事を、今日は忙しく、まだ終えていなかった。そんなことでも、ちょっと調子が狂うような、軽く苛立つような気分がわたしの中にあるのだ。

手紙の束の中には数日前に届いた馬車のお礼の手紙が混じる。フィリップさんからのもので、チョコレートの箱と花束と共に届いたそれに、わたしはまだ返事を書いていない。

簡単な返事と花の礼を述べ、送るつもりだが、筆を取る気になれないでいた。軽い文中にちらりと込められた一部濃いようなメッセージがあった。それにわたしはためらっている。

何を書いていいのか、もしくは触れずにおくべきなのか、決めかねている。

「どうしたの? 機嫌でも悪いのですか?」

前に座るガイが組んだ脚を解き、わたしの手を取った。「暖炉の前で、あなたのシンガと同じようにのんびりとしていたいのに、そんな顔をしている」

頬を膨らませ、詰まらない表情をしていたのかと、空いた手で頬に触れた。その手も彼が取り、両手に握る。

「すぐに済みますよ。晩餐だけだ。そうしたら、すぐにでも帰りましょう」

「もし、軍の御用で、あなたが引き止められたら?」

「邸の誰かが死にそうだとでも、言えばいい」

「まあ、ひどい」

彼はわたしの手袋の手にキスをした。「今夜はいい?」

指の一本一本に唇を置いていく彼の仕草。

「あなたを愛したくて堪らない」

わたしは瞳を伏せた。頬に熱い恥じらいの熱がのぼってくる。「ねえ、僕を焦らす、意地悪なお嬢さん、今夜は逃げないでくれる?」

「ええ……」

月経があって、わたしはしばらく彼と肌を合わせていなかった。

今夜、彼のすべてがわたしを愛してくれる。

それにわたしが焦がれている。待ち切れないでいる。

うつむいて答えながら、頬が熱い。

 

晩餐の席の話題は社交界の噂話や、それからアンブレア大将夫人が、わたしの『夫人の会』での発言までも話題に乗せ、それにガイはにやにやと笑い、ワイングラス越しにわたしを見つめた。

「レディ・ユラは、それは控えめで、おしとやかな方ですわ。アシュレイ伯爵。素敵なチャーミングな奥さまでございますわね」

夫人の続くお喋りは、いまだ笑みを浮かべたままのガイに振られ、堪らない恥ずかしさで、わたしは隣りに座った、ラップ中将に「奥さまは大変、お優しい方でしたわ」などと、おべっかを使って誤魔化した。

ラップ中将夫人の記憶は、わたしの中にはほとんどないというのに。

会話が点々と移った。

居心地の悪さが、違和感となり、取り繕って浮かべた笑みや口にした言葉に、じわりと疲れを感じる。

晩餐が終わると、王子がガイを招いた。

男性陣は別室に移り、婦人方はサロンに向かい、軽くお茶をいただくのだ。

小一時間ほどの後、帰り支度を始めた夫人方に倣い、わたしも続いた。銘々に馬車の手配や、または互いにお茶の会などを誘い合っている。

「レディ・ユラも、ぜひいらっしゃいませんこと?」

「ええ、ありがとうございます。嬉しいですわ」

笑みを浮かべ、そんなことを返しながら、きっとそのお茶の会の時期には、わたしは急な風邪でも引いているだろうと思った。

場に何とかなじもうと、わたしの体はきっと熱を放ったに違いない。そのためか、からからに乾くように、喉が渇いた。

そんな努力を払うわたしは、周囲から却ってひどく浮いているのではないか。

それぞれ男性がその夫人を伴い、パレスを後にする中、わたしは一人残った。

ガイが来ない。

ホールの長椅子に掛けながら、既にコートも纏い、わたしは軽く膝を抱いていた。

メイドが通り、「お煙草をお持ちいたしましょうか?」

「いいえ、ありがとう。吸わないから」

「では温かいお飲み物をご用意いたしますわ」

代わりにと運んでくれた、軽くハーブの匂いのするお茶を、一杯ゆっくりと飲み干すころに、ガイが駆けて来た。

「申し訳ない。あなたを一人にして」

「ううん」

ガイは今から軍とは別の会議があり、そちらに顔を出さなくてはいけなくなったという。彼がエーグルで負った傷の賠償を正式に国としてエーグルに求めるべきだという意見が、下院の議員から出ているらしい。

「馬鹿馬鹿しいことこの上ない」

よほど嫌気が差すのか、珍しく吐き出すように彼は言う。それらをこれからの会議で、反対派の連中で押さえ込まなくてはいけないというのだ。

「申し訳ない。できるだけ急いで帰るから。遅かったら、待たずにあなたは眠っていたらいい」

ガイは軽く、わたしを腕に抱いた。

その抱擁に、少し拗ねるような気分が持ち上がる。

抱いてくれると言ったのに。愛してくれると言ったのに。

彼のシャツにほんのりとわたしの口紅が移った。敢えて、わたしが軽く残したのだ。ジャケットの内側に隠れる場所に、わたしが残した。

 

邸に帰り、でバスの後で夜衣に着替えた。すとんとしたレースの施されたそれを身に着け、シンガを抱く。

寝室の時計は十二時を指した。ガイはまだ帰らない。

抱いたシンガの重みに腕が痺れるように感じ、床に下ろした。何となく、もう一度髪をすくために化粧室のドレッサーに向かう。

黒い髪のわたしが映った。それを黒い瞳が見ているの。

几帳面にブラシを使い、肩を覆う髪に滑らせる。

「違和感」

鏡の中のわたしの唇がそう開いた。

なじむために、体が放った熱のために疲れるのだと思っていた。エネルギーが要るのだと。

けれど、こうして鏡の前に自分の姿を映すとその他にある、もっと根本的な理由が目に付くのだ。

今夜集った人の中に、わたしと同じ髪や瞳の色をした人などいなかった。

今夜だけではない。

この世界で、わたしは黒い髪と瞳の持ち主に、会ったことなどあったろうか。

「いない。そんな人、いなかった……」

ブラシはことりとドレッサーの上に、香水の瓶の横に落ちた。

一人があっただけだ。たった一人の人。

フィリップ・デクスター子爵という彼。彼以外いなかった。

『わたしたちには、何か大きな共通点があるように思えてならない』

彼はそう言った。そして、だからわたしに魅かれると。恋でもないのに魅かれると、彼は言うのだ。

瞳と髪。その黒が彼との共通点。

彼のくれた手紙にあった一文に『あなたの髪と瞳に、わたしは強く魅かれているのです。その理由を、ぜひ解き明かしたい。二人の間にそれ以外の共通な点がないかを知りたいのです』とあった。

返事ができないのは、心の底に他にも何か似通ったもの、相似では説明のつかない点に気づくのが怖かったから。

それはわたしが常に心に置く幾ばくかの違和感の、本当の意味に通ずるような気がする。

わたしは、この世界の人間ではなかった。

唇に置いた指は、きんと冷たい。感覚の消えるほどに。

「お嬢さん」

ガイの声にはっとなる。

彼が寝室に続く扉から、入って来た。会議を終え、帰ってきたのだ。

彼はジャケットを脱ぎ、傍らの椅子に放った。わたしはそれを取り、奥のクローゼットへ持って行こうとした。アリスやメイドの仕事であるけれど、彼女らの目につかない範囲で、わたしは自分で片付けてしまうこともある。

「そんなもの放っておきなさい」

彼がわたしの手から、ジャケットを奪い、またその辺に放る。背を屈め、唇を重ねた。すぐに腕を腰と脚に伸ばし、抱き上げた。

ふわりとする、その浮遊感。わたしはガイの胸にうっとりと頬を当てた。

「もしかしたら、今夜もここで愛してほしいの?」

「嫌だわ、ガイ」

からかうガイに、わたしは頬を膨らませた。

ベッドに下ろされ、重なる。彼の吐息を感じるほどに近くなる。

「ねえ、暗くして…」

彼が伸ばした腕が、明かりを消した。

 

強く愛してほしい。

何度も重なって、不安を消してほしい。

愛撫にもれた声に、わたしは指を噛んだ。痛むほどにきつく。

「いつまでも、あなたは可愛らしい。はにかんで、愛らしい」

果てに彼がわたしを腕に抱き、髪を指に絡めながらささやいた。

不意に思った。彼との間に子供ができた場合の、その子の髪と瞳の色を思うのだ。

それはきっと黒だろう。フィフティ・フィフティではなく、それ以下の確率でもなく、きっと黒なのではないか。

そんなことが頭を支配する。

フィリップさんは手紙で告げていた。自分の家系では、かなりの率である現象が出るのだと。

『ある現象』とは、何だろう。気味が悪い。

彼の告げるそれまでが、共通するのではないかと、心が震えるのだ。

『ある現象』とは何だろう。

とても気味が悪い。

払い切れないその思考を、わたしは彼の肌で払う。胸に腕に、指に。媚びて甘えて、やんわりと噛む。

「どうしたの?」

ガイがわたしの様子に、ちょっと怪訝な声を出した。

「寂しいの」

「どうして?」

彼は軽く笑う。「足りないの?」。そう彼がささやいた言葉に、わたしは頬を熱くした。はにかみながら、また唇を寄せるのだ。

そうしないと、次第に胸を占めつつある怯えに、泣いてしまいそうになるから。

なのに、ほら、涙はもう生まれかけている。

彼が髪に絡めてくれる指、または温もりを与えてくれるその腕にしんなりと寄り添いながら、わたしはやはり口にできないでいる。

心の暗がりを。




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