月のマーメイド 彼女のブルー
（6）
予定まで間のある、ちょうどぽっかりと空いたような午後に、わたしはいつもの習慣で調理場へ向かった。
広々とした空間。きちんと整えられ、あるべき場所にあるべきものがある。大きな中央の調理台、その上に、幾つもの磨かれた鍋類がぶら下がる。壁一面の食器類を収めた棚が並び、オーブンとグリル台が続く。
一人調理台で書き物をしていたコック頭のバーナードが、わたしの出現に椅子から立ち上がった。
「ああ、奥さま。アトウッドさんからお聞きしました。今夜のお食事は、王宮での晩餐会で、旦那さまがお留守ですから、お一人分でよろしいのですね」
「ええ、そうなの」
でっぷりと大きなおなかを白衣に包み、朗らかな笑みを浮かべた彼は、先ほど書いていたものを、わたしに見せた。それは晩餐のメニューで、わたしが毎日目を通すことになっているものだ。
一人だからと軽めに頼んだのに、やはり彼の考えるメニューは、一品多いように思う。メインが二つもあるのだ。
わたしはいつもそれで、彼のメニューからいずれかを削る。ガイも大食する方ではないし、わたしもそう。
バーナードは、それにいつも同じく「いけませんね、お若い方々が、そんなに食事をお減らしになっちゃあ」とグレイの目をしょぼつかせる。
今回も鶏肉のワイン煮込みを外し、魚の焼き料理だけにしてもらう。
彼の料理は腕もよく、おいしい。
アトウッド夫人などは「バーナードさんは、味見が過ぎるのでございますよ。一さじでわかるものを、二さじも三さじも。それで、あの身体が出来上がったのでございますよ」などと、呆れたように、からかうようにこぼすのだ。
「この煮込みは絶品でございますよ。最近研究したソースを使いますもので」
新しい鶏肉のレシピに未練があるのか、そんなことを言う。十分に味見をしたらしい。
わたしはそれに、
「ガイの、旦那さまのいらっしゃるときにお出ししてほしいの。きっとお喜びになるから」
そう返した。
それからスープストックの味見をして、それについて少し話し、調理場を出た。
仕度にかかるにはまだ早いと思ったけれど、寝室に上がった。
衣装を選び、化粧を直してから、髪と着付けのために呼び鈴を鳴らした。ほどなく現われたわたし付きのメイドのアリスに、それらを頼んだ。
「馬車のお仕度を先に致しましょうか？」
ブラシを手に仕掛けた彼女が、ドレッサーの前に座るわたしに問う。それにわたしは首を振った。後でいいと言った。
「午後のお出掛けは、王宮のジュリア王女さまのサロンでございますか？」
垂らした髪を結い上げていく彼女の指を、何となく鏡の中で追いながら、わたしは答えた。「違うの。今日はそちらで会ったお友だちのご婦人に、お茶に誘われているの」
そんな嘘を言う。
わたしがジュリア王女の許へ出掛けるのは、今日のようにガイが大学にいるときだ。だから、そう思ったのだろう。
アリスはうんうんとうなずき、「寒くなるようですわ。お早めにお帰りになった方がよろしゅうございますよ」などと、嘘をつくわたしに優しいことを言ってくれる。
「そうね、ありがとう」
本当は、フィリップさんに会いに行くのだ。
彼がわたしの前に投げた、謎のような言葉の数々。それが喉や胸に魚の小骨のようにつかえ、気持ちが悪い。
怖さに怯えるのではない。気味が悪いのだ。
徐々に広がる疑問の悩ましさに、わたしはとうとう彼への手紙を書いた。すぐにそれに返しが来、ごくプライベートな内容でもあるから、ぜひお会いして話したいと文面にあった。
それにわたしは困らない。その方が都合もいい。手紙のやり取りを延々と続けるのは、あまりに迂遠であるし、万が一誰かの目にでも触れたら、堪らない。
わたしはガイにだって、この件を話せないでいたのだ。彼が忙しいこともある、そして笑われたくないという思いもある。簡単に、からかういつもの口調で逸らされたくない。
これはわたしの根本の、この世界での存在意義の問題だから。
妙に考えを先回りし、自分の中で不安を煽っているだけなのかもしれない。けれど、思いは常にその辺りをぶらぶらと揺れる。
そして、フィリップさんが気にならないといえば、嘘になる。
彼の髪と瞳の色は、彼の言葉と共に、わたしを確かに引きつけるのだ。
ガイには言えない。
だって、あなたの髪も瞳も、黒ではないのだから。
馬車で彼の指定したホテルに向かった。
街路樹にもそして石畳の道路にも、うっすらと雪が見られた。御者のマークスも、「お早いお帰りがよろしゅうございますよ」と言う。
誰もが言った。執事のハリスも、アトウッド夫人も。
遅くなると冷える。雪が積もるかもしれない。そんな中無闇に外に出掛けては、またわたしは風邪を引き込むかもしれない。遅くなれば、ガイが機嫌を悪くするかもしれない。
まだ日が差す午後早くに、わたしはそのホテルに着いた。大きな石造りのホテルは、入り口辺りに人の出入りが盛んだ。
ドアマンがお仕着せの臙脂の制服で迎えてくれた。馬車を邸に返し、わたしはそのロビーに入る。
シャンデリアが煌く、重厚な雰囲気のロビー。ふっくらと靴先が床の絨毯を踏む。
少し早く来過ぎたかもしれない。
そう思い、それでもロビーで椅子に寛ぐ人々の顔を眺めていく。
どれほどそうしていたか、ごく短いように思えた。
「レディ・ユラ」
聞き覚えのある声が呼んだ。いつしかフィリップさんが現れていた。そこの出口に一番近くの席で、待っていたと、手の新聞でその席を指した。
黒い髪と瞳にしっくりとくる彼の黒のスーツ。
彼はボーイを呼び新聞を渡し、コートを取ってくれるように頼んだ。
「ここでは一目がありますから、郊外へ出ましょう」
ささやくように言う。
「あまり遅くなるのは困ります」
「とんでもない。そんなに遠くではありません。馬車の中で話しましょう。郊外の湖畔にホテルがあるのです。そちらのアネックスはひどく静かです。そこでわたしに、お茶とケーキをご馳走させて下さい」
それにわたしはうなずいた。
コートを纏った彼とわたしは、ホテルが用意した馬車に乗り込んだ。
いつかのように向かい合う。その密室は、ひどく密度が濃い。互いに秘密を持ち、それが共通するかもしれないわたしたち。
空気までが黒く色づくように思う。
おかしいだろうか。
フィリップさんは、ためらうように最初言葉少なだった。儀礼的に、けれどこれまでのように爽やかにわたしの衣装や、髪と瞳を誉めた。
それにわたしは言葉を返さなかった。
そんなことを聞くために出掛けて来たのではない。そんなお世辞を聞くために、あなたとこうしているのではない。
そんな硬い表情が出たのだろうか、彼はちょっと口元を緩め、手袋の手で顔を拭った。
「あなたがどんなに魅力的かが、お聞きになりたい訳ではないのですね」
「手紙にお書きになった件を、聞きたいのです」
馬を励ます御者の声。そして、ぱちぱちと窓を叩く硬い雪粒。
降り出してしまった雪。どんどんと明るい日が、翳っていく。
「では、言いましょう。決して他言はしていただきたくない」
そんな前置きをし、彼が口にしたのは、わたしの想像を超える言葉だった。
「わたしの家系には、必ず隔世的に狂人が出るのです。黒い髪と瞳を持った曽祖父の後の者に」
「わたしの母がそうでした。父は養子婿なのですよ。母はわたしを生んでからおかしくなった。歳を取るごとに深刻になり、とても外に出られるような状態ではなかった。自然、邸の奥に軟禁のような形で暮らすようになり、息子のわたしですら、数度しか会ったことがない。それほどに、人間らしさをなくしていたのです」
その母親は、十年ほど前に亡くなったという。わたしは冷たい指を絡め、膝に置き、ひざ掛けの中に滑り込ませた。
彼が付け加えた言葉は、わたしの胸に突き刺さるようだった。
「母は、もちろん髪も瞳も、黒でした」
「……そう」
彼の話の内容に、何を返せようか。何を言えば相応しいのか。
結局、わたしはもう一度、「そう」と相づちのように返しただけだ。
彼の黒い瞳は瞬いて、わたしを見据える。膝に手を置き、ひざ掛け越しに、組んだわたしの手に触れた。
「落ち着いて、お聞き下さい。そして、お答え下さい。あなたはもしや、どこか、マキシミリアンではない場所、別の国とか……にいらっしゃったことがあるのではないですか？」
「え」
「おかしなことを訊くとお思いでしょう。申し訳ありません。曽祖父がそうなのです。詳しくは教わっていません。けれど、彼は別の場所で生活をし、それからロールズ・バリーの領地に住まうことになった」
わたしはそれ以上、彼の話を聞いていられなかった。
背筋を悪寒が走り、肌は粟立ち、寒さに震えるように、歯の根が合わずにいる。
恐ろしかった。
このときに及んで、わたしは始めて恐怖を感じた。
紛れもない共通点。フィリップさんの曽祖父とは、きっと、わたしと同じ……、別の時空の人間なのでは……。
わたしはいつしか、膝掛けから手を出し、それで顔を覆っていた。涙が溢れた。
それが、ウールの手袋をにじませていく。指先が涙で染まる。
彼の言葉はまだ続く。それはわたしを逃げ場のない、どうしようもない終着点に追い詰めた。
「祖父から聞きました。曽祖父のその他所での経験が、我が家に恐ろしい病気を持ち込んだのだと。逃れようのない病を」
言葉が途切れた。
わたしはもたらされた恐怖に怯え、震え、受け止めきれずに代わりに嗚咽に紛らせた。
「ひどいわ、ひどい……」
「失礼しました。こんなにあなたを動揺させ、泣かせるつもりなどなかったのです。ただ、同じ苦しみを抱えるだろうあなたに、わたしという存在を知っていただきたかったのです」
「違うわ。わたしは……あなたの曽祖父さまとは……、違うわ」
彼の腕が、わたしの涙でぬれる手を取った。強く引寄せた。「違わない」と。何度も、繰り返した。
「同じではないですか。この髪も、そして……」
彼の手が、わたしの泣き顔を挟んだ。一方の指で、髪を涙で頬に張り付いた髪の筋を掻きやる。
「この瞳も。わたしと同じ色をしている」
「……それだけ、だわ」
逸らさない、逸らせないほどに凝らした瞳が、目の前に、すぐそばにあった。それは夜の闇のようにしっとりとした黒。
彼は言う。自分の他に、この色をした髪と瞳を持つ者に、会ったことがあるかと言う。
「いないでしょう？ いる訳がない」
わたしは瞳を伏せた。彼の強く、そして黒い視線を受け続けることが怖い。ひどく恐ろしかった。
やや伏せたわたしの顔を、彼の両手が上に向かせた。
「あなたに、わたしは会いたかった。おなじものを持つあなたに」
彼の唇がわたしのそれに重なった。
逃れる思考も、避ける力も、わたしは持たなかった。
どんどんと、どこかに自分は落ちていくのだ。
そんな感覚が心を満たした。
