月のマーメイド 彼女のブルー

7

 

 

 

唇が離れたとき、わたしはようやくはっとした。

しかし、囚われたようにフィリップさんの腕の中にいた。肌に感じるほどに近くにその黒い髪があり、その黒い瞳は、瞬きの狭間にわたしを見つめるのだ。

「あなたに強く魅かれるその気持ちの根源には、わたしと同じものを背負う運命がある。そのように思えてならないのです」

言葉にならない。

降るようにわたしを包む恐怖と戸惑い。それらを言葉にすることなど、できない。

だから、わたしは低く嗚咽を殺しながらも、涙を流し続けた。

 

彼がわたしを誘ったホテルは、湖畔に建つためか、しんとした冷えを感じた。馬車から降りる際に雪が舞う湖の端を、目にすることができた。

周囲を林に囲まれた深いグレーの湖面は、風に緩い波を立てている。その上を、何か知らない白い鳥が飛翔していた。ときに高く、ときに低く。

ホテルは、冬の時期のためか、やや閑散としていた。湖にせり出して建てられ、寒々しい印象があるためかもしれない。

深い紺の絨毯を敷き詰めたロビーに入っても、背中の悪寒がなかなか消えないのだ。

涙の跡を直して化粧室から戻ると、フィリップさんがわたしに手を差し伸べた。

「邪魔が入らずにこのレディとお話がしたい。静かな場所を頼む」

フィリップさんは、ややわたしを気遣うようにボーイにそう言った。うなずいたボーイの案内で、ロビーからずっと奥にある、ゆったりとした応接間に辿り着いた。

長椅子があり、テーブルに書架、飾り棚、そして広く取られた窓からは、これでもかというほどに冬の湖が目に入る。ホテルの常緑の木々がそれを縁取る。

マントルピースに火が入れられた。ばちばちと薪の燃え始める音。その暖かさを持つ音が、今は冷えて聞こえる。熱を感じない。

届けられたお茶と、スタンドの幾つものケーキ類。そして、二人きりの冷たい空間。互いの黒の髪と瞳。

椅子に掛けたまま、指を組み、辺りに虚ろな視線を流すわたし。

目の前の椅子に掛けた彼が、カップのお茶を勧めた。暖まるからと。

「レディ・ユラ、あなたはひどく寒そうにしていらっしゃる。お飲みになったらいかがです?」

「ええ……」

ティーカップを取った。薄めのお茶の表面に揺れるわたしの影が映った。

一口飲み、少し減ったお茶にも、やはり揺れるわたしが映る。

フィリップさんは立ち上がり、そのまま窓辺に向かう。やや外の風景を眺め、つぶやくように言った。

「ロールズバリーに似ている。冬の領地と同じ色をしている」

そうしてわたしに振り返り、自分の領地には森に囲まれた湖があり、冬にはこのような寂しげな冷たい色をするのだという。

「マキシミリアンでの滞在には、ここを使うことも多いのですよ。何となくこの湖の色が好きなのでしょう。浮き立った気分も、この色を見ると、冷えるのです」

だから好きだと言う。

「どうして?」

それに彼はちょっと自嘲気に笑った。口の端をやや上げ、すぐに笑みを消す。「似合わないから。わたしには忘れてはいけないことがあるでしょう?  激しい恋も、婦人への優しい思いに夢見るような気分も。わたしには相応しくない。本来の自分を教えてくれる。だから、好きなのです」

彼の告げたいことが痛いほどわかった。わたしは彼のその後の沈黙に、「ああ」と嘆息した。

隔世的に現われるという、彼の家系の病。彼を生んだ母親の身を襲ったのならば、次は彼の子供に現われる。

「でも、わからないわ。あなたの将来については……、まだ何も」

上滑りな慰めを口にしていると思う。心を冷えた氷室に入れながら、それを自覚しながら放つわたしの気休めは、ひどく気持ちがこもらない。

「ええ、わからない。その通りです。だから、母も祖父も子をもうけた。曽祖父ジリアンの病が遺伝するかはわからないと、自分は大丈夫だと」

「あなたの曽祖父さまも……? その病気を……」

フィリップさんはうなずいた。

わたしと同じような体験をしたらしい彼の曽祖父。そのジリアンという男性が病の原因となったと彼は言った。そこから彼の家系に恐ろしい奇病が現れるようになったと。

けれど、そのジリアンさん本人もが、同じ奇病に倒れたのだとは聞かなかった。

「そう……」

わたしは腕を抱いた。寒い。とても寒い。

立ち上がり、火の燃える暖炉のそばに行く。頬がその熱で炙られるのに、どうしてだろう、芯からは暖まらないのだ。

恐ろしさとのためだ。けれどわたしは、その恐怖の先を考えることを、心が拒絶している。

怖いだけならいい。

耐えられる。

けれど、その先を考えたくない。

考えようとするだけで、体が震えるのだ。

それはガイとの別れを示す。その想像をちらりと頭の隅に乗せただけで、震えが止まらない。

かちかちと触れる歯の音。それを止めるために、わたしは指を噛んだ。きつく噛んだ。

いつの間にいたのだろう。フィリップさんが、後ろからわたしを抱きしめた。「一人で抱えないで下さい」

「止めて。離れて下さい」

彼の腕に込める力はきつくなった。身をよじり「わたしは人妻です」、そう口にした。

その言葉に、どれほどの重みがあるのだろうか。

空疎なその言葉を、彼が打ち消す。「アシュレイ伯爵の髪の色、瞳の色も、あなたのものとは違うではないですか」

突きつけられたその言葉は、後ろから抱きしめる腕の力と共に、わたしの胸を貫いた。

貫いて、力任せに捻り、そして抜き去るように、彼はその言葉を締めくくる。

「あなたにはきっとわたしが相応しい。同じものを持つわたしが。わたしにも、あなたが相応しい。何が起ころうとも、わたしは恐れない。その結末も、…そして始末のつけ方も、知っているのだから」

 

 

邸に帰ったのは、深夜に近かった。

雪道に馬車が車輪を取られ、そして慣れない御者が、その対応に手間取ったこともある。

そしてわたしが、帰るのをためらったためもあった。

ガイに会うのが怖かった。

彼の髪の色や瞳の色を見るのが怖かった。自分と違うわかり切ったそれらを認めるのが、辛い。

それらを、眼前に突きつけられることが、堪らなく恐ろしかった。

別れを示すから。

それはわたしが、ガイのそばにいることを許さないから。

ハリスの迎えで邸のホールに立つと、ほどなくガイが現われた。

いつ帰ったのだろう。着替えもせず、晩餐会のディナージャケットをいまだ羽織り、襟元のタイを緩め、シャツのボタンの上を一つ外している。

手で口元を覆い、わたしを困ったように眺めた。ややして口を開いた。「こんなに遅くまで、どこへ行っていたのです?」

「ごめんなさい。遅くなって……」

彼はわたしの腕を取った。

「僕だけじゃない、皆があなたを心配していたのですよ。さあ、どこにいたのか言いなさい。ジュリア王女のところだなどとの嘘は通用しませんよ」

ガイの声はいつになく厳しいものだった。それに、わたしへ向けた彼の心配や怒りを感じる。

わたしはうつむきながらも、馬車の中で考えてあった口実を、すらすらと述べた。王女の許で会った遠方に領地を持つ子爵夫人が滞在しているホテルに招かれたというものだ。ホテルは実際に行ったあの湖畔のホテルの名を挙げた。そして、馬車の具合が悪くなったことも。

偽りに事実の一つ二つを混ぜる。それだけで口調は滑らかになり、信憑性も増す。

わたしはいつからこんなに嘘が上手くなったのだろう。

ガイはそれを聞き、わたしの下を向いた顎を指で持ち上げた。

そこには当たり前のように、ブルーグレイの瞳があった。少し凝らした、ガイのほんのちょっと機嫌の悪いときの癖。

「どれだけ心配したと思っているの?」

「ごめんなさい、こんなに遅くなると思わなかったの……」

彼の瞳の色、それが悲しかった。

いつだってわたしに優しいその色が、こんなにも悲しいなんて。

溢れたわたしの涙に、ガイが慌てた。「どうしたの? 僕は怒っているのではない」

指の腹でそれを拭ってくれながらも、傍らのハリスに「奥さまはお疲れだから、バスの用意を頼む」

彼はそう言って、わたしを抱き上げた。

「暖かくして休みなさい。あなたの頬は氷のようですよ」

声がさきほどの問い質すようなものから、いつもの柔らかい響きに変わった。

寝室に運んでくれる彼の腕の温かさ、そして居心地のいい質感に、涙が止まらないのだ。

この腕を失うのは、どうしても嫌。

離れるのは、嫌。

脳裏にフィリップさんの言葉はこびりついて消えなかった。同じ宿命を持つ自分が相応しい、そして彼にもわたしが相応しい。そう断言した彼の言葉は消えない。

けれど、けれど、どれほどの思いで、次元の別側の世界で、わたしはガイと離れた間、どれほど彼に焦がれていただろうか。どれほど切なさに胸を痛めただろう。

とても離せない。

とても断ち切れない。

人を傷つけて、それでも選んだ彼への思い。

それを自分から解放することの壮絶な痛みは、きっとわたしには、貫けない。それほどに強くない。

「どうしたの? 困ったお嬢さんですね」

ガイが寝室のベッドにわたしを下ろしてくれた。「僕が怒っていると思ったの? それで怖かったの?」

床に膝を着き、わたしの顔をのぞき込むガイ。わたしは涙以外の答えを返せないでいる。

アリスがバスの用意が整ったと告げた。

彼はそれにうなずき、わたしの涙にぬれた頬に手をやった。「さあ、この冷たい頬を暖めていらっしゃい」

それでもわたしは腰を上げず、彼にもたれ泣き続けたままでいる。着替えを手伝うために残るアリスに、

「奥さまのご用は僕がするから、いいよ。下がりなさい」

そう声をかけた。

彼女はきれいにお辞儀をして下がった。きっとガイの言葉をまた、無邪気に朋輩に触れ回るのだろう。それはきっと若いメイドたちの一時の大きな話題になるだろう。

いつもなら、恥ずかしさで身の竦むようなガイの言葉が、このときは気にならなかった。

二人になりたかった。

彼に甘えたいと思った。

縋るほどに甘えて、胸の黒々とした恐ろしい苦しみを、和らげたいと思った。

それは逃げでしかない。結論を先送りにするだけの、目くらましのような方便でしかない。

けれど、この彼の前で、それ以外の何を思えるのだろう。

ガイの手が後ろに回り、わたしのドレスのフックを外していく。外し終わると、彼はわたしを立たせ、ドレスを足元にすとんと落とした。

わたしは彼に緩く抱きつき、その指の仕草にしんなりとしている。

コルセットを外し、ペチコートを取り、薄いスリップだけになったわたし。ガイがわたしを優しくそのような姿にした。

「おとなしいね。あなたは愛らしい人形のようだ」

ガイになら、わたしは人形のようにでもなりたい。あなたが好むのなら、きれいな人形にでもなりたい。

彼はわたしを抱きしめて笑った。吐息に混じるちょっと軽い笑い声。

「僕の声はそんなに恐ろしかったの? ねえ、甘えん坊のお嬢さん」

むき出しの肩に彼の唇が這う。

わたしは答えない。ただ微かに首を横に振る。

「このまま愛してほしい?」

わたしは微かに首を縦に振った。

バスより彼の熱で、わたしを温めたいと思ったから。

少しでも多く、あなたとつながっていたい。

その身体の記憶は、わたしのどこに刻まれるのだろう。すべてを失い、正気さえも手放した果てにも、その記憶は残るのだろうか。

ときに甘く甦るのだろうか。

そうであってほしいと願い、けれどそれはあまりに残酷なわたしの幸福の抜け殻であるとも思い、辛過ぎるとも感じる。

きっと、いかなる果てにも、わたしには選べない。

ガイを失った先の未来。わたしにはそれは闇でしかないのだ。

何もきっと見えない。




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