月のマーメイド 彼女のブルー

8

 

 

 

柔らかな日の光が指す午後、わたしは温室にいた。

部屋に飾る花を切るのだ。鋏を持ち、幾つか選び、必要な分を切り腕に抱えた。

四季咲きの珍しい八重の薔薇が気に入り、どうしてもそればかりになる。

アイボリーのもの、淡いブルーを帯びたもの、そしてクリームイエロー。それらがクリスタルの、または陶器の花瓶に活けられ、寝室にあると嬉しい。目覚めたときに、ベッドに着くときに、用があり化粧室へ向かう際に、目に入ると嬉しい。

ガイが寛いで本のページを繰る書斎にも活けよう。

一人で温室にいると、かつて、わたしと同じような仕草をしていただろう女性を思い出す。最近はよく頭に浮かぶ。

ベルベッド地のような花弁の、派手やかな大輪の薔薇を好んだというレディ・アン。赤や濃いピンクのそれを、彼女は大振りにセンスよくまとめ、豪奢な花瓶に惜しげもなく活けたという。

それはそのまま彼女という女性を表す。誰もの目を引かずにはいられない、輝くばかりの存在。

一方、わたしは花びらの小さなものを好み、その色も淡いものを選ぶ。花はさりげなく目に入ってほしいと思うから、あまり多くを一度に花瓶に挿すのを避ける。

そしてそれは、わたしという女を示すのだろう。

控えめで、存在は淡く、その色は寒々としている。

わたしという女そのもの。

心の奥に冷えた溶けない氷をはらんだ、わたしという女そのもの。

なんという対比だろう。

あまりにセルフィッシュなレディ・アン。不潔でいやらしい内奥を持つ彼女。

そんな彼女でも羨ましいと思った。

強く、そんなことを思う。

軽蔑し、心の底から関わりたくないと思う彼女が、今は羨ましい。その身と代われるものなら代わりたいと願うのだ。

ガイにまつわる、この邸の伯爵夫人の二人。わたしも、彼女も。ガイに相応しくないという点では同じではないか。

違う点は、彼女が黒い髪も瞳も持ってはいないこと。

だから、羨ましい。

 

穢くても、汚れていても、羨ましい。

 

結局、ガイに知られずに去ることを、わたしは選んだ。

いずれ、わたしがわたしではなくなるかもしれない。あなたには大き過ぎる迷惑を掛けることになるかもしれない。

その可能性だけで辛い。その可能性は、もしかしたら低いのかもしれない。僅かなのかもしれない。

けれど、その可能性があるだけで怖い。

それを思うだけで、胸が潰れそうになる。やはり、それが辛い。

ガイには、わたしとの結婚で、少しでも幸福であってほしいのだ。わたしはあなたに幸せを捧げるために妻になった。

そのわたしが、それを果たせないのなら、いられない。

あなたのそばには白い、いつまでも白い女性が相応しい。

心の中で迷って苦しんで、出した結論は、わたしの運命だということ。

わたしだけの、わたしのみが負うべき運命なのだということ。

 

「ユラ」

不意に、扉の方からわたしを呼ぶ声がした。振り返ると、そこにはジュリア王女が立っていた。

いるはずのない彼女の突然の出現に、わたしは手の薔薇を、床に数本落とした。彼女の傍らには、珍しく困った表情を見せる執事のハリスがいる。彼のそんな落ち着かない様子を見たのは、きっと初めてだろう。

つかつかと彼女は温室に入り、わたしのそばに来た。

濃いグリーンの衣装の腕を伸ばし、わたしの頬をその指でつねった。

「嘘つきは嫌いよ。不快だわ」

眉をしかめ、きつい視線を向ける。彼女のブルーの瞳は人の心をのぞく。これまでの付き合いで、その瞳の凝らし具合から、思考を読もうとしているときの彼女の瞳の色がつかめるように思う。

相手の心のすべての情報がこぼれるのではなく、彼女が求めるものがほろりとその瞳に映るのだそうだ。

わたしは彼女のサロンでの絵のレッスンを、続けて三回破った。風邪を引いたと嘘をつき、出掛けるのを拒んだ。

ガイには少し気分が悪いと、こちらも嘘をついて誤魔化しておいた。最近は、嘘ばかりついている。

嘘をつかない日など、今のわたしにはない。

王女の強い瞳の色に、わたしは心を虚ろにするようにして、読まれるのを避けた。それで避けられるかはわからない。そもそも彼女との約束を破ったのも、彼女の持つブルーの瞳の不思議な力が怖かったからだ。

今のわたしが抱える、さまざまな戸惑い、そして恐怖、運命。それらを暴かれるのが怖い。

ううん、何よりそれが原因で嫌われたくなかった。

この世界で得た、唯一の友人ともいえる彼女に、わたしは嫌われたくなかった。

気取らず飾らず、そして優しい。どこか気品と凛としたものを感じさせる彼女。そんな彼女を、わたしは好きだった。

そばにいられることが誇らしく、嬉しく、そして楽しかった。

「ごめんなさい。ちょっと……、気分が悪かったのです」

どうしても視線が伏せがちになる。そんなわたしを、しばらく彼女はふうんと眺めた。

そして、まるでガイのようにわたしの顎をちょっとつまみ、上を向かせる。

そしてつぶやくように、けれどはっきりと彼女は口にした。

「黒いものが見えるのよ」

 

彼女の言葉にわたしはうろたえ、心の戸惑いを露にした。それらはもしや、彼女の瞳には、黒が溢れたように見えたのではないか。

「あなた、何を抱えているの?」

途端に彼女の表情が曇った。わたしは、ハリスに下がってくれて構わないと言った。

ちょっと深呼吸をし、王女から身を背け、手の薔薇をテーブルに置いた。喉がからからだった。

呼び鈴を鳴らすと、再びハリスが現われた。きっと廊下に出たところだったのだろう。

わたしは少し早いけれど、お茶の用意を頼んだ。

「どちらにご用意を致しましょう?」

「ええ……、こちらで、いいわ」

ハリスが消え、わたしは王女の視線を避けながら、彼女に椅子に掛けてはどうかと勧めた。

無理に頭の中に、用意されるお菓子のことなどを浮かべた。

スコーンに、フルーツケーキ、サンドイッチ……。

それらは足りるだろうか。王女はとってもお菓子が好きで、お茶のときはたくさん食べる人だから。もう一度ハリスを呼んで、多めに出すように言わないといけないだろうか……。

「あなたこそ、座りなさいよ、ユラ」

彼女の声が、わたしの無理に紡ぐ思考を止めた。

彼女はわたしの腕を取り、やや強引に椅子に座らせ、自分もその前に掛けた。ふわりと、そのときに彼女の纏う香水の柔らかい香りがした。

なじみのあるその香り。匂い菫のそれは、以前わたしがいい香りだと誉めたとき、彼女は何気なく分けてくれた。

その華奢な小瓶は、今も化粧室のドレッサーに置かれている。

「話して。何をそんなに悩んでいるのか」

彼女にはそんなことまでお見通しなのだ。隠せると思ったわたしが、うかつで、浅はかなのだ。

とっくにわたしは、消えているべきだったのかもしれない。

頻繁に届くフィリップさんの手紙が誘うように、彼の領地のロールズバリーにでも。

『わたしなら、あなたのすべてを包んで差し上げられる』、彼の言葉は、こんなわたしには、ひどく甘い。縋りたくなるくらいに甘いのだ。

同じ黒い瞳と髪を持つ彼、同じ苦しみを持つという彼に、わたしはちらっとも魅かれてはいない。

けれど、彼の伸べる救いの手が、ひどく胸をくすぐるのだ。

『ずっと孤独だったわたしに、あなたという最良のパートナーを下さいませんか? 二人なら、きっと恐怖にも打ち克っていられるでしょう。愛でなくていい。哀れなわたしへの慈悲を下さいませんか?』

迷いつつも、わたしの心は定まりかけている。

同じ色の髪と瞳を持つフィリップさんのそばで、互いの恐怖を慰め合い、手を握り生きることが、最良ではないのかと。取るべき道なのではないかと。

彼は、わたしの抱えるものを知っているのだから……。

少なくとも、わたしは彼の前では、自分の持つものを隠さなくていい。

 

お茶の仕度が済み、ハリスが消えた。

ぽつぽつと雨が、温室のガラス窓を叩き始めた。

テーブルに掛けられた清潔な麻のクロスが重なり、銀のポットと陶器のティーセット。お菓子はわたしが指図を出す前に、いつもよりずっと豊富にあった。

王女はさっそく、蜜のかかった薄いおせんべいのようなものをつまみ、それを口に運びながら、彼女はあっさりと核心を突く。

「あなたの中にある黒い髪と瞳の紳士の影。これは誰?」

わたしがそれに答えないでいると、王女は次の問いを口にする。

「どうしてガイと別れようとしているの?」

「ああ……」

そんなことまで見抜かれてしまった。すっかり身ぐるみを剥がれたような心。

おかしなことに、どこかで気持ちに風が抜けていくように感じるのだ。確かに、僅かにわたしは、さらすことで、楽になりかけている。

誰かに、きっと知ってほしかったのかもしれない。

言葉より先に、涙が溢れた。

「ユラ……?」

「ジュリア、しょうがないのですもの」

涙が引き出した言葉は、ほろりとわたしの唇からこぼれた。

王女の手がわたしの指に伸びた、ちょっと蜜でべとつく彼女の指が、わたしの指に絡む。

「言いなさい。困るのなら、ガイには話さないから」

彼女はフィリップさんの影の他に、わたしの中に何を見るのだろう。何を思うのだろう。

わたしの抱える黒い悲劇の可能性も、もしかしたら、彼女には見えているのだろうか。

そんな心をのぞかれたくないと思い、のぞかれたくないのではなく、彼女にそんなわたしを知られたくないのだと思う。

彼女の側の人間ではないと、存在を否定されたくないのだ。

恐ろしく、気味の悪い存在だと、嫌われたくないのだ。

わたしはうつむき、彼女に取られたままの手の甲に、涙を落し続けた。

「ユラ、あなたに何があろうとも、わたしはあなたを嫌ったりしないのよ」

王女は絡めた指に力を込めた。大丈夫だとささやく。

「あなた、一度でもわたしのみょうちきりんな瞳を、気味が悪いと思ったことないじゃない。すんなりと受け止めてくれたわ。あれは、とっても嬉しかったのよ。今度はわたしの番よ。何でも受け止めるから、おっしゃいな。あなたなら構わないわ、ちっとも」

わたしは嬉しいのだろうか。

それとも切ないのだろうか。

こんなにも深く優しさをくれる人と別れなければならないことが、悲しいのだろうか。

王女は唇をにっと横に伸ばして笑った。

「大体あなた、不思議なところから来た人ですもの。十分変なのよ。それ以上のことはきっとないわ」

わたしは喉につかえた、大きな塊が少しずつ溶けていくのを感じた。

それは流れ消えて、言葉になっていく。

 

すべてを話し終わるのに、どれほどかかったろうか。

案外のこと、短いのかもしれない。わたしはお茶をときに飲み、言葉を詰まらせ、または涙を流して話した。

抱えた胸の鬱屈を、悲しみと、絶望をすべて。

王女はそれを、濃いブルーの瞳を凝らして聞いてくれた。

「ガイに、迷惑は掛けられないの。わたしは、どうしようもなくおかしくなってしまうかもしれない。将来生まれてくる子供にも、その子供にも…、影響があるかもしれない。ガイに、きっとひどい迷惑がかかるわ。彼にそんな思いは絶対にさせたくないの。嫌なの、それだけは嫌なの」

声を上ずらせ、取り乱すわたしを「ユラ」と、王女が呼んだ。わたしはそれに応えず、首を振り、涙を流した。

「だから、どこかに行かないと。彼の知らないところに……」

「ユラ」

「早く、どこかに行かないといけないの」

彼女に話すことで、気持ちの整理がしっかりとついた。

一刻も早く、気弱な気持ちと、ガイへの執着で繰り延べにしていた予定を、実行しないといけない。ずるずると自分を甘やかしてはいけない。

明日にでも、行かなくては。

旅立つことが、一層辛くなっていく。

ぱちんと頬を軽く打たれる感覚に、はっとなった。王女の手がわたしを打ったのだ。

彼女は「しっかりしなさい」と言う。

「ロールズバリーにフィリップ・デクスターの領地なんて、ないのよ」

「え?」

彼女の言う言葉の意味がわからない。

彼女はぎゅっとわたしの手を自分のそれで包み、上下に軽く振った。

「ロールズバリーという土地は、ひどい湿地帯が多い王室の直轄領よ。白鳥が渡るところで、王太后さまがときにそれを見にいらっしゃるの。小さな離宮もあるわ。わたしも随分昔にお供したことがあってよ」

わたしは目を開いたまま、王女のブルーの瞳を見つめ続けた。

彼女は白い歯をのぞかせて笑った。

「フィリップ・デクスター子爵なんて、存在しないのよ、ユラ」

温室の窓を叩く優しい雨の音は、一時強くなった。




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