甘やかな月(9
 
 
 
朝晩の空気が一層冷たくなると、邸の庭の小さな池に氷が張った。
目覚めて、庭に下りたわたしは、薄いそれを手袋の手で触れる。
脆そうな氷をすくい、温室で新聞を読むガイに見せた。彼はわたしの行為が子供っぽいのか、おかしげに笑う。
ちょんと鼻の頭に触れ、
「赤くなってる」
「外の空気は冷たいもの」
「では、以前に約束したスケートにでも行きましょうか? 聞けばもう十分滑れるそうですよ」
「えっ、本当?」
「お嬢さんは、最近ワーカーホリック気味でしょう?」
ガイの言葉に思わず手を頬に当てる。手袋の冷たい感触にはっとする。
足元で、落とした氷がぐしゃりと砕けた。
 
 
頭には毛皮の帽子、首にもくるんと毛皮を巻いて、コートをしっかりと着込んだ。手には厚いミトン。
馬車から降りたわたしは、目の前の光景に目を見張った。
大きなスケートリンク。トラックで言えば四百メートルほどだろうか。中は白く凍り、気の頑丈な柵が取り巻いている。
リンクの周囲は木々が茂り、それは冷たい風と雪で白く樹氷の林を作っている。
大勢の人々がいた。若い人、子供、意外にも年配らしい人もちらほらする。皆厚着をして、思い思いにスケートを楽しんでいる。
リンクのそばで靴を履き替えると、もう駄目で、立っていられない。
柵に寄りかかり、そこから離れられない。
ガイが平気で氷の上に立つのが信じられない。
彼は子供のころからスケートには慣れているという。お祖母さまのお邸には近くによく厚く凍る池があったのだそうだ。
「さあ、お嬢さん。柵にしがみついていては、面白くないじゃないですか」
などと笑い、手を差し出した。
「駄目よ。だって、ガイまで転んじゃうわ」
「大丈夫。転んでも、僕を下敷きにすればいい」
「だって……」
「さあ、お嬢さん」
わたしはおずおずと彼の手を取った。でも、まだ片方は柵をつかんだまま。
ガイは意地悪にも、ついっと後ろに滑り、わたしの手を柵から引き剥がしたのだ。
行き場をなくしたわたしの手は彼の腕をとった。
そのまま、彼に抱きつく形になった。
「ひどいわ、ガイ」
見上げると彼の喉が大きく動いた。おかしくてならないというように笑う。
「あなたに教えてあげようとしたのですよ」
わたしを見下ろす彼のブルーグレイの瞳。それは微笑をにじませて、ほんの近くにある。
わたしだけを見ている。
 
そのままでガイは、わたしをリンクの中央近くに連れて行く。
「ほら、お嬢さん。ご覧なさい。あんな小さな子が上手に滑っていますよ」
ニットのマントを分厚く重ねた少年が、すいすい氷を走るのだ。
信じられない。
わたしは彼の背にぎゅっと手を回したまま、離したくなかった。転ぶのも怖かったし、彼にこうやって甘えているのは、ひどく気持ちがよかった。
そこここに、わたしのような女性の姿を見る。
ここでは公然と、スケートの不得手なか弱い女性は、パートナーに甘えることができるのだ。
 
ふと、声がかかった。
「先生、アシュレイ先生」
声のする方を向けば、どこかで見たような茶色の髪の若者がいた。コートを着て、ぐるりとたっぷりマフラーを首に巻きつけている。
「ああ、君か。ニール君」
「お嬢さんも、スケートですか」
ガイが小さくわたしに、大学の学生だと告げた。そこでようやく、少し恥ずかしくなって、彼から体をやや離した。
「彼女はスケートの初心者なんだ」
「何でしたら、僕がコーチをして差し上げますよ。これでも、ちょっとした腕前なんです」
ニール・ギャラウェイという彼の言葉に嘘はないのだろう。氷の上で、寛いだように、微動だにしないでいられるなんて。
その姿は確かにガイの言うように、大学で見覚えがあった。
「お嬢さんどうします?」
からかうようなガイの声。
わたしは微かに首を振った。きっと、ご迷惑だからと。
「そんなことありません。僕は……、その、ご婦人方に教えるのに慣れているんですよ。いいえ、変な意味ではなく。妹たちにも教えてきましたし、従姉妹にも教えたりしてきたから……、あの、大丈夫です。お任せ下さい」
彼の言葉はストレートに熱っぽく、ガイの前だからではない、わたしへの興味や好意を感じた。
それはこんな場所じゃなければ、嬉しかったかもしれない。
だけれど、それを、ガイの前で聞くのは少し苦痛だった。
「こうまで言ってくれるんだ。お嬢さん、彼にチャンスをあげてはどうですか?」
あっさりとしたガイの言葉。
それにわたしはひっそりと唇を噛んだ。
 
ニールさんは確かに教えるのが上手だった。
わたしの手を取り、徐々にスピードを上げていく。少しでもわたしが怖がると、すぐに彼は止まってくれた。
「下を見ないで、僕を見て下さい」
「……ええ」
「大学で、あなたが噂になっているのをご存知ですか? アシュレイ先生の秘書をする謎のご婦人は、ひどくかわゆらしくて、いつもふんわりとして優しいと」
「嘘だわ。お世辞でしょう?」
彼はそこでぶるぶると、大げさなほど首を振った。
ちょっとわたしを見る瞳を伏せて、皆あなたに憧れているのです、と言う。
そこで、わたしは笑ってしまった。
だって、おかしい。こんなハンサムな好青年がわたしにそんなことを言ってくれるなんて。夢というより、…おとぎ話かしら。
「本当ですよ。誰があなたを、晩餐会や舞踏会にご招待できるか、そのエスコートを許されるか、そんな話ばかりしてます」
「まあ……」
信じがたい言葉ではあったけれど、目の前の彼の様子は真実味があり、先だってのクリストファーの不遜な様子とはかけ離れていた。
だから、言葉を返せなかった。
わたしはまたうつむいて、つるつるするおっかない氷を目で追うのだ。
「ほら、お嬢さん、アシュレイ先生が手を振られてますよ」
ニールさんの言葉に顔を上げる。
リンクの柵にもたれて、ガイが煙草をくわえている。片手をこちらに振り、愉快そうにわたしたちを眺めている。
彼は何だかとても遠い。
どうしてだろう、急に風が冷たさを増した気がする。
「ねえ、お嬢さん、不躾ですが、こんな機会を与えていただけたんだ。僕と近い舞踏会に出てくれませんか? もちろん、先生のお許しをいただいてから。よろしいですか?」
ニールさんの声は、こんなにも近いのに。
 
 
ガイはニールさんの申し出をすんなりと了承した。「お嬢さんがよければ」と。
わたしはそれに返す言葉もなく、途方に暮れた。
それに、背を押すようなガイの言葉が届く。
「僕に構わずに、楽しんでいらっしゃい」
もうわたしは、うなずくしかない。
 
帰りの馬車は、涙をこらえて、でもそれを知られまいと陽気に振舞うわたしと、それを受けてか、ニールさんのことを誉めるガイの言葉が続いた。
「誠実ないい背年ですよ。家柄もよく、変な仲間もいない。あなたのお友達には、実にいい」
「ガイはわたしを厄介払いしたいのね」
この言葉を軽く口にしながら、わたしの心には、しっかりと大きな引っかき傷ができたように思う。それは自分で自分の心につけた傷だ。
痛かった。
「おやおや、そうではありませんよ。ただ、あなたはこちらの世界に来て、ずっと僕のそばにいた。もうそろそろ、別の視野を持ってもいいでしょう。いろんなことを知るのはいいことですよ」
ガイのそばにいるだけでいいのに。
わたしの心の言葉は、きっと声に出さない。それは深く心に沈んで、埋まって、澱んでいくかもしれない。
「マーガレットが喜びますよ。あれはあなたの衣装の世話をしたくて堪らないようでしたからね。舞踏会に出ると聞くと、飛び上がりますよ」
ガイの明るい声。
大好きな彼の声は、わたしの中でその朗らかさを失い、冷たい彼の拒絶に変わっていく。



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