甘やかな月(8
 
 
 
きんと冷えた空気。ウールの手袋の両手をこする。
吐く息は白い。
開けられた馬車に先に乗り込んだガイは、わたしに革手袋の手を差し出した。それがいつかの彼を思い出させる。
わたしをこの世界に連れて来てくれた彼。あのときも、こんな風に革の手袋に包んだ手を、わたしに伸べてくれた。
ブルーグレイの彼の瞳は、書物や、片付けなくてはいけない厄介ごとの他は、いつだってわたしに向けられているのだ。
その事実は、わたしをほんのりとした独占欲で包む。
「さあ、お嬢さん、どうしました?」
「ううん」
少しはにかんで、わたしは彼の手を取った。
 
彼の秘書という、ガイがわたしに与えてくれた日常は、彼のそばにいる時間を大幅に増やす、とても嬉しいもの。
朝食を共に摂った後、少し休んでから外出の仕度をして、ガイについて馬車で大学に向かう。
大学は邸から三十分ほどだろうか。その間わたしは窓からの景色を眺めたり、ガイとお喋りをする。
その日の予定などを彼から聞き、小さな手帳に記したり、秘書めいたことをやって、ひっそりと楽しむのだ。
 
彼の勤めるレザフォード大学は、幾つもの学部を持ついわゆる総合大学で、広大な緑のキャンパスにはそれぞれの学部ごとに堅牢なレンガ建ての学舎が点在する。
馬場や運動場などもあり、あまりの広さに、最初のころはガイと離れたり、一人で彼の研究室のある建物から出るのが、迷子になりそうで、恐ろしいほどだった。
それでも、少し通い慣れれば、時間の合間などにはちょっと別の棟に足を伸ばしたりすることもできるようになった。
まだらに雪の被ったキャンパス内を、黒やツイード、紺などの色合いのスーツ姿の学生が、ロングコートの裾をなびかせ行き交う。
見知った学生と会うと、彼らは慇懃にわたしに挨拶をくれた。
「お嬢さん、ご機嫌よう」や、「アシュレイ先生はお元気ですか?」など。
他に、彼らの邸が主催するパーティーなどに招待されることもある。
「アシュレイ先生のお許しが出たら、僕の母の催す舞踏会においでませんか? エスコートは、ぜひお任せ下さい」
自分と似たような年齢の彼らとの、ちょっとしたお喋りは気楽で、いつしかわたしも、それらを上手くかわしながら、完全に拒絶しない、女の子らしい駆け引きのようなものを楽しみ始めていた。
ガイはそんなわたしを知ってか知らずか、
「あなたが秘書をしてくれるようになってから、この部屋によく学生がやって来るようになりましたよ。なってない論文や、意味不明な質問を抱えてね」
などと、おかしそうに肩をすくめる。
「ハチドリのように愛らしいあなたを、こんなところに連れて来るのではなかったのかもしれない。僕は研究の他、どうにかあなたと親しくなろうとする学生連にも、気を回さなくちゃいけなくなったのですからね。邸に閉じ込めておくべきでしたよ」
そんなガイの言葉に、わたしは頬が熱くなる。
それを意識しながら、彼からちょっと顔を背け、
「大丈夫よ、わたし。ガイの他、誰とも出かけたり、仲よくなったりしないもの」
「おやおや」
彼の指は、優しくいつものようにわたしの垂らした髪に触れる。
指に少し絡めて、それはするりと、一瞬で離れてしまうのだ。
 
 
研究棟の一室にあるガイの研究室は、古びた、だけれど居心地のいい空間。
大きな木のデスクには隅に沢山の本が積まれ、別の隅には書類が積まれている。デスクの後ろにはぎっしりと詰まった書架が設えてある。
デスク前には、布張りの一人掛けの椅子、長椅子、テーブルが置かれ、大きな窓には厚いカーテンが下がる。
他には続いた秘書用の小部屋が設けられ、そこでわたしは手紙を清書したり、受付の事務をしたり、お客をガイに取り次いだりする。
ガイが授業や所用で空けるときは、花を活けたり、煙草の煙が充満する部屋の空気を入れ替えたり、小窓に時折遊びに来るリスにビスケットの屑を与えるのだ。
 
 
そのときも、秘書室の方でガイのいない間、わたしは邸の温室で切った百合を活けていた。
花弁の小さな珍しいそれを、クリスタルの花瓶に無造作に活ける。
何だか、少しバランスが悪い気もする。数を減らしてみたり、別の花瓶に替えてみたり。
あれこれ試して、やっと百合が花瓶に落ち着いた。わたしはそれを少し離れて見ようと、やや後ろに下がった。
百合は用紙と羽のペンが並ぶデスクの上で、きれいにこちらを向いている。ふわりとその芳香が漂う。
後ろに手を組むと何かに触れた。衣のような、そんな物に。
「きれいですよ。あなたは花を活けるのがお上手だ」
続いて聞こえた声に、ぎゅっと胸をつかまれたようにどきりとした。
ガイの声ではない。
振り返ると、すぐ後ろに男性が立っている。ガイの教え子の一人、クリストファーという学生だ。まぶしいほどのブロンドが彩る、端正で魅力的な顔立ちの男性だ。
わたしは彼から離れ、何の用かと訊いた。
廊下に出るドアは閉まっている。彼は断りなく、勝手に入ってきたのだろう。
ざわりとした不快感があった。ガイがいないことは、この棟のエントランスロビーで知れることなのだ。各教授、研究員の在室外出は、大きなパネルに記してある。札を秘書が掛けたり、または外す。
学生はそのパネルを見て研究室にやって来る。教師の不在の部屋に用などないからだ。
先ほどわたしはガイの外出の際、それをきちんと外してきた。
「声をかけたが、あなたの耳に入らなかったのでしょう」
などと言う。
わたしは言葉を返すため、長身の彼を見上げる形になる。
「先生は、教授会でお留守です」
「そう、それは参ったな」
クリストファーは目を見開いた。その驚きが、どこかわざとらしく見えた。
彼は小さなわたしを見下ろすように眺める。その視線はじろりと、何だか値踏みでもするようで嫌らしく、不気味に感じた。
彼は方っぽの手をスーツのジャケットに入れて、もう片方をぶらりと振っている。
「に」とでも言うように、唇を横に伸ばして笑った。
「そうだ、お嬢さん。近く、公爵夫人主催の舞踏会があるのですが、よろしければ、ご一緒しませんか」
「いいえ。ガ…あの、先生がきっと駄目だと、おっしゃるわ」
普段とは違い、即座に断った。
それでもガイの名を出したのは、アトウッド夫人のアドバイスによる。
こちらでは、女性は紳士の招待を、あからさまな理由で断ってはいけないのだそうだ。嫌いだとか、面白くないだとか。そういうこちら側の一方的な理由では。
それは相手に恥をかかせることになり、また女性自身にも不名誉なことになるという。
だから決まって穏便に、ためらいがちに断りを返す。親が許さないだとか、体調が優れないだとか、先約があるのだとか……、自分の気持ちを曖昧に隠して相手に告げるのだそうだ。
クリストファーへのわたしの答えは、きっとアトウッド夫人の気に入らないだろう。あまりにも早く、答えすぎている。
彼は唇の端を歪めて、困ったような、やはりどこかわざとらしい表情をつくった。
「そうでしょうか。先生はそうはおっしゃらないような気がしますよ。僕の父を、先生はよくご存知のはずだ。
まあ、いいでしょう。またお誘いに上がります。そのときと今のお返事が違うことを期待しています」
 
 
ガイが戻ってきたのはクリストファーが去ってから、一時間ほどしてからだった。
会議がくたびれたのか、うんと大きく伸びをしたまま、研究室をぷらぷらと歩く。
「いや、退屈極まりない。当てこすりや噂話が大半だ。教授会など、なくなればいい。全く無用の長物ですよ」
わたしがクリストファーの来たこと、彼の言った言葉を告げると、ガイは煙草に火をつけるのを止めてこちらを見た。
「何だか、嫌だったわ」
「それは申し訳ありませんでしたね」
「彼、ガイが彼のお父様をよく知っているはずだって言っていたわ」
「ええ、知っていますよ。彼の父親のブラッドレー子爵は、この大学の大きな寄付者の一人ですからね。クリストファーは一度、別のカレッジで放校処分になっているのです。それをこちらが受け入れるのに、子爵は大枚を使ったと、教師なら誰もが知っていますよ」
そうして彼は煙草に火をつけた。邸と変わらず、寛いだようにそれを吸い、ふうっと煙を吐く。
わたしはもう一度、嫌だったわ、と繰り返した。
そう言うことで、彼がわたしに注意を持ってくれることを期待しているのだ。まるで子供みたいな、わがままな感情。
「お嬢さんが気にすることではありませんよ」
少しふくれたわたしの頬に触れる髪に、果たしてガイの指が触れた。
それはいつもより長く留まり、わたしを満足させ、ときめかせるのだ。




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