甘やかな月(11
 
 
 
ぎりぎりの時間になるまで、わたしは温室にいた。
昼の日光をいまだ湛えたそこはほんのりと空気が温く、ドレスの上からショールを羽織れば特に震えるほど寒くもない。
温室は書斎の半分ほどの広さで、陶器の鉢に植わった季節はずれの薔薇や蘭、そういった繊細な花々が育てられている。
並ぶ鉢の空いた心地のいいスペースに、二人掛け程度の椅子。テーブル小さなビュッフェ台のような棚。その中には畳まれて積まれた小さなリネンの束や、お菓子用の小皿などが整然と並ぶ。
気紛れにぬれない雨の中、こちらでガイとお茶を飲むこともあった。
再三のアリスの声に、渋々と薔薇の前から離れた。
「お嬢さま、これから少し召し上がって、それからお仕度をなさるのですから。お早く寝室の方へおいで下さいませ」
彼女の声は泣きそうになっている。わたしのせいで、きっとアトウッド夫人にせっつかれているのだろう。彼女はわたし付きの侍女なのだ。
確かに日は暮れ、とっぷりと夜の色が覆い始めている。
寝室に入り、ベッドに腰掛けると、すかさずアリスが銀のトレイをワゴンに乗せこちらに向けてきた。
そこにはサンドイッチとフルーツ、とろみのあるスープが用意されている。
椅子に移り、フォークを手に取ったが、どうにも食欲がない。無理にサンドイッチをかじっても、口の中でそれはざらざらとした感触に変わるだけで、あまり味覚を感じないのだ。
「もういいわ」
「もう少し召し上がって下さいませ。お体に障ります」
フォークを置いたわたしに降ってくる彼女の声に罪悪感が浮かぶ、もう一口だけスープを飲み込む。
アリスはそれで満足してくれたのか、ワゴンを傍らに押しやった。
わたしの後ろに回り、髪をすき始める。
「素敵でございますわね。舞踏会って、どんなところなのでしょう。おきれいなお召し物のご婦人方がたくさんいらっしゃるのでしょうね。夢のようですわ」
「わたしも、よく知らないの、アリス」
彼女の手はよく動き、くるんときれいに髪が纏め上げられていく。
「ギャラウェイさまはそれは素敵な紳士だって、皆で噂しておりますの。お嬢さま、どんなお方なのでございますか? アリスにだけ特別に教えて下さいませ」
わたしに渡された手鏡に、つぶらな瞳の彼女がその目を輝かせて微笑むのが映る。
わたしはそれに、さあ、としか答えなかった。
邸で彼とのことが噂になっているということに、愕然としてしまっていた。きっと、それはガイだって知っているのだろう。
髪が出来上がると、衣装を着ける。アトウッド夫人が用意してくれたドレスは、非常に華やかで可愛らしいものだった。首もとから透けるような薄いピンクのレースとジョーゼットが幾重にも重なり、ウエストでシェイプされ、更にスカート部分で、花のように優しく長く広がる。
それは確かにわたしを、幾分かきれいに見せてくれる。
アトウッド夫人も加わり、衣装を身に付けお化粧を終えた。
「坊ちゃまにぜひ、お見せ下さいませ。お仕度の終わられるのを、お待ちかねでいらっしゃるのでございますから」
ガイと出かけるのだったら、どんなにかよかったろう。
どんなに素敵で、胸が躍っただろうか。
 
階下に降りると、居間では、ガイがいつものように煙草をくわえて、本を胸に長椅子に長くなっていた。
わたしが部屋に入ると、木の手すりに乗せた脚を下ろし、立ち上がった。
煙草をくわえたまま近づき、
「ああ、ちょっと待って下さい」
くわえたそれを、暖炉にちょっと距離のあるところから投げ入れた。コツでもあるのか、するりとそれは上手くいつもカーブを描いて中に納まってしまう。ガイの不思議な癖。
彼はわたしの手を取って椅子に掛けさせる。
彼の瞳は微笑を帯びて、とても優しい。
「いやはや、あなたは実にかわゆらしいハチドリのようですよ」
「もう、ガイったら……」
「ニールは幸福ですよ。僕は彼にあなたのエスコートを許すのではなかった。パパ役というのは、これで寂しいものです」
ガイはそんなことをおどけて言うのだ。
わたしはあなたのことを、パパだなんて思っていない。けれど、ガイには所詮わたしは、守るべき娘のような存在なのだろう。それ以外、あり得ないではないか。
彼の指がいつものように、わたしの髪に触れる。
優しくそれは流れて、執事のハリスの声でニールさんの到着が知らされると、するりと離れた。
「さあ、あなたはきれいですよ。早くニールに見せてあげるといい。彼の反応を見るのが、僕は楽しみですよ」
その言葉はちくりとわたしの胸を刺す。
けれどガイは、そんなことに気づきはしないのだ。
 
 
公爵邸に向かう馬車の中は、会話も弾まずどこかぎこちなかった。衣装やわたしの様子を、しきりにニールさんは誉めてくれた。
「実は今夜の会には、大学の連中も幾人か来ているはずです。僕はきっと彼らに殴られますよ。あなたのパートナーでいられるなんて、本当に夢のようです」
黒のタキシードで正装し、どこか頬を上気させてわたしを見つめる。
こんな彼の言葉に、わたしは何を返せようか。曖昧に微笑みに似たものを頬に乗せ、うつむいてしまうだけだ。
公爵邸は夜の中でも華やかに明かりが灯り、人々の賑わいも大変なもので、車寄せではしばらく馬車の中で待つことになった。
うつむいてばかりのわたしの手を、ニールさんが取った。その手に、ぎゅうっと力が込められていくのを感じる。
「緊張なさっているのですか? なら、僕も同じです」
彼が握るわたしの手の甲を、自分の唇に当てた。
手袋越しのささいなキス。他愛もない挨拶程度のもの。
それすらも受け止められず、わたしはただ胸がざわめいて、落ち着かない気分になっていく。
そういえば、ガイはわたしの手の甲の触れるキスをしたことがない。甲に、ほんの触れる程度のささやかなキスであるのに……。
こんなときになって、それになぜか気づいた。
 
 
舞踏会会場には多くの人々が、グラスを片手に歓談している。フロアの中央では楽団の奏でる音楽に踊る人々の群れ。
色とりどりのドレスが揺れ、照明が輝き、それを煽るような華やかなざわめき。煌く宝石を纏う女性たちが、まさに宝石のようにきらきらとまぶしい。
ダンスのことは、アトウッド夫人に、少々レッスンを受けた。ガイいわく、「上手とはいかないまでも、ぼろが出ない」ほどにはなっているという。
「ね、踊りましょう」
曲の狭間に、ニールさんに促され、フロアに出て行く。
彼はわたしの腕を取り、スケート以上に上手にリードしてくれる。
彼について、フロアをくるくると回る。
ふわりと舞うドレスの裾。華奢な靴がそれに伴いちらりと目をかすめる。踊る女性たちはまるで花のよう。すれ違う彼女たちからは、香水の甘い優しい香りが流れてくる。
ガイとなら、彼のそばで、どんなに楽な気分でいられただろう。
ニールさんの言葉にうなずきと微笑を返しながら、わたしはそんなことを考え続けているのだ。
 
ガイとだったら、どんなにか嬉しかったろう。
 
そんな自分が嫌らしくて、わたしは懸命に彼と踊り、または勧められたグラスのお酒を飲み、彼の友人たちと話した。
そんなことで、まるで胸の内の裏切りの辻褄を合わせるかのように。
どれほどの時間がたったのだろう。重ねたグラスのせいで、頬を熱い。頭の芯が、じんと痺れるような感じがする。
不意に、ニールさんがわたしの注意を引いた。
「ご覧下さい、クリストファーだ」
会場と続くサロンには、ゆったりとした椅子が幾つも幾つも置かれ、お酒を飲みながら簡単な食事とお喋りを楽しむ人々の姿がある。
ニールさんの視線の先に、見覚えのあるブロンドの彼の姿があった。数人の紳士方と一人の女性を取り囲んでいる。
そういえば、以前彼に舞踏会に誘われたことがあった。あれは今夜のことだったのかもしれない。
気まずく思い、わたしは彼から目を逸らした。彼の誘いは断り、なのに、ガイの勧めがあったとしても、ニールさんの誘いは受けてここにいるからだ。
「彼はレディ・アンの取り巻きの一人ですよ」
さらりと続くニールさんの言葉は、わたしの耳に入り、そうしてゆっくり胸にしみていく。
そう、今夜彼女の姿を見るのは、初めからわかっていたこと。
「彼女が、レディ・アン?」
「ええ、ご存知とは思いますが、アシュレイ先生の前の奥様です」
 
ほっそりとした体。首はすんなりと長く、身に着けた宝石が輝く。纏う衣装はモーヴの淡い色。肌の白い彼女にそれは大層映えた。
周囲から笑いが上がるとほんのりと微笑む。大人びた、洗練されたそれはひどく、まぶしいほどに美しかった。
ガイが愛する人は、たおやかで、綻ぶ薔薇の花のような人だった。
「ええ。ニールさん、知っているわ」
わたしの視線は、まるで固定されたかのように、しばらく彼女の姿から逸らせなかった。

 



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