甘やかな月(12
 
 
 
深夜に近くなり、わたしはどうにも帰りたい気分で焦れてきた。
頬の上にだけ残るシャンパンの酔い。それが、この夜の気疲れと相まって、ひどく居心地が悪くなるのだ。
しきりに手を頬に持っていくわたしに、ニールさんがテラスに出てみようと誘った。
「邸の中は暑くてむっとするでしょう。テラスで風に当たりましょう」
それにうなずいて、わたしたちは広間から続くテラスに移った。石造りの広々としたそこには、数人の姿がある。
女性は手の扇を顔に当て風を送ったり、男性は煙草をくわえたりしている。それぞれに、冬の中涼を取っている。
次第に頬の熱が収まっていく。
彼にもう帰りたいと告げる糸口を探して、わたしは問いかけに、やはり上の空で答えていた。
そこへクリストファーが現れた。彼は上着のポケットに両手を入れ、こちらに近づいてくる。
距離がほとんどなくなったころ、口を開いた。
「やあ、ニール、君も来ていたのか」
「ああ。母が公爵夫人とは懇意だからね。君は、レディ・アンのお供かい?」
クリストファーはそれに「ああ」と答えた。何度か、彼女のダンスのお相手をしたという。
そこで初めて彼は、わたしに気づいたように、ひどくわざとらしくお辞儀をした。
「ここで、お会いするとは思いませんでしたよ。ご都合がお悪いのではなかったですか?」
ちくりと皮肉を言うのだ。彼に誘われた舞踏会に、わたしは行けないと断り、別の男性と出席している。それは当然の不快感だろう。
返答に困っていると、ニールさんが代わって答えてくれた。
「アシュレイ先生には、僕がお許しをいただいたんだ。先生は快く、お嬢さんのエスコート役を許して下さった」
「ふうん、それはそれは。君は優等生だからな」
そこで、わたしは先ほど口にしかけた、もう帰りたい旨を告げようとした。クリストファーの登場で、それを言いやすくなった。
「ニールさん、わたしそろそろ……、疲れたわ」
「そうですね、もう遅い。お送りしましょう」
わたしの言葉を受けて、ニールさんがごく軽く、クリストファーに「じゃあ」と別れを告げた。
彼も倦んでいたのかもしれない。クリストファーのどこか不遜な様子は、長く接しているとうんざりとしてくるのだ。
身体の向きを変えたとき、声が聞こえた。
「クリス、どなたなの?」
テラスのちょうど入り口に立つ女性。それはレディ・アンだった。彼女がこちらを見ている。
栗色の髪は優雅に纏め上げられ、垂らした部分は緩くウェーブしている。閉じた扇を顎に当て、目を見張るような美しい顔を少し傾げている。
ちらりとわたしと目が合った。にこりと彼女が笑う。
わたしはそれに、どう返したのかわからない。ただもじもじとバックをいじり、目を伏せたのではないか。
 
「クリス、紹介して下さる?」
いつしか彼女は、すんなりとわたしの目の前に立っていた。均整の取れたボディライン。それを包むドレスの垢抜けたデザイン。
彼女はずっとわたしより背が高い。だから、首を傾げて、ひどく可愛らしい様子を作って微笑みかけた。
「はい、あなたがお望みなら」
クリスと愛称で呼ばれるクリストファーは、彼女の言うがままだ。がらりと先ほどとは態度を変え、とても慇懃に振舞う。
けれど、それもうなずける。それほどの魅力を、彼女は持っているのだ。
クリストファーの簡単な紹介が続いた。ニールさんは大学の友人であること。そしてわたしは彼らの大学に、教授秘書として勤めていること。
「おい、誤解を招くような言葉を使うな。お嬢さんは、アシュレイ先生のごく私的な秘書だよ。ちょっと、お手伝いをなさっているだけじゃないか。ご一緒にお住まいでもある。ごく普通のご令嬢だよ」
ニールさんの補足に、クリストファーはそっぽを向いたが、レディ・アンはちょっと眉を寄せた。
その反応は当然だろう。
別れた夫の邸に若い女が住まっているのだ。あまり、気分のいいものではないだろう。案外クリストファーは、彼女のそんなところを気遣って、端折った紹介をしたのかもしれない。
「ユラさんね。可愛いお名前。……ガイはお元気?」
彼女は先ほど見せた表情の曇りを、一瞬で払った。優しい笑みを向け、こんなことを訊いてくれる。
わたしは、彼女のブルーの瞳からやや目を逸らし、
「ええ、元気です」
辛うじてそう答えるのが精一杯だった。
彼女がちょっと口元に指を当て、クリストファーを見た。彼はその合図にすかさず応える。彼女の前に自分の胸から銀のシガレットケースを取り出した。
ガイの吸うものとは違う、細い細い煙草を、彼女はとてもきれいにくわえ、優雅に煙を楽しむ。
その間に、ニールさんとわたしがとても似合いだと誉め、くどくない程度にあれこれ質問を重ね、上手に会話を広げていく。
わたしは出身を訊かれ、ガイに教わっていた通りのことを話した。
父のフィッツ博士と、ウィンザー地方で長く暮らしていたこと。父を亡くし、博士の教え子であるガイが、遺児のわたしの後見人になり、一緒にこちらに住むことになったこと……。
その作り話に、彼女は瞳を幾度も瞬かせた。同情の色を浮かべ、
「では、こちらではまだ、ご友人があまりいらっしゃらないのではない? よろしければ、わたしのお仲間をご紹介するわ。女同士お食事会やら、お茶会やらで、楽しみましょう」
ガイへの屈託がない訳がないのに、こちらに慣れず寂しいだろうと、彼女はわたしに気遣ってくれるのだ。
「遠慮なさらず、連絡を下さいね」
小さなバックから名刺を取り出し渡してくれた。
ほんのりと薔薇の香りのするそれを、わたしは大事に自分のバックにしまった。
 
帰りの馬車の中、行きにも増して、会話が弾まなかった。
わたしは打ちのめされたような気持ちで、一杯だった。あれこれ話しかけてくれるニールさんに申し訳なく思うものの、気持ちが沈むのを止められない。
レディ・アンの美しさ、優しさと気遣い。
ガイがかつて愛し妻とし、今だってその気持ちを捨てないという彼女は、あまりにも美しく、大人びて……。
なのに、わたしは満足に彼女に言葉を返せなかった。もじもじと固まって、上目遣いで彼女を眺めるだけだったように思う。
恥ずかしさで、目の前が暗くなる。
あんなにも、きれいな人がいたなんて。
選りによって、それがガイの愛する人だなんて。
 
 
邸に帰るとガイは起きていて、わたしが足を向けると、いつものように書斎の長椅子で、脚を伸ばしていた。
わたしを見ると、起き上がり微笑んだ。
「楽しかったですか?」
「ええ。……ニールさんがよくしてくれたの」
それだけを告げ、もう休むことを告げた。
ガイは、慣れない舞踏会で疲れたろうから、明日は大学を休めばいいと言ってくれた。

「ええ…」
それに何と答えたのか。自分でもよくわからない。
寝室に入り、ベッドに腰掛ける。一人になり、余計な力を抜いた途端に、降るように絶望感が襲ってくるのだ。
彼女はなんて、ガイと似合うのだろう。なんてきれいだったのだろう。
着替えるために、寝室に続く化粧室に入った。
アリスを呼ぶ呼び鈴を鳴らそうとして、その手を止めた。いつも見慣れたものが、当たり前に目に入る。
大きなドレッサーの鏡に映るわたし。小柄な体に淡いピンクの華やいだ衣装を着て、かさつく肌に薄化粧をした顔。
 
わたしは、なんて子供っぽいのだろう。



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