甘やかな月(13
 
 
 
温室で季節外れの薔薇を切っていると、ハリスが銀のトレイに乗せた手紙を持ってやって来た。
「お嬢さまにお手紙でございます」
わたしは彼をちらりと見て、すぐに目を薔薇に戻した。
「ありがとう。手紙は置いておいて。後で読みます」
クリーム色のしっとりとした色合いの薔薇の花に、目が奪われていた。ガイの寝室の花を選んでいた。
邸内のあちこちに花を飾ることは、わたしの楽しい仕事の一つになっている。
ハリスの気配がまだ背中にある。
「お返事は、いかがなさいますか?」
「返事は、いいわ」
返したわたしの言葉に、しばらくそのままでいた彼も、あきらめたように温室を出て行った。
背筋をぴんと伸ばした、銀髪のきれいな髪の下のハリスの瞳は、また渋く細められたのだろう。
彼の言いたいこと。わたしが幾度も来るニールさんの手紙に返事をしないこと。ガイもアトウッド夫人も含め、返事を書けとささやくのだ。
一度舞踏会のお礼に、短いものは書いて送った。それ以上何を書いていいのか浮かばず、放っておいた。
きっとわたしには、彼ともう二度と二人で出かける気がないのだろう。考えることもしていない。
優しくていい人。ハンサムで、照れたように見つめる彼の碧眼は、熱っぽくて……。
本当にわたしなんかには、もったいないほどの人。きっと、夢中になる女の子も多いのじゃないだろうか。
それでも、踏み込めない。心の奥で嫌なのだ。
「ニールはあなたに嫌われたと、すっかりしょげいていますよ。もう意地悪は止めて、彼に手紙を書いてあげたらどうですか?」
わたしに彼とのことをそそのかすガイは、とてもにこやかで、楽しそうだ。
ニールさんのことは、別になんでもないと言っても、それがわたしの、ほんの気紛れのようにしか受け取ってくれない。
 
違うのに。
わたしはあなたじゃないと、駄目なの。
焦がれるほどに恋する彼のそばで、わたしは息をひそめて、その思いを秘めているのに。
 
薔薇を切ろうと鋏に力を入れ、クリーム色のふっくらとした花びらに、ある人を思い出してためらった。
露を抱き、しっとりと艶やかなその薔薇は、舞踏会でのレディ・アンを思い出させる。これをガイの寝室に飾ることは、何か嫌だった。
止めて、別の鉢の並ぶ中から、スイートピーの可憐な花を選んだ。淡いピンクの優しい花弁。それを必要なだけ切り、温室を出た。
途中、行き交った女中の一人に、
「ねえ、花瓶を出してほしいの。ガイの寝室に花を飾ろうと思って」
「ええ、かしこまりました。お持ちいたします。お嬢さま、きれいな花ですわ。旦那さまもお喜びになります」
「ありがとう」
彼女の用意してくれた花瓶に、わたしは居間の長椅子に掛け、先ほどの花を活けていく。
その花は柔らかく、ほのかな芳香がある。ふんわりとしたそのピンクの花びらが、先だっての舞踏会に着たわたしのドレスに似ている。
無意識ではなく、故意に、わたしは自分のドレスをどこか感じさせる花を、彼の寝室を飾る花に選んだ。
胸の中でぱちりとはぜる、小さな小さな炎。レディ・アンへの嫉妬の思い。
それは彼女へ向かわずに、きっと自分自身を苛んでいくだろうことを、わたしは知っている。
 
 
時折思い出したように、彼女の渡してくれた名刺に触れる。
化粧室の、アリスや他の女中たちの目に入らない、ドレッサーの奥にしまったそれを、ときに取り出して手に乗せ、ほのかに香る香水の匂いを感じた。
瀟洒な書体で、彼女の名と住まい、肩書きなどが記してある。裏面には親しい人に渡すことを想定してか、彼女の直筆らしい文字がある。
『次もお会いできるでしょう? 
いつでもあなたのそばに。
                   アン』
このような文を彼女は、この邸で綴ったことが確かにあるのだ。
それはきっと、ガイのお気に入りのあの書斎。
つるつると磨かれたデスクに向かい、美しい彼女が姿勢よく、さらさらとペンを走らせる。ちょっと首を傾げ、ペンの羽を噛んだりする。
それから書き上げたたくさんの手紙を出すために、卓上の銀の呼び鈴を振るのだ。
現れたハリスに、彼女はきっとこう言う。
「さあ、ハリス。急いでこれを出してきて頂戴」
 
アトウッド夫人は憚りながらも彼女の面影を、ちらりと話してくれるときがある。
睦まじかった二人の様子や、彼女の髪をといであげるガイのこと。ほっそりとした腰に腕を回す彼のこと。
「僕の奥さまはお出かけかい?」そう、笑いながら尋ねた彼のことを。
華やかで社交的な彼女。
その彼女を失った邸が、どれほど色をなくしていったか。
客が減り、手紙が減り、催しもなく、ガイは滅多に社交の場に出なくなったという。
「まったくお坊ちゃまは、お変わりになったんでございますよ。
元来が学者さまですから、もの静かなお方でしたけれど、書斎に籠もられて、難しい書物をお読みになってばかり。
ご離婚のお後は、しばらく、お一人でご旅行にも行かれましたし……」
アトウッド夫人の話す彼女と、わたしが会った彼女の印象は、ぴたりと一致する。
気配りもできる、頭のいい、とびきり美しい貴婦人。
アトウッド夫人から、わたしが言葉を選んで、やっと訊き出した彼らの別れの理由。
それは、レディ・アンは、ガイの子供を自ら堕胎させたのだという。
 
 
ニールさんからではない手紙が届いた。差出人はロビンソン男爵夫人とある。
わたしはその名を聞いたこともない。
怪訝な思いで封を切ると、中にはティー・パーティーの招待状が入っていた。ロビンソン男爵の邸で、夫人が催すティー・パーティーへの誘いの文面。下の段には、レディ・アンがわたしを可愛らしい令嬢だと、誉めていたこと。彼女も出席するので、ぜひこの機会にお会いして親交を持ちたいこと。
そんなことらが綴られていた。
胸がざわめいた。
レディ・アンは舞踏会での言葉を、実行してくれたのだ。
はにかみ屋で人見知りをするだろうわたしが、彼女に自分から会いたいと言ってくることは、きっとないと思ったのだろう。
どうしよう。
迷うということは、彼女に会いたい気持ちもあるということ。せっかくの厚意を、無碍にするのも、何だか申し訳ない気もする。
これは、単なる寂しげなわたしへの同情なのだ。
わたしは、レディ・アンの名は伏せて、アトウッド夫人にこの件を話してみた。
彼女は喜び、「もちろんお出になるべき」だと力説する。
「お衣装は、お嬢さまがこうやってお出かけのたびに、増えていくものでございますよ。今度はどんな色のものをお作りしましょう、どういったデザインで…」
もう、すっかり出かけることを決めてしまっているから、堪らない。
ガイも何の異も唱えなかった。
彼はいつものように優しく笑って、こんなことを言う。
「いろんなところへ行っていらっしゃい。僕がついていなくても、あなたはもう大丈夫のようだから」
とんと彼に背を押されたようで。あるいは突き放されたようで。わたしの気持ちはそれで固まった。
レディ・アンに会いに行く。
もちろんガイには言えない。彼の心の傷は、きっとまだ癒えていないだろうから。
 
ガイの愛する彼女に会って、見極めたいのだ。
何が彼女と違うかではなく、決定的なその差を知って、自分の心の行方を決めたい。
叶わない恋に胸を焦がすのに、わたしは苦しんでいる。この秘めた思いを抱えて、ガイのそばにいることは、とても辛い。
だから、彼女に会って再び打ちのめされて、心にあきらめと観念がほしい。そうしたら、元の世界に帰れる気がする。
ほぼ六ヶ月を過ごしたこちらの世界。ガイがくれた幸せなとき。
それも、終わりにしようと思う。
きっと、わたしには、身に過ぎたのだろう、及ばないのだろう。彼の優しさも、彼への思いも。
胸をきりきりと締めつけるような辛いこんな恋を、わたしはこれまで知らなかった。



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