甘やかな月(15
 
 
 
「あなたは、猫のような人ですね」
ガイが彼のそばで刺繍枠に目を落とすわたしに、そんなことを言った。
彼のイニシャルのGを、濃いブルーの糸でハンカチに刺繍している。この日はこれで、三枚目のハンカチだ。
これまでにも、彼の使うピローケースやバスローブなどにイニシャルを入れてきた。彼には何だか深い深いブルーが似合う気がして、この色を選んだ。
何気なく彼がわたしの縫ったイニシャル入りのハンカチを、ポケットに入れる。またはそのピローケースに頭を乗せる。寛いだ時間に纏うバスローブの胸にも、そのGはあるのだ。
彼の生活の点々に、小さくささやかなわたしの痕跡が残ればいい。それらにガイが、ふと消えたわたしを思い出してくれたら、それだけで嬉しい。
それがわたしの望みで、この世界を去る準備の大きな一つといえる。
恋の片付け方、忘れ方は浮かばない。
けれど成果の見える、イニシャルの縫い取りというちまちました作業は、とても性に合い、わたしの気持ちを落ち着かせていく。
 
ガイの声にわたしは刺繍から顔を上げた。
いつもの午後、邸でわたしはガイと二人で過ごしている。
居心地のいいなじんだ書斎。マントルピースで燃える炎は暖かく、窓ガラスに吹き付ける冷たく激しい雨の中、この空間は、別世界だった。
彼は長椅子に、見慣れたように手すりに脚を乗せて幾枚かの書類を眺めていたのに、わたしが顔を上げると、いつしかきちんと脚を床に下ろし、こちらを向いていた。
書類はとうの前に彼の手から離れたようで、前のテーブルに放られていた。
「気紛れな猫のようですよ。しょっちゅう出かけていたのに、飽きたのか雨が降っているからか、今日は暖炉のそばでちんとおとなしくしている。
これまでのように行儀のいいお嬢さんだと、僕に頭を撫ぜてほしいのですか?」
「嫌ね、変なこと言って」
彼は、わたしがここ一月ほどの間の外出の多さを皮肉っているのだ。
室内楽の会やディナー・パーティー、ティー・パーティーにホテルでのランチ。または演劇の鑑賞、女同士の買い物。馬車での郊外へのドライブ……。
そんな行事がここのところ目白押しで、わたしは邸を空けることが多かった。その機会のいずれにも、レディ・アンは一緒だった。彼女がわたしをそんな楽しい催し、気晴らしに、連れ出してくれたからだ。
彼女の持つ気の置けない雰囲気は、幾つも年上であるのに、わたしを気軽な気分にする。
柔らかい声、さりげなく振舞う優しさ、明るく華やかな独特のオーラ。
そして、忘れられない、あの目を見張るような美しさ。
彼女のそばにいることが、会話をすることが、わたしには嬉しかった。
ガイの存在を介せば、彼女はわたしの絶対に敵わない嫉妬の対象だけれども、そういう醜い感情の置き場がないほどに、彼女という人は魅力的なのだ。
憧れであり、年上の素敵な友人、もしくは自慢したいほどの姉のような存在。それが、彼女。
レディ・アンはやはり彼女なりに、別れたガイへの気まずさもあるのだろう。
彼女は最初に会ったロビンソン男爵夫人の邸で、やや目を伏せた後、「ガイには内緒にしましょう。その方が女同士の秘密めいて、余計楽しいわ」と、おどけた風に提案した。
わたしへの連絡は、ロビンソン男爵夫人の名や、クレアの名を使うと言ってくれた。
その小さな決め事もあり、だから、わたしは黙っていたのだ。
一度口をつぐんでしまった後では、今更彼女の名は、この邸ではちょっと出しにくくなってしまった。ガイへの気兼ねと、それから、彼女の名をわたしが口にしたときの彼の表情の変化を見るのが、やはりどうしても、嫌だったからだ。

お茶の時間でもあるし、卓上の呼び鈴を振ろうとした。つかんだ指を止めるように、ガイの声が続いた。
「あなたを見たという人がいましたよ。誰か、身なりのいい紳士と一緒だったと」
「え」
降りかけた呼び鈴を、再びテーブルに戻した。
ガイを見ると、その目は真っ直ぐにわたしを見ている。彼は怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
彼が言うのは、きっとレディ・アンの友人の一人のチタウィック氏だろう。どこか地方の領主らしい。彼女と一緒に出かけた幾度かの外出に、彼の姿があったこともある。
「ニールが教えてくれたのですよ。あなたを見かけたらしい」
「嫌だ、何でもないわ。お友達のお連れの方よ。少しお話をしただけ。優しい、普…」
わたしの言いかけた言葉を彼が遮った。
「お嬢さんが婦人方と出かけるのに、僕は何も言わない。しかし、その場に男がいるとなると別です。あなたが僕の知らない男と出かけるのは気に入らない」
「だって、何もないわ。皆さんと一緒にお食事をしたり、カードを遊んだり」
「それが、嫌だと言っているのです。そういった男に優しい言葉でも掛けられて、あなたがおかしな気分にならないと、どうして言えるのです? もう何かささやかれて、胸の中に男の姿でもしまっているのですか?」
わたしは返す言葉もなく、うつむいて、刺繍のハンカチをぎゅっと握った。ガイのいつもよりややきつい言葉が、どんどんと降ってくる。
心配している。
大事なあなただから。
守ってあげたいのですよ。
僕を不安にさせないで下さい。
 
ハンカチを握るわたしの手の甲に、涙が落ちた。
それがいつ目から溢れたのか、自分でも気づかなかった。それほどに、ガイのくれた言葉が、嬉しくて、ときめいて、胸にしみたのだ。
止まらない涙を、わたしは拭うこともしなかった。動けなかった。
ちょっと腕を上げたら、指を伸ばしたら、きっとわたしはもっと泣いて、崩れてしまう。心のひだに隠れた感情を溢れさせてしまいそうで。
もっともっとガイを困らせてしまいそうで。
だからただ、涙を流すままに任せていた。
「お嬢さん」
いつしか彼の声が耳元に聞こえた。
彼の腕がわたしをやんわりと包んだ。胸にわたしの顔を当てるように。
大好きな彼の、衣装にしみた煙草の匂い。
「怖がらせたのですね? 申し訳ない。僕は怒っているのではないのですよ。……ねえ、僕を嫌いになりました?」
わたしは鼓動すらひそめるようにじいっと、動けない。彼の腕の中で、このまま溶けてしまえたらいいのにと、考えていた。
彼の唇が耳朶に触れる。
「何か言って下さい。……ねえ、僕の可愛いお嬢さん。あなたに黙ったままでいられるのは、辛いのです」
 
何を言えるというのだろう。何を返せるというのだろう。
 
ガイが好き。
大好き。
どうやって、この人への思いを断ったらいいのだろう。どうしたら、楽になれるのだろう。
彼の指が、わたしの垂らした髪に絡む気配がする。
その仕草、彼の全て。
失ったら、わたしはきっと死んでしまいたくなる。あきらめたくない。
あきらめ切れない。
きりきりと痛む胸。
それらを抱えて、わたしは途方に暮れる。
窓を叩く雨の音が、更に激しくなったように聞こえる。



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