甘やかな月(16
 
 
 
ケーキ用に白いプレート皿。その上に斜めに置かれた銀のフォーク。プレート皿にはスコーンの屑が乗っている。
白い、繊細な指は、食べることもないスコーンを気紛れに崩していくだけ。
ティーカップを持つ前に、レディ・アンはスコーンで汚れた指をナプキンで拭った。そうして、ゆっくりと唇にカップをあてがい、紅茶を一口飲んだ。
「忘れることなんて、ないわ」
かちゃりと、ソーサーにカップが戻る。
「無理にあなたがガイを忘れることなんて、ないのよ、ユラ」
艶っぽく、悪戯っぽく彼女は笑う。
それから細い、いい香りのする煙草に火をつけた。
 
あの雨の日、暖かな書斎で彼は、わたしが泣き止むまで腕に抱いていてくれた。
「僕の可愛いお嬢さん。あなたは笑った方がきれいだ」
ニールさんの見たという紳士の話は、引っ込めて、もう口にしなかった。
どこまでも甘やかしてくれる彼。わたしが彼のちょっと尖った声に、怖がっていると思い込んで、
「マーガレットに言って、あなたの好きなマフィンを焼いてもらいましょう。ねえ、それで機嫌が直りますか?」
ほんの少女に話すかのように、彼はそんなことを言った。
 
振り子のように気持ちが揺れた。断つ方へ、あるいはそうでない方へ。
数日たっても、胸の中はざわざわと落ち着かない。
結局わたしは、答えを出すことが怖いのだ。あきらめることを決めたのに、今更のように、彼への気持ちの強さに目がくらんだ。
そうやって、じくじくした生々しい思いをわたしは抱え切れず、レディ・アンに打ち明けることで、何とか自分を取り戻そうとした。
選りによって、彼の前の妻だった人に。
彼女にはガイへの恋を秘めておくべきと、わたしはいつしか決めていた。それなのに、その決め事を、わたしは自分の苦しさに負けて、こうやって破っている。
彼女なら受け止めてくれ、何か言葉をくれるのではないか。ううん、聞いてもらえるだけでいい。
……わたしはなんて、自分勝手で、幼いのだろう。
 
彼女の邸の彼女のサロン。柔らかな色調のファブリックで統一された気持ちのいい広々とした部屋には、これまでも数度訪れたことがある。
昼の展覧会への外出の後で、彼女にこっそりと話があることを告げると、快く彼女は受け、邸に誘ってくれた。
お茶をいただきながら、もじもじとガイへの気持ちを彼女に打ち明けた。
それは喉を通るまではなかなか出てこなかったのに、言葉にしてしまうと、次から次へと、思いがこぼれていった。
そのわたしに、彼女は言うのだ。
「無理にあなたがガイを忘れることなんて、ないのよ、ユラ」と。
 
「ごめんなさい、レディ・アン。わたし、あなたのお気持ちを考えもせず、自分のことばかり押しつけて……。恥ずかしいわ。申し訳ありません」
彼女はわたしの詫びの言葉に、軽く首を振った。ふわりと空に向けて紫煙を吐いて、
「違うのよ、ユラ。あなた、ちっとも悪くなんてないわ。ガイったら、こんな可愛いお嬢さんを悩ませて、悪い人ね」
彼女はわたしの手を握り、自分は彼のことをもう何とも思っていないと言う。
白く美しい彼女の顔には、笑みが浮かんだまま。きれいなアーチを描く眉も少しも歪められていない。
それが、わたしの気持ちを随分と楽にする。
余裕のある、大人の女性。それが彼女なのだ。
「彼とはもう、五年も前に別れているもの。とっくに気持ちの整理はついているわ。お互い、納得して別れたのだし。
正直なところ、未練はないわ。ふふ、でも伯爵夫人という肩書きはちょっぴり惜しかったかしら」
「レディ・アン……」
「だから、わたくしに妙な遠慮は止めて」
彼女の口にする軽口めいた言葉に、わたしは泣きたいほど勇気付けられた。
瞳に浮かんだ涙をハンカチの角で拭った。
わたしは少し、自分の中で完結していたのかもしれない。独りよがりが過ぎて、自分で自分を苛めていたのだろうか。
レディ・アンはわたしに、小さなフルーツの乗ったケーキを勧める。
スタンドから取り分けてくれながら、彼女は自分とガイが別れた経緯について話してくれた。
聞いてしまっていいのだろうか、うろたえる気持ちと、愛し合う二人に何があったのか知りたいという興味。
ほんの少し後者が、大きい。
「わたくし、子供を産みたくないのよ。それは、子供は愛らしいわ、天使のようですもの。でも、自分では産みたくないの」
彼女は落ち着いた、いつもの柔らかい声音で話す。
大好きだった叔母がお産で亡くなったこと。それ以来出産が怖くなったこと。
「それに、女は出産で随分と自由を奪われるわ。人生も変わってくるのではない? だから、産まないという選択もあっていいと思うのよ。危険を冒して、血まみれになって産むのは女ですもの」
だから、結婚してすぐにでも跡取りの男の子をほしがったガイとは、その件でよく衝突していたという。
「ガイは五年待ってくれたの。その間にわたくしの気持ちが変わると思ったのでしょうね。けれど、変わらなかった。益々気持ちは強くなって、そんなときに、妊娠してしまったのよ」
恐ろしかった、と彼女は言う。自分の体が、自分のものではなくなってしまったような気持ちになったという。
「授かったのに、とても産む気にはなれなかったわ。何か、病気に罹ったのと同じような気分がしたの。だから、ある処置を上手くしてくれる婦人がいるのよ。そこでお薬をもらって……」
彼女はそこで煙草を口挟んだ。
きれいなきれいな仕草。女性でこんなにも優雅に煙草を唇に置くことができる人を、わたしは知らない。
彼女の取った行為は、その後でガイが知ってしまった。
「彼は怒らなかった。わたくしが突然のことに、取り乱しただけだと思ったのね。次回があると、考えたのでしょう。ひどく辛そうだったわ」
そうだろう。彼なら、優しい彼なら、きっと自分の感情を出す前に、彼女を思いやったに違いない。
「でも、わたくしの気持ちが変わらないのだと知ると、彼もやっと納得してくれたのよ。似合いの夫婦だと、よく周囲に言われたものだけれど、決定的なものが違っていたのね。
彼は伯爵家を絶やす訳にはいかないでしょう。
どこかから養子を、とも考えてくれたのだけれど……、いろいろ話し合って、最後には、解放すると言ってくれたわ」
 
ガイはどんな気持ちで彼女に伝えたのだろう。
解放する、と。
それはどんなに苦しくて、苦い言葉だったのだろう。当時の彼の胸の痛みが伝わるように、わたしの胸も痛んだ。
誰が悪い訳でもない。レディ・アンの言うことも、わたしには理解できるように思う。確かに、女性に出産に関わる選択権があってもいい。
それはわたしの元の世界では、きっと認められた概念だ。
曲げられない思いとしがらみで離れてしまった二人。
誰も、悪くなんてないのだ。
だから、彼は彼女を忘れられない。
 
「ガイに思いを打ち明けてみたら?」
レディ・アンは軽く言う。
わたしはその言葉に、全身が熱くなる。しかし、瞬時にその熱は冷める。彼女への思いを持ったまま、ガイがわたしを受け入れてくれるはずがないのだ。
彼にとってわたしは、庇護するべきごく幼い少女でしかなく、しかも、いつかは帰って行く異邦人。
「いいの、いいの。ただ、誰かに聞いてもらいたかったの。それでいいの」
「ユラ」
そこで彼女は、まだ長い煙草の火を灰皿で消した。
「あなた、無理してるわ」
空いた手でわたしの手を取った。開かせ掌に自分の指を置く。「ここに、氷があるの」
「レディ・アン?」
「聞いて。その氷を溶かそうとあなたは一生懸命息を吹きかけているの」
言葉の後で、彼女はわたしの掌に、実際にふうと吹いてみせる。
「息が続かなくなるまで、あなたは吹いているの。だから辛いのよ。おかしな人ね、氷なんて放っておけば溶けるのよ」
わたしの手を離し、新しい煙草を宝石が縁取るケースから取り出す。
「暖炉の火を強くしたり、春になるまで待ってみたり」と。歌うように言う。
彼女がわたしの恋を、掌の氷に例えていることが、わかった。
彼女の言う通り。いつか、氷は溶ける。肌の熱に徐々にゆっくりと。形をなくし、水になる。
でもレディ・アン、早く溶けてくれないと、掌は氷のせいでじりじりと痛むのだ。跡がつくほどに。
「わたくしが、恋の忘れ方を教えて差し上げるわ」
レディ・アンは不思議な言葉を口にした。
 
「わたくしもその方法で、ガイとの日々を忘れたのよ」
「知りたいわ、レディ・アン」
恋の忘れ方。
そんなものが本当にあるのなら、知りたい。
どうしてだろう、気づけばわたしは、掌が痛むほどに手を握り締め、爪を食い込ませていた。



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