甘やかな月(17
 
 
 
化粧室のドレッサーの大きな鏡。
曇りもなくきれいに磨かれたその前で、わたしは新しい衣装やネグリジェ、そんなものを胸に当てて鏡に映していた。
このパールベージュの衣装には、あの帽子がいいかしら。髪はあのリボンで高く結ってもらおう。
薔薇水の瓶を今朝割ってしまったから、新たな瓶を用意してもらわないと。
わたし付きの女中のアリスを呼ぼうと、傍らの呼び鈴に手を伸ばした。
そのとき、近くでこんこんとドアを叩くような音がした。
振り返ると、ガイが寝室との境のドアにもたれて立っている。わたしはドアを開け放したままにしていたのだ。
煙草はくわえていないし、手にも持っていない。ごくたまにこの部屋に入る彼はそういうときに、決して煙草は口にしなかった。
「楽しそうですね」
ポケットに手を入れ、やはりドアにもたれてこちらを眺めている。
「ロビンソン男爵夫人の田舎の別荘は、とても楽しいのですって。農場にはロバもヤギもいるらしいの。
彼女、ウサギを別荘内で飼っているって言っていたわ。とてもふわふわした珍しい毛並みの品種らしいの。抱かせてもらうの」
「おやおや、お嬢さん」
彼はちょっとだけ瞳を大きくした。くすりと笑う。いつになくわたしが饒舌で、驚いたのかもしれない。
わたしは、この夕方には迎えの馬車に乗り、ロビンソン男爵夫人の所有する郊外の少し遠い別荘へ遊びに行く。
彼女は他にも親しい婦人方を招待しているといい、好きなだけ滞在してくれればいいと言ってくれた。
「お気が向いたら、主人が三日後に狩りを催すの。それまでいらっしゃるとよろしいわ。大勢いらっしゃるから、きっと楽しいわ」と、勧められてもいる。
もちろん向こうではレディ・アンも訪れる。彼女がこの計画の発起人なのだ。
彼女の教えてくれた『恋の忘れ方』、それは気を紛らせ、楽しく遊ぶこと。
「あなたのようなお若い方には、それが一番。ガイだけが男性ではないの。恋は視野をとても狭くするのよ。あなた、ガイの他何も見えていない状態だもの。だから、彼から少し離れてみるといいわ。
いろんな経験をして、楽しみましょう。外に出て、少しだけ恋を忘れるのよ。」
彼女はどこか決然ともいう口調でそう言った。
単純な、そんなことで…、と思った。
そんなことで忘れられるものかとも、思うのだ。
しかし彼と食事を共にし、彼が書斎で寛いでわたしに話しかける、そんな日常さえも、重いほどに胸を締めつける今の日々に、一時でも彼を忘れる、恋を心の隅において置けるのなら、どれくらい、わたしには楽だろう。
「あなた、ウサギがお好き?」
レディ・アンのこの問いかけに、わたしが「ええ」とうなずいたことから、今回の遠出が決まったのだ。
このころから彼女の頭には、わたしが好みそうな、可愛い動物のいるロビンソン男爵夫人の別荘が浮かんでいたのだろう。
彼女はロビンソン男爵夫人と予定を組み、合わせ、わたしのために今回の催しを設けてくれたのだ。
 
「……、お嬢さん、あなたはすっかり上の空だ」
「ごめんなさい、ガイ。ねえ何か言ったの?」
彼はそばの木のスツールを引いて、それに掛けた。
わたしは抱えた衣装を一旦、椅子に掛けた。それらは後で、アリスの手でトランクに詰められる。
「以前、王子のお話はしたでしょう」
「ああ、ええ。ガイの従兄弟に当たる方でしょう。病弱で、療養をされていらっしゃるのよね」
彼はうなずいて、話の先を続ける。
そのエドワード王子が、近くウィンザーという地方に転地療養をされることになった。
ウィンザーにはガイも別荘を持っている。王子の予定に合わせてそちらに滞在し、彼の見舞いに行きたいというのだ。
「お嬢さんも一緒に、どうです? ややこしいこちらを離れて、向こうで新年を迎えましょう」
ガイの言葉は、わたしの意志を問う質問ではあるけれど、わたしがそれに目を輝かせてイエスと言うのを、彼はきっと確信している、そんな風な問いかけに聞こえた。
いつだって、彼はそうなのだ。
彼の言うことに、彼の言葉に、誘いに、わたしはこれまで全身で喜びを表してきた。そんなわたしの表情や仕草に、彼は目を瞬いて見せ、こんなことを言う。「おやおや、お嬢さん」と。
彼にとってはほんの些細な優しさ。そして義務と責任から出たわたしへの厚意。
なぜなら彼がわたしをここへ連れてきたのだ。自分のそばへ。
彼は最初から言っていたではないか。「あなたのこちらでの幸福に、僕は責任がある」と。
なのに、わたしは彼の親切を過剰に喜んで、受け入れて、舞い上がって……。
 
とても、嬉しかったの。味方ができたことが。守ってくれる誰かの存在が、とても嬉しかったの。
だから、それをわたしは大事に抱いて、育んで恋にまでしてしまった。
それはいけないことではないでしょう?
 
「どうしたのですか? そんなつまらなさそうな顔をして。これから楽しみに行くのでしょう? ロビンソン男爵とやらのウサギを抱いていらっしゃい」
彼は立ち上がると、わたしの後ろに回った。鏡に映る彼がジャケットのポケットから何かを取り出した。
二連の真珠のネックレス。それを後ろから、わたしの裸の首に回す。
「祖母の物なのですが、僕には無用の長物だ。ほら、あなたにはこんなに似合う」
それは不思議な光沢を放つ。わたしの知る真珠とは微妙に色合いが異なった。淡いピンクのようであり、ときに薄いブルーに変わり、またはクリーム色にもなるのだ。
「ほら、きれいだ」
鏡に映るわたし。その細い首を、二連の華やかなパールが彩る。ほんのりとわたしが色づいたようになる。
「ありがとう。大事な品を借りてもいいの?」
「あげるのですよ、あなたに。それともシンガの首輪にしますか?」
「でも……」
ためらうわたしの髪を、彼がゆるりと撫ぜた。指に絡め、するりと外す。
目を伏せた。
ガイはずるい。そんな風にしないで。
おかしくなるの。
彼の指が髪に触れる。それだけで、わたしは動けなくなる。もう一度彼の指が髪に絡んでほしい。心の中ではその思いで溢れそうなのだ。
不意に首筋に何か触れた。

「あ」

慌てて目を上げると、鏡にはわたしの首に唇を当てる彼が映る。
彼の指がわたしの髪に戻った。
「あなたは、なんて愛らしいのだろう」
彼の唇を感じながら、わたしは固まったように動けない。鼓動だけが激しくなる。
これまでの彼は、わたしの手の甲にさえキスをしなかった。
なぜ……?
「ガイ……、どうしたの?」
やっと声が出た。しかし掠れて、彼に届いたかどうか。
「ねえお嬢さん、僕の妻になってくれませんか?」



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