甘やかな月(18
 
 
 
背中から抱きしめられた。
小さなわたしを包むようにガイは腕を回す。
わたしはやはり、声がでないまま、動けない。
それでも頭の中はしんと静まり、さまざまなことが浮かんでいくのだ。
ドレッサーの上のブラシに絡んだ髪が、そのままで見苦しいこと。クリームの蓋がややずれていること。白粉のケースのパフをそろそろ新しいものにしなくてはならないこと。ひどく毛羽立って、それは肌のなじみが悪くなっている。
窓から差し込む筋になった光に、部屋の埃の粒子のようなものが見て取れた。
 
ガイの唇が、わたしの耳朶から下に少し沿って動いて、そっと離れた。
 
「あなたも、僕と同じ気持ちでいてくれるのではないかと、勝手に思い込んでしまった。…とんでもない自惚れ屋ですね」
鏡の中の彼は目を伏せ、その指はわたしの髪を、くるりといつものように絡める。
しばらくそうしていて、彼はわたしの体に回した腕を解いた。困らせて申し訳ない、と言った。
わたしは自由になった腕を曲げ、指で首の真珠のネックレスに触れた。つるりとした滑らかな粒は、指の腹になじむように転がる。
「……、だってガイは、わたしにニールさんと出かけることを勧めたわ。それに、彼に手紙を書けって、いつも言っていたわ」
「あなたに似合いだと思ったからですよ。もし、あなたが彼を選ぶのなら、それでいいと思った。きっと僕よりは……、あなたにふさわしい」
年齢、結婚歴、明るく誠実な彼の人柄。ガイが挙げる理由はきっとこれらに違いない。申し分のない人だったもの。
けれど、わたしはニールさんを選ばなかった。選べる訳がない。
ガイが挙げるような理由、そんなことで、ガイと比較なんてしなかった。そんなこと、ちらりと浮かびもしなかった。
ガイのことしか、考えられなかった。
彼は言う。
わたしに彼とのことを勧めると、わたしはひどくつまらなさそうに目を伏せて、それから、泣き出しそうに瞳を光でふくらませて、ちらりとガイを見たのだという。
「まるで拗ねた子猫のようでした。あんまりいじらしくて可愛らしくて、抱きしめたくなるのを堪えるのに、僕はちょっと苦労した」
「わたし……、あきらめようとしたの、ガイを。そうして、……元の世界へ帰ろうと思ったの」
喉の奥が痛い。腫れでもしたかのように、ひりひりと言葉がつかえるようだ。
「ずっと、僕のそばにいてくれるのではないのですか?」
彼が再びわたしの腕を取り、先ほど彼が掛けていたスツールに座らせた。自分は膝を折って屈み、わたしの顔をのぞき込む。
「だって……、辛かったのだもの」
彼の手がわたしの頬に当たる。優しい温かな掌。
ほろりとこぼれていく涙を、その長い指が払う。
「おかしなお嬢さんですね。どうやって、僕を忘れようとしたの?」
そんなことを訊く。
わたしは首を振った。何をしたって、きっと忘れられそうもない。
彼のブルーグレイの瞳。つんと冷たくも感じるその瞳は、わたしにはいつも優しく端に、笑みを浮かべてくれる。
ちょっとからかうような彼の声も、時折わたしの髪に絡むその指も。
どこにいても、何をしていても、容易に瞼に甦る。
彼がわたしの手を取り、その甲に初めて口づけをした。
「僕の妻になってくれますか? お嬢さん」
わたしはそれに、こくりとうなずくことで答えた。
 
彼とのキスを、これまでわたしは夢見なかったと言えば、嘘になる。
頭の後ろに回った彼の手。
ほんのり冷たい彼の唇は、重なる熱によってすぐに温まった。
「僕の可愛いお嬢さん。これからは、あなたは僕だけのお嬢さんだ」
そんなことを、彼はキスの狭間にささやく。
わたしはいつしか瞳を閉じ、縋るように彼に体を預けた。
何も考えられず、陶然とし、宙にでも浮かぶような心地だった。
 
唇が離れた後、わたしは恥ずかしさのためにうつむいた。
彼は明るい声で、いろいろと話した。
これからのこと。どこかわたしが好むのなら、二人で旅行にでも行こうかということ。式の話。
「ご婦人は、派手やかなウェディングドレスが着たいのでしょうね。あなたが望むならそれでもいい。しかし、正直僕は、あの手の大掛かりな催しが苦手なのですよ」
「ううん、ドレスなんていいの。式なんていいのよ」
わたしは急いで答えた。
ガイがレディ・アンとの結婚の破綻の後で、彼女と挙げたような立派な式を、わたしとの結婚に望む訳がないのだ。
二人でいるだけでいいからと、わたしは付け加えた。何でもないかのように。
「あなたは、なんて欲がないのでしょうね。僕の優しいお嬢さん」
彼が笑った。
この笑みがわたしに向けられるだけで、十分ではないか。他に何がいるというのだろう。
彼は言うのだ。
僕は退屈な男かもしれない。研究と静かな毎日があればそれでいい。あなたも同じく思ってくれるのなら、僕はきっとあなたを幸せにする。
「誠実と、変わらぬ愛情を、僕はあなたに捧げる」
引っ込めたはずの涙がぶり返す。
彼はどれほどの思いで、この言葉を口にしてくれたのだろう。どこにレディ・アンの影をしまってくれたのだろう。
いろいろな彼の持つしがらみや義務、責務。そんなものが、わたしとの結婚を決めた彼の心の中心であってもいい。
そばにいられるのだ、彼の妻として。
それだけでいい。それ以上、何が必要だろう。
わたしは余計なものを畳んでしまいこみ、おとなしく彼のそばにいよう。彼の望むように静かな毎日を過ごし、彼の誠意と優しさに応えるのだ。
それはきっと、わたしをひどく落ち着いた女性に変えていくだろう。
額に彼の唇を受け、わたしはささやいた。
「わたし、きっと男の子を産むわ。たくさん、たくさん産むわ」
「それは楽しみだ。邸が賑やかになる」
「そうね」
ガイの望んだもの、そしてレディ・アンが彼に捧げられなかったもの。
全て、わたしがあなたにあげる。
 
 
揺れる馬車の中、わたしの気持ちは浮き立つようで、でもどこか凪いでいた。
ガイの妻になる。
その未来は、どんな大きな喜びを持ってわたしを包んでいたか。
自然頬が緩み、笑みが浮かびそうになる。
「お嬉しそうね。何かよいことでもおありになったの?」
向かいに座るレディ・アンの友人のレイチェル。これまで幾度も彼女とは会っている。
三十歳ほどのしっとりとした美しい人。レディ・アンが光のような女性なら、レイチェルは梢のような女性。それだけで美しいけれど、更に強い光を遮って柔らかくし、に周囲を和ませるような。
いずれも魅力的な女性であるに変わりはない。
彼女もこれから共に、ロビンソン男爵夫人の別荘へ向かうのだ。
「いえ、楽しみだと思って。ウサギを抱いてみたくて」
手袋の手を頬に当て、わたしは胸の喜びで火照った熱を冷まそうとした。
「まあ、やっぱり可愛らしい方ね。ユラが楽しみになさるウサギ、どんなでしょうね。わたくしも抱いてみたいわ」
レイチェルは柔らかく微笑んだ。
その後で、別荘はもうじきらしいわ、とつぶやく。
わたしはとっぷりと暮れた馬車の窓に視線を向けた。
 
今日と明日を過ごして、わたしはまたガイのもとへ帰る。
彼はどんな様子で迎えてくれるかしら。
アトウッド夫人やハリスなどの前で、今日の化粧室でのように、彼が体に腕を回したら、わたしはきっとはにかんで、顔を上げられないだろう。
 
ガイに会いたい。
少しだけ離れただけだというのに、もう会いたくて、胸は泣いている。



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