甘やかな月(19
 
 
 
闇の中、馬車は進む。
レイチェルとのとりとめのないお喋り。彼女が差し出したチョコレートの粒を舌で転がす。
長く馬車に乗っていると、そろそろ飽きてくる。
会話も途切れがちになった。
彼女が別荘はもうじきだとつぶやいてから、どれほどたったのだろう。
少し空腹も感じる。車内は冷えて、わたしは厚いコートを着ながらもぞくりと走る悪寒に、腕を抱いた。
「まあ、寒いのね、ユラ」
レイチェルがわたしの様子に立ち、わたしの隣りに掛けた。そうやって、やんわりと背をさするように腕を回してくれる。
「ありがとう。ねえ、レイチェル、後、どれくらいなのでしょう?」
「そろそろだと思うわ」
ささやく彼女からは、百合の花のような匂いがする。覚えのある彼女の香水の香りだ。大人びた、洗練された香り。
わたしの使う香水は、すずらんの優しい香りのもの。清潔感のある控えめな香りを、わたしはこれまで好んできた。
首筋や、手首に透明な雫を垂らしたその香りは、ガイの腕の中で、どのように香ったのだろう。
彼、わたしの香りに気づいたかしら。
 
 
ポーチには二人の男性が、明かりを手に持ち、馬車の到着を待っていた。
玄関の扉の前に横付けになった馬車。使用人らしい明かりを持った男性が、扉を開けた。彼の手を取り、馬車を降りる。
湿気のある、しっとりとした冷たい空気がたちまちわたしたちを包んだ。
「レディ・アンは?」
レイチェルの問いに、男性の一人が首を振り、いいえと答えた。
レンガ建ての別荘は、思いのほか小さく、古かった。ポーチの辺りは雑草で荒れているし、こちらを向く窓も煤のようなものが付き、汚れている。
暗い中でもそんなことが目に付くのだ。
瀟洒なロビンソン男爵の本邸とは比較にもならない差が、不思議だった。
レイチェルとわたしのトランクを馬車から館内へ運ぶ男性の服装は、タイもなくボタンが外れ、だらしのない印象を受けた。
「さあ、寒いわ。入りましょう」
レイチェルに促され、わたしは彼女と共に館の中に入った。
中は暗く、数ある照明器具には明かりが入っていないものが幾つもある。照明をわざと控えているようだ。
小さなホールの正面は階段。黒っぽい壁紙。長椅子が背を壁に向けて並んでいる。
荷物を階上の客室に運ぶ男性に代わり、メイドらしい女性が現れた。
「どうぞ、食堂へ。お食事の用意ができております」
わたしはレイチェルの様子をうかがった。これまで、どの邸でもコートも脱がないまま、食堂へ行くことを案内されたことなどない。
普通はコートを脱いで、身だしなみを整える婦人用の化粧室へ案内される。
「お待ちの方がいるのよ。行きましょう」
レイチェルは既にコートを脱ぎかけている。脱いだそれを前のメイドに渡した。
それで、わたしも彼女に倣った。
 
食堂には二人の女性の姿があった。やはり照明の乏しい中、スープのようなものを飲んでいる。
わたしたちが入ってくると、スプーンの手を止めた。
ちらりとわたしとレイチェルを見て、挨拶もなく再び食事に取り掛かるのだ。
レイチェルは落ち着いた様子で、わたしに座るよう勧めた。わたしは逆に落ち着かなかった。
暗い食堂は狭く、テーブルに掛けられたクロスには、ところどころ黄ばみやシミが見えた。つま先に触れた何かに気づいて足元を見ると、紙屑だろうか、何か転がっている。足の裏には靴を通して、ずるずると埃ぽいような感触が伝わる。
運ばれてきたスープ。
清潔感のないこの部屋で、とても食べる気にはならなかった。レイチェルは気にならないのか、スプーンを進める。
「お上がりなさいな」
それには答えず、ロビンソン男爵夫人の姿がないことを尋ねた。ホストである彼女が客の訪れに挨拶もしないなど、どう考えても妙だ。
「ああ、彼女ねえ……、どうしたのかしら」
曖昧なレイチェルの返事に、前に座る女性たちが忍ぶように笑う。
ここで初めておかしいと感じた。
男爵の別荘にはみすぼらしい館。だらしのない様子の使用人。不思議な先客の女性たち。いないロビンソン男爵夫人。
ここは、一体どこなのだろう。
暖炉だけは威勢よく燃える室内。暖かいはずなのに、背筋が寒くなる。
「ねえ、レイチェル、レディ・アンはいつ着くの?」
「スープをお上がりなさいな、ユラ。レディ・アンはもうじきよ」
レイチェルは顔も上げずに、いつもの声で静かに話す。
 
落ち着かないまま、出されたワインを一口飲んだ。
赤いワインの熱い感覚が喉を通り、胸でも続く。
レイチェルはわたしの問いに、もう答えてくれなかった。何を訊いても「すぐにわかる」としか言ってくれないのだ。
食事の終わった女性たちが、銘々に煙草吸い始めた。薄暗い室内が、それで靄がかかったようになる。
早く、レディ・アンが来てほしい。彼女の姿を見ないと、不安でどうしようもなかった。
どうしてロビンソン男爵夫人はいないのか?
どうしてこんな妙な場所に連れて来られたのか?
そして訳知り顔の女性たち。あなたたちは誰?
いつしか指が、首のネックレスをまさぐっている。ガイの贈ってくれた彼の祖母の形見だという真珠のネックレス。
ふと、ドアの向こう、ホールの辺りが騒がしくなった。
レイチェルがハンカチで口元を拭った。ここにはテーブルに清潔なナプキンさえなかった。
彼女は顔を上げ、わたしに優しく微笑んだ。
「お待ちかねのレディ・アンが着いたようよ」
ざわざわとした人声が聞こえる。それは遠くなり、近くなり、また遠ざかった。
寛いで煙草を吸っていた女性二人が、不意に立ち上がった。食堂を出て行く。それとほぼ入れ替わりに入ってきたのが、レディ・アンだった。
白いコートを羽織ったまま、彼女はまずレイチェルを軽く抱きしめた。
「お待たせしてしまったわね。最後のメンバーが急に変更になったのよ。参っちゃったわ」
「いいのよ、アン。先にお食事をさせていただいたのよ」
「ここの食事は最悪ね。あなた、よく喉を通るわ」
レディ・アンはレイチェルを離し、わたしの手付かずのスープ皿に目を向ける。
「あなたにも向かなかったようね、ユラ。可哀そうに」
彼女は次にわたしを抱きしめた。彼女の纏う薔薇のような香水の香りが、わたしを包んだ。
「あの、レディ・アン、訊きたいわ…」
わたしの問いかけを彼女は許さない。手袋のすんなりした指をわたしの唇に当てる。
見上げる彼女は、口元を緩め楽しげに微笑んでいる。室内のささやかな明かりが瞳に映り、きらりと輝く。
「あなたに会いたいという紳士がいるのよ。大層気に入ったらしいのよ」

「え」
彼女は何を言っているのだろう?
彼女の指が、わたしの唇から頬、喉に流れ、真珠のネックレスに触れた。指は、しばらくそこに留まった。
「伯爵家のものね。見覚えがあるわ。ガイにもらったの?」
わたしはその問いに答えられなかった。
笑ったのだろうか。彼女の唇が不思議な形に歪むのに目を奪われた。深いピンクローズのその唇は開き、小さな白い歯をのぞかせ、奥の柔らかく湿った舌が唇の下端を舐めた。
首のネックレスを引く、彼女の指のきつい力。それは止まらず、ほどなく耳に、ばちりとはじける音が飛び込んだ。
一瞬何が起きたのか、わからなかった。
ばらばらと散る真珠の粒に、ようやく頬を張られたように我に返る。
とんっとわたしを腕から突き放し、レディ・アンは大きく、よく通る声をあげた。
「始めましょう」



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