甘やかな月(
2
 
 
 
眠れない夜が続いた。
じんと痺れたままの頭を休めたくて、眠りたくて、夢が見たくて。
ワインを飲んでみても、ほんのりと酔いが上面で終わってしまう。友人たちとこれまで飲んだときのように、陶然となってこない。
そんな夜はいつも泣いた。
悲しみをまだわたしは把握しておらず、辛さも実感が湧かない。あまりに急な変化に、心も頭もとても追いついてくれない。ただ、泣くのが心地よかった。
心の中が軽くなるようで。泣くことである種解放できる、自分を可哀そうがるということに、わたしはきっと酔っていた。
 
 
その宵も泣いていた。
ぽろぽろ頬を伝う涙を、頭のどこかでよくも涸れないものだと考えながら、静かに泣いた。突然できた思いがけない孤独に、それ以外わたしは過ごす術をそのとき持たなかった。
父の指定席だった居間の一人掛けのソファ。そこに掛けて、膝を抱える。
指で涙を感じる。ぱちりとその雫を弾いた。
そのときふわりと、背中で空気が動くのを感じた。父を失って以来、飼い猫の微かな気配だけ。この家の空気は揺れなどしないのに……。
「おやおや。そんなに泣いては、目が溶けてしまいますよ」
声に振り返る。

「あ」
そこには、まるで信じがたい光景があった。すらりとした黒いコートの男が、皮手袋の手を顎にちょっと置いていた。片方の手にステッキを持っている。頭には山高帽が乗っている。
濃茶の髪に整った鼻梁。映画の中の異国の人……?!
声が出ない。
彼は首を傾げて微笑んだ。
「助けてほしいのでしょう? だから、僕を呼んだ。違うのですか?」
いつの間にか、わたしは唇に手を当てていた。けれど、その感覚がない。不安なときの癖で、指先はきんと凍えてしまうのだ。
目の前の驚きが大きすぎて、思考も止まる。何も考えられない。一瞬、ほんのりとだけ浮くような言いようのない恍惚感が、ちらりと全身を走った……。
「僕にはあなたを救う力がある」
彼は手袋の手をわたしに伸ばした。
握られた手。彼の手が強くわたしを引いた。意志もなく、ただ思わず立ち上がる。
「行きましょう」
「どこへ?」
「ここより少しマシなところへ。きっとあなたも気に入るでしょう」
行きたかった。
ここより「マシ」な場所なら……。そんな場所が、もしあるのなら。
彼は自分のコートを脱いで、ふわりとわたしの肩に掛けた。
居間の庭に出られる大きなフランス窓。そのガラス窓を開ける。
見慣れた木々の茂みの他に、見慣れない物が目に入った。それは上から下りてくるしっかりとした縄梯子だ。
「あれに乗るのですよ」
彼の視線の先。星の散る夜空に、ところどころ光彩を放ち、長くうねる列車が見えた。それはきらきらと輝くネックレスのように、美しく.……。
彼が片方の手で梯子を掴んだ。もう一方をわたしの腰に腕を回す。ほんのり煙草の匂いがする。
「さあ、行きましょう。急がないと」
これはきっと、夢。
醒めてほしくない夢。
いつか果てる夢でもいい、縋りたかった。





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