甘やかな月(20
 
 
 
薄汚れた食堂を出て、わたしはホールから上がる階段を、レイチェルに腕をつかまれながら、上っていく。
わたしの首から真珠のネックレスを引きちぎったレディ・アンは、それ以来わたしなどいないかのように、館の中を煙草をくわえながら動き回っている。
その態度や口ぶりなどから、彼女がこの館を支配しているように、自然と感ぜられた。
今も階下から、彼女のよく通る声が聞こえる。
「キンバリーはどうしているの? 彼女を新入りにあてがうつもりなのよ。
若い男って、好奇心だけは旺盛で興味もあるくせに、いざとなるとびくついて、あしらうのに骨が折れるわ」
それに答える言葉は笑い声の他は、低くてよく聞き取れなかった。けれどその笑い声は、いやらしく耳にまとわり付き、徐々にそれが、わたしの全身に回っていくように感じた。
階段を上る足が止まる。
ここまで、レイチェルにほぼ引きずられて上がってきた階段のスッテプが、どうしても上がれない。
めまいがしそうなほど混乱し、胃の中の物を全て吐き出してしまいそうなほど気分が悪く、そして叫び出したいほど恐ろしかった。
わたしはレイチェルにささやいた。
「お願い、レイチェル。わたしを邸に帰して。恐ろしいの。お願い、ここから出して」
「ユラ、安心なさいな。怖いことなどないのよ。楽しむだけよ。わたくしがずっとそばにいてあげるから、大丈夫よ」
レイチェルのいつもと変わらぬ静かな声が、一層、わたしの中の恐怖をかき立てた。彼女はほっそりとした身体に、どこにそんな力があるのかと思うほどに、わたしの腕をきつく締める。
もう一度、静かにささやくのだ。声と同様に静かな瞳を瞬かせて、「そばにいてあげるから。一緒にウサギを抱いて楽しみましょう」と。
紳士のなりをした男性たちが行き交う廊下。彼らは落ち着かない様子で手に持ったグラスを口元に運び、すれ違うわたしとレイチェルに、直接的で不躾な視線を向けるのだ。
 
レイチェルと共に入ったある部屋は薄暗く、照明はランプもなく蝋燭のみだった。点々と部屋のあちこちに盆のような物に置かれた蝋燭は、だらだらと蝋を盆の中に垂らし続けている。
しっかりと閉じられた窓の、厚い濃いグリーンのカーテン。部屋の中央には大き過ぎるようなベッドある。天蓋から垂らされたレースは破けている箇所もある。
そのベッドのシーツの白が、嫌というほどに目に飛び込んできた。
ここがどういう場所か、どういう目的で人々が集ったのか、おぼろげながら察してはいたけれど、このベッドの存在で、その意味を突きつけられたように思った。
「きれいでしょう? ここは館の手入れはよくないのだけれど、シーツだけは清潔なのよ」
レイチェルがそんなことを、楽しそうに言う。
優しくて静かな、いつも穏やかな笑みを浮かべるレイチェル。ここに向かう途中の馬車で彼女は、寒がるわたしの背を撫ぜ、抱いてくれた。
その貴婦人の彼女も、ここへあの目的でやって来ているのだ。
つんとする匂いが流れてきた。彼女が香に火をつけたらしい。煙がふんわりと漂う。
甘いような、喉の奥が苦くなるような、そんな癖のあるきつい香り。
レイチェルは立ったままのわたしを、ベッドに掛けさせた。隣りに座り、これまでの優しい彼女の仕草のまま、わたしの腕をさする。
「可哀そうに、恐ろしいのね、震えているわ。大丈夫よ。
わたくしたちは窮屈な男女の行為に、興味が持てないだけなのよ。だから、時折、秘密に集って、こういった会を催すのよ。
身分も関係なく、後腐れもなく、理性を忘れた行為を楽しむだけなのよ。それだけ」
「レディ・アンは……、わたしを、ロビンソン男爵夫人の別荘へ……、招待すると言っていたわ」
わたしは合わない歯の根をかちかちいわせながら、いまだにこんなことを口にしている。
この期に及んでも、レディ・アンの豹変が信じられないのだ。
彼女はいつだって、朗らかで優しく、気品に満ちて……。まぶしい思いで、これまでわたしは彼女の美しい姿を目で追っていた。
「こういう会は、度重なると刺激がほしくなるのよ。だから、都度に新しいメンバーを選んで、加わってもらうの。
彼女、可愛いらしい令嬢を見つけたと、喜んでいたわ。
絶対にこちらへ連れてくると言っていたのよ。とっても面白い趣向になるって」
レイチェルの答えたものは、わたしの質問の直接の答えではなかった。しかし、それ以上ロビンソン男爵夫人について尋ねる気は起きなかった。
わたしはレディ・アンの張った罠に、簡単に落ちたのだ。
部屋に靄のような香の煙が満ちる。
がちゃりと、ドアの開く音がした。ゆっくりと入ってくる紳士風の男性。
背の高い恰幅のいい中年のその男性に、わたしは見覚えがあった。
レディ・アンが幾度か伴ったチタウィック氏だ。
彼は身体に合わない、甲高いほどの声で、
「まさか、本当にあの黒髪の令嬢がここに来るとは思っていなかったよ。いや…、レディ・アンの腕は大したものだ」
彼の視線がわたしに注がれる。その絡むような粘りのある視線を受けて、わたしは顔を背け、幾分逃れるように身をよじった。
頭を少し動かしただけなのに、くらりと視界が揺れるほどくらむ。この部屋の香のせいだ。香りがきつくて、合わない。気分が悪い。
気づくと、しゅるっしゅると不思議な衣擦れの音を立てて、レイチェルがドレスを脱いでいる。
コルセットをつけた細い身体のラインがあらわになる。その姿のまま、ベッドに仰向けになった。
「解いて下さらない? ダン」
彼女は誘いの声を掛け、自分からうつ伏せの姿勢にくるりと寝返った。
幾重にも絡むコルセットの紐を、チタウィック氏がベッドに乗り、剥ぐように解いていく。シュミーズから彼女の白い乳房が、こぼれるようにむき出しになった。
彼女の裸体に、焦るように自分の衣服を取り去っていく彼。
捲くれた長いスカートの中の、闇にレイチェルのまっ白な脚が、長くすっと高く伸びて折れる。その脚にしがみつく彼。
「ユラ、あなた横になって、少し休んでいらっしゃい。ひどい顔色をしているわ」
話すのが辛そうに、彼女の声は既に息が上がっている。
耐え切れない思いで目をつむった。嵐のようなめまいが襲う。あの、気持ちの悪い香の匂いのせいだ。
その瞬間ぷちりと、頭の奥で何かが切れるような音を感じた。
そうしてわたしから、視界が消えた。
 
 
気づくとわたしはベッドに寝かされていた。すぐ隣りで絡み合う肌の白さが目に入り、二つの乱れた声や吐息が、耳を突き刺すように飛び込んできた。
これらの事象に、瞬時に全てを思い出した。
まだ部屋は薄暗いまま。それほども気を失っていなかったようだ。
起き上がろうとして、恐ろしいことに気づく。
わたしは両の手首を、ベッドヘッドの一部に縛り付けられていたのだ。
ひどく堅い結束は、動いた程度では外れない。それでも体をよじり、解こうと試みる。動くたび革紐のようなものは、きつくわたしの手首に食い込む。
「外して、これを解いて」
「目が覚めたのね。ダン、彼女にワインを飲ませてあげて」
チタウィック氏がレイチェルの指示に、彼女から体を剥がす。何も纏わずベッドから下り、壁のテーブルの上の瓶に入った液体を、グラスに注いだ。
食堂で口にしたまるで錆のような血のような、鉄臭い味のワインを思い出した。
「い、嫌、嫌」
彼の手がわたしの顎に付けられた。つまんで持ち上げ、もう片方の手のグラスを唇に寄せる。
わたしはぐっと、唇を閉じた。すると彼は空いた手でわたしの鼻をつまんだ。長く長くそれは続いて、息の苦しくなったわたしが少し唇を開けたところに、どっと生ぬるい液体が、容赦なく流れ込んできた。
激しく咳き込み、横を向いたわたしは、口の中のほとんどをシーツの上に吐いた。それと共に涙がこぼれた。
「止めて、嫌、お願い」
どこかにグラスを置いた彼の手は、次にわたしの衣装を脱がせていく。堪らずに、わたしは悲鳴をあげた。
どうしてこんな目に遭うのか。どうしてこんな男に組み敷かれなくてはならないのか。
堪らない恐ろしさと嫌悪感、怒り、それらがない交ぜになったものが、わたしの身体に圧し掛かっている。
ぶちぶちとドレスのフックが外れた。ずるずると足元から、わたしを包んだ衣装が剥がされていく。
コルセットに手を伸ばした彼が、笑いを押し殺すような声を出す。わたしのささやかな抵抗が楽しいかのように、
「そんなに怖い目をしなさんな。逃げられないよ。楽しみなさい」
最後の紐が外されたのだろう。胸の辺りが変に楽になる。
わたしは目に涙を溢れさせ、そんなことをぼんやりと思った。
逃げられない。
逃げられないのだ。
知らない大きな手は汗で湿っていた。それが脚に触れ、張り付く感覚。それはわたしを震え上がらせた。
ドアが開き、別の男性が入って来るのが見えた。その男性は薄いシャツのようなものを一枚纏っていた。
それを脱ぐと床に落とし、しどけなくワインを飲んでいたレイチェルに覆いかぶさった。彼の重みが、ベッドの軋みと揺れで伝わる。
レイチェルのグラスが床に落ちて、割れる音が室内に響く。彼女のもらす、くぐもった嬌声。男の忍び笑い。
ここから逃げられない。
そんなあきらめを受け入れさせるほどに、圧し掛かる力は強く、脚を這う手が深くなっていく。指がもう、下着が触れそうな場所に届きそうだった。
わたしの、息が切れるまで抵抗していた力が、どこかで抜けていくのを感じる。
どれだけ我慢すればいいのだろう。どれだけの時間が要るのだろう。
そして、何を耐えればいいのだろう。
 
でも、もう、ガイにはきっと会えない。
会いたくない。
きつく唇を噛んだ、その瞬間笛のような音が響いた。それは断続的に続き、その後で何やら騒がしいばたばたとドアの開くような音、どかどかとした足音まで聞こえる。
叫ぶような怒鳴るような、人声がする。それはどこか剣呑な雰囲気に感じた。
何があったのだろう。どうしたのだろう。これ以上人の数が増えるのだろうか。彼の後に、何人こういった男性を堪えなくてはいけないのだろう。
絶望感でわたしは、露わに泣き出した。
わたしの上に乗っていたチタウィック氏が、不意に身体を起こした。
「何だ? 何があったんだ?」
「見てくる」
後から入ってきた男性がシャツを羽織り、部屋を出て行った。
レイチェルはうつ伏せのまま、落ち着いた声で、
「きっと喧嘩よ。男性がレディ・アンでも取り合っているのよ」
そんなことを言う。そうして、落ち着きをなくしかけるチタウィック氏に手を伸ばし、「ユラを脱がしたら、こちらに戻って来て」と甘い声で誘っている。
慣れた動揺のない声。それは幾度も男性が、レディ・アンを取り合う場面に遭遇したかのようだ。
「しかし、笛が鳴ったじゃないか。憲兵でも来ているのじゃないか?」
チタウィック氏はもうわたしに構わなかった。焦れた様子で衣服に手を伸ばした。
先ほど出て行った男性が戻ってきて、「レディ・アンがいない」と告げた。
この報告にチタウィック氏はもとより、レイチェルも俄かに慌て出した。衣服を忙しく身につけ始める二人。もう一人の男性も駆け足で部屋を出て行こうとした。
そのとき、ドアが大きく開き、幾つもの硬い靴音がなだれ込んできた。
「服を着ろ、男は壁に立て」
厳しい声がかかった。
誰だろう? チタウィック氏が口にした憲兵の人なのだろうか。
やや首を上げると、ドレスを着る途中だったのだろう。シーツを包ませてベッドに座り込むレイチェルの姿と、シャツを着ただけの、間抜けな姿のチタウィック氏が、壁に背を当て立っていた。もう一人の男性も、ドアの付近で壁に背を向けて立たされている。

新たに入ってきた誰かの視線を、わたしは頬のそばに感じた。
「お知らせしろ。こちらにいらっしゃうると」
命じた声に散っていく足音。
長い銃持った紺色の軍服を着た人の姿が目に入った。この部屋に数人見える。彼らはチタウィック氏と男性の前に銃を突きつけている。
彼らは誰なのだろう。
その一人が近寄り、わたしの手首の紐を解いてくれた。
起き上がり、ようやく自由になった手をわたしは胸に抱いて取り戻した。ひりひりと痛い。どうりで、血がにじんでいる。無理に飲まされたワインのせいか、頭が痛い。まだ、室内は香の匂いがきつい。
再び靴音が聞こえた。急いで、走るような。
何かがこちらに迫って来るようで、それはわたしをひどく驚かせ、怖がらせた。
開け放したドアから部屋に駆け入り、目の前に現れたのは、ガイだった。
「お嬢さん」
彼の声は小さく、つぶやくようだった。もう一度彼はつぶやいた。
「……無事で、よかった」
わたしは声が出ない。彼がここに現われるなど、来てくれるなど、到底考えられなかった。
彼はここを知らない。わたしがロビンソン男爵夫人の別荘にいると思い込んでいるはずなのだ。
どうして、彼はここにいるのだろう。
どうして彼はいつも、わたしの一番辛いとき助けに現われるのだろう。
どうして……?
ガイは自分のコートを脱ぎ、わたしに後ろから着せてくれた。くるむように包み脚と背に腕を回した。ふわりと抱き上げる。
「帰りましょう。あなたを迎えに来た」



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