甘やかな月(21
 
 
 
ざわめいた館内が徐々に喧騒を失っていく。耳に届くのはこつこつという厳しげな靴音、そして軍服を着た彼ら闖入者の交わす短い会話だ。
わたしはガイの腕に抱かれたまま、全てを避けるように彼の胸に頬を当てていた。
頭を痺れさせるような重い香の香りが、ようやく薄れていく。しかし鼻と喉の奥にそれはいまだこびりつき、軽い頭痛と胸の悪さが残るのだ。
階段を下りて行く。目を閉じていても、身体の揺れとガイの立てる靴音で察せられた。
足音が近づいた。
「お帰りになりますか?」
ガイに問う男性の低い声。
ガイはそれに「ああ」と答えた。
「残りの者たちはどうなさいます? お望みでしたら、この辺りの憲兵を呼びますが」
「それには及ばない。ありがとう、もういいんだ。帰りを護衛してくれたらそれでいい。パレスに向かう」
「承りました」
それで彼の気配は遠くなった。続いて、「集合」と、号令をかける声が聞こえた。
ガイは階段を下り切った。そのまま進み、空気の違いで屋外に出たことを感じる。
そこで初めてわたしは目を開けた。ガイに抱き上げられてから、わたしはずっと目を閉じたままでいたのだ。
ポーチの辺りに停められた馬車。その周囲に馬が幾頭もつながれていた。それらの飾りの付いた鞍は、夜目にも鮮やかだった。
馬車の前には見慣れない御者がいた。ガイの合図に彼がドアを開けた。
ガイは馬車の中にわたしを乗せると、自分は乗らずに外に立った。
胸のポケットから煙草を取り出し、いつものようにそれを口に挟む。
わたしは瞳を凝らして、薄明かりの中ガイの背中を見つめる。彼の背は、いつになく厳しく感じ、彼の怒りを嫌でも感じた。
それは幾分かはわたしに向けられたものであると思うと、恐ろしさの果てに彼に助けられた喜びの影で、いたたまれない気分が生まれる。
愚かで軽率な行動のせいで、わたしは大切なものを失うところだった。
彼に、彼だけに捧げるべき、大切なものを。
不意に彼の肩の線の向こうに、白い影が見えた。ちょうど館の裏手から、その影はやや揺れながら側面に回ってくる。
それはレディ・アンだった。
白っぽいドレスの肩にショールのような薄物を羽織っている。両の腕を抱き歩いてくる。その歩みが止まる。
ガイとはどれほどの距離があるのだろう。
微かに彼女の笑い声のようなものを聞いた。わたしは体をくるんだコートから手を出し、ほんの少しドアを開けた。ドアは音もなく開いた。
彼女が何を言うのか、ガイがそれに何を答えるのか、聞きたかった。
じっと耳を澄ますと次第に耳が慣れ、ひどく小さく届く彼女の言葉が聞き取れるようになる。
「…か、寝入りばなを襲われるとは思わなかったわ。近衛を呼ぶなんて、周到じゃない。よほどユラにのぼせ上がっているようね、ガイ」
ガイはそれに答えなかった。彼の吐いた煙だけがふわりと闇に浮かぶ。
「でもあの子、ユラね、最初こそ驚いて怖がっていたようだけど、すっかり観念すると、自分から男に体を開いたのですって。ねえ、素質があるようじゃない? 嬉しいでしょう? ガイ」
嘘、違う……。そんなのじゃない。
喉元まで出掛かった。
そこでガイはなぜか身を屈めた。すぐに元に戻ると、素早く右手を前へ振った。ボールでも投げるように。
大きなガラスが割れる音が、闇の中に響いた。
彼が放った石が、レディ・アンのすぐそばのガラス窓を破ったのだ。それに彼女が一瞬、身をすくませたのが見えた。
「二度と僕と彼女の前に現われるな。次はないと思え」
ガイがくるりと彼女に背を向け、馬車の反対側に回る。そのときの彼のつぶやきが、耳に入った。吐き捨てるようなそれは、わたしの知る彼の優しい口調とはあまりにも違っていた。
ガイは、
「人殺しが……」
そうつぶやいたのだ。
彼女の笑い声が再び甦った。含むような忍ぶような、嘲笑の混じる、聞いていて胸の悪くなるいやらしい笑い声。それは夜に溶けるように消えた。
わたしは初めて、彼女をいやらしいと感じた。
ガイが馬車に乗り込むのとほぼ同時に、馬車の周囲を軍服を着た人々が集まり始めた。
ガイはステッキの柄で、馬車の壁をかんと打った。
それが合図に、がくんという揺れの後で馬車が走り出した。
わたしはひっそりと、先ほど空けたドアを閉めた。ガイに気づかれぬように、静かに。
 
彼の腕が伸びた。やや乱暴なほどに強く、わたしを胸に抱いた。
彼の息遣いやいため息に、抱える怒りを感じる。きつく抱きしめられることが嬉しいのに、少し身がすくむ。
「ごめんなさい。わたし……」
「あなたのせいなどではない。目を閉じて、眠りなさい。そうすれば全てが終わっていますよ、お嬢さん」
わたしは目を閉じた。
言われるままに。
そうすることで彼の怒りが静まるのなら。
瞳を閉じると、じわじわと疲れが押し寄せてくるのを感じた。気持ちの疲労はわたしを深く苛んでいた。
彼のくれる温かさに酔うように、いつしか意識を失っていく。
 
 
ガイに再び抱き上げられる気配で目が覚めた。辺りは暗く、まだ恐ろしかった今日の続きであることを察した。
石畳の回廊を明かりを持った人物の先導で、ガイは進んでいく。
わたしは寝覚めのぼんやりとした視線を、彼の腕の中から周囲に向けた。
左右にだらだらと茂みが続くこの回廊を、わたしは知らない。ここは、見慣れた彼の邸ではない。
回廊の果てにある大きな大きなドア。入ると臙脂の絨毯を敷いた長く伸びる廊下が先に見えた。
先導の人物の後に付いて、幾らかガイは歩いた。
ある部屋に招じ入れられた。
明るい室内は清潔で、暖炉には火が燃え暖かだった。客用の豪華な寝室。その中央のベッドにガイはわたしを横たえた。
「今夜はここで、お休みなさい」
わたしはすぐに体を起こした。体をくるんだコートが前で割れ、下着だけの姿に今更に愕然となる。慌ててかき合わせる。
ガイはわたしから視線を逸らし、
「ここは王宮です。王子の離宮になる」
そこでガイは、わたしを助けるために、王子に彼の近衛隊を動かしてもらったのだと言った。
あの軍服の人々は、やはり軍人だったのだ。
彼の表情は、少し疲れているように見えた。視線をあらぬ方に向け、別段興味もなさそうに掛けられた絵画を眺めている。
そこへ二人のメイド服の女性が現れた。
何よりお風呂を使いたかったので、彼女たちの登場は嬉しかった。早く身体も髪も、じゃぼんで清潔にしたかった。全て洗い流したかった。脚を這ったあのいやらしい怖気のする掌を、わたしは覚えていた。
ガイは彼女たちと入れ違いに、わたしへ背を向け出て行く。「明日、朝迎えに来ます」と、彼はそう言い残して。
 
王宮で眠った翌朝から、わたしは熱を出してしまった。
恐怖や疲労や緊張、そういったものが全て解けた後の代価のようなそれは、わたしの思考をすっかり弛緩させた。
ガイに訊きたいことは多かったが、それを問うのが億劫だった。そして、
訊ねるべき質問を、痛む頭で思い浮かべることができずにいた。
ただガイに甘えるように、早く邸に帰りたいとねだるだけだ。
あのガイを取り巻く日常を、わたしは愛していた。見慣れた寝室で眠り、窓からの見慣れた景色を楽しみたかった。舌の焼けそうなお茶を、あの書斎や温室で飲みたかったのだ。
ガイはそれを叶えてくれた。
やはり甘やかすような過保護な彼に抱き上げられたまま、邸に帰り、わたしはよくなじんだベッドで休むことができた。

嬉しかった。

安堵や彼のそばで安全にいる幸福、何もわたしは奪われずに失わずに済んだ事実……、嬉しさの意味は、緩んだ気持ちに一つ一つ挙げられない。

けれども、どうしても嬉しいのだ。
外出先でわたしが熱を出し、ガイがそれを迎えに来たという彼の作り話を、あっさりと邸の人々は信じてくれた。
ガイから報告があったのかどうか、ちらりと意味ありげにわたしを見るハリス。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるアリス。様子をのぞきにくるアトウッド夫人。
邸の中は、どこか浮き立ってるようだった。それに、わたしたちの急な婚約が、彼らの祝福を受けるものだと感じれば、恥ずかしさも少しだけ薄らぐ。
そんな暖かい日常に戻れた喜びは、緩んだ気持ちにどっぷりと甘えを呼んだのか、わたしの体調はしばらく回復しなかった。
 
 
三日目の夜にはようやく熱が引いた。まだ少し頭痛は残るものの、明日には起き上がりたくて、渋るアリスに無理を言ってお風呂の用意をしてもらった。
髪を洗い、体をいい匂いのするシャボンでこするのだ。
さっぱりした体を、清潔な寝間着に着替えた。乾ききらない髪は、編んでくるんと上にまとめる。
シンガを抱いて、窓から下に広がる庭園の景色を眺めた。庭師のジョンの話では、春には絵の具箱をひっくり返したように、花々の咲き乱れる華やかな様子が見られるという。
わたしは今からそれを、楽しみにしているのだ。
こんこんとノックの音。
眠る前のお茶を持ってきたアリスだと思った。上の空で「どうぞ」と返事をする。
しかし、現れたのはガイだった。
「ああ、眠るところだったのですね。マーガレットが、もう良いようだと言うので……。気分はどうです?」
王宮からこちらへ帰ってきた三日前から、彼には会っていなかった。
わたしはシンガを床に下ろし、代わりにベッドの縁に掛けたガウンを手に取った。肩に回そうとして、ガイの腕が伸びた。着るのを手伝ってくれる。
「ええ、もう大丈夫よ。明日には起きられるわ」
「そう、それはよかった」
彼の指がわたしの頬に触れた。するすると撫ぜるように指が流れ、するりとわたしの顎を捉える。少し上向かせ、自分も背を屈め、彼はわたしに口付けた。
そんな彼の仕草にときめきながらも、どこかで自然に受け入れるわたしがいる。
彼の隣りにある自分を、わたしは既に認めているのだ。
「あなたに、話があるのです」
彼の手がわたしの背に回る。腰に落ちたその手で、わたしを引き寄せた。
頭に乗る彼の頬を感じる。
「どんな話?」
「あなたには、面白くないかもしれない。……アンのことを」
彼の口にした彼女の名前に、わたしの肩がびくりと震えた。かつて輝かしかったそれは、今ではすっかり忌まわしい名に変わっている。互いに。
 
「いいわ。聞かせて」
わたしはおなかに力を込めてそう言った。彼の腕の中にいて、彼を感じながら、何を恐れる必要があるのだろうか。
「何を、話したらいいのだろう」
彼の逡巡。
わたしは彼のシャツの胸に唇を当てる。
「全て聞かせて」



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