甘やかな月(22
 
 
 
わたしはベッドに掛けた。
ガイはポケットに手を入れて、少し歩いて立ち止まって、を繰り返した。
彼の頭の中で、レディ・アンとの過去がどのように広がっているのか。そして、それはわたしにどう伝えられるのか。
息を呑む思いで、彼を見つめた。
彼は不意に顔をこちらに向けた。ごく軽い調子で、
「あなたを救うヒントをくれたのは、覚えていますか? あのクリストファーなのですよ」
ガイの教え子の一人である彼とは、幾度か会ったことがあった。大学の研究棟で、公爵夫人の舞踏会で。
そこでわたしは、初めて彼女に出会ったのだ。レディ・アンに。
どこかふてぶてしいような、斜に構えたような雰囲気のある彼は、彼女の華やかな取り巻きの一人だった。
意外な名の登場に、わたしは首を傾げた。彼女と出かけた多くの外出には、一度も彼が現れたことはなかった。
ガイは話を続ける。
三日前、わたしがロビンソン男爵夫人の元に出かけて間もなく、そのクリストファーが、不意に邸にやって来たのだという。
「彼が以前ここに現れたのは、ニ年も前、父親の子爵とうちの大学への編入を頼むための一度きりです。
おかしなこともあるものだと思った。早々と、卒業のための単位と論文の件で泣きついてきたのかと思いました」
「彼は」と言いかけ、ガイは手持ち無沙汰な様子で指をポケットから出したり入れたりしている。
きっと煙草が吸いたいのだろうと思った。吸ってくれて構わないと言うと、彼はそれに首を振った。
 
ドアを叩く音がして、それにガイが「お入り」と答えた。
アリスが休む前のお茶を持って現れたのだ。彼女はガイの存在に驚いている。目をぱちりと大きく開き、開けたドアの前で立ったままでいる。
「あの、あの……、わたし、お嬢さまに、お茶を……」
それきり固まってしまう。
彼女の驚きように、わたしまでもが恥ずかしくなる。悪気はなくとも、彼女はきっと自分の目にしたことを、朋輩のメイドたちに早速話すだろう。
ガイが夜分遅くにわたしの寝室にいるのだ。それはきっと召使だまりの大きな噂になるに違いない。
ガイが彼女の手からシルバーのトレイを受け取った。「お嬢さんのお世話は、僕がする。もういいよ。お下がり」と、彼は何でもないことのように言うのだ。
いつの間にかドアが閉じられ、アリスが出て行った。
わたしの前に、ガイがポットから注いだらしいお茶が差し出された。
それにちょっとおかしみを感じて、笑みが浮かんだ。
これまで主人であるガイは、お茶を自分で注ぐことなどなかった。それはいつも従僕頭のマイクやメイドの誰か、もしくはわたしが注いで、彼に差し出すものなのだ。
「ほら、僕もあなたの役に立つでしょう?」
そんなことを言って笑う。
その彼の笑みにじんわりと愛しさがこみ上げ、わたしは胸がちくんと痛くなった。
 
眠りに着く前のお茶には、普段はあまり飲まないフレーバーのあるものを用意してもらう。柑橘系の香りのついたもの、あるいは果実の実の甘い香りのもの。
それを飲むのは、また一日こちらの世界に残っていられたという、区切りと確認のためだった。わたしの哀しい小さな秘密の儀式。
それは、形骸化しても残り、今ではわたしの習慣になっている。
その柑橘系の果皮の匂いが、ほのかにお茶の湯気から漂う。わたしは口を付けることなく、カップを膝に置く。
ガイが話を続けた。
「クリストファーがアンの取り巻きであることは、以前から耳にしてはいました。派手好きで、華やかな取り巻きを好む彼女らしい人選で、至極納得したものです。シガレットケースを持たせるには、あのブロンドの彼は実に適任だ」
ガイの言葉の端々に感じられる、痛烈な皮肉。もとより、ガイは彼を好きではない様子はうかがえた。親の権力で強引に編入を成した彼、不遜な態度、向学心のなさ、そしてレディ・アンの影を感じさせる彼。
その彼がこの邸にガイに会いにやって来た。来意はちょっと驚くものだった。
「彼は妙なことを口走っていました。実は夜に決まりの予定があったのだけれども、どうにも気が乗らないので急に断ったのだとか、落ち着かない様子で、あなたのことを尋ねたり、ニールからあなたがアンと親しそうなことを知ったとか……。
要領を得ないこと甚だしかったが、ぽんと飛び出した事実に、僕は煙草を取り落とすところでしたよ」
クリストファーが言うには、一度わたしとレディ・アンが一緒に観劇をしている場に、母親のお供をするニールさんが遭遇したことがあるという。
彼はそれを彼女の取り巻きのクリストファーに話した。彼女はガイの前妻だ。彼女がわたしを伴うことを、ガイが承知しているのかを、探ったらしい。令嬢が保護者の監視外で外出することは、ひどくはしたない行為と見られたのだろう。
ガイに従順なわたしの行動として、客観的に見て、とても突飛な行動だったのかもしれない。
常識家のニールさんの懸念がなければ、ここに無事でわたしは座っていれなかったろう。
小さなタイミングと、人の大きな厚意、それらがうまく奇跡に近いバランスでわたしを救ってくれたのだ。今更に、人々がくれたぎりぎりの幸運に、ありがたさで感謝したくなる。
もしかしたら、あの館の薄汚い食堂でレディ・アンが口にした「最後のメンバーが変更になった」というのは、クリストファーのことなのかもしれない。
だから、彼はニールさんの話と絡め、もしやという疑念で、ガイに打ち明けたのだろうか。
「あなたとアンが親しいなど、僕はちらりとも思ったことはなかった」
「初めに会ったのは、ニールさんと出かけた舞踏会で。その後、ロビンソン男爵夫人が、仲介をして下さったの。最初から、レディ・アンは、とても……、わたしに優しかったの」
わたしは冷えた指先を温めるように、ティーカップに指を回す。
 
「クリストファーによるとロビンソン男爵夫人は、その日は彼の母上と一緒に、王宮の晩餐会に出席するというじゃないですか。では、僕のあなたを招待したもう一人のロビンソン男爵夫人は……」
彼はそこで言葉を切った。膝を床に付き屈んで、わたしの目線に自分のそれを合わせる。
「僕がどんなに恐ろしかったか、わかる? 可愛いらしいあなたが、どんな目に遭っているのかを考えただけで……、気が違いそうになった」
彼は瞳を微かに凝らし、幾分強いまなざしを向けた。
彼の言葉、視線に、ひたひたと彼女への強い怒りを感じる。
わたしがレディ・アンから聞いて鵜呑みにしていた、悲しいけれど美しい二人の過去。
そして郊外の薄汚い館での淫らな行為を楽しむ彼女。わたしを救うため踏み込み、彼女のほんのそばのガラス窓に石を投げつけた彼。割れたガラスの大きな音。彼女の下卑た笑い声が、まだ耳に残る。
二つのわたしが目にした聞いた現実。
それはどこまでが真実なのだろう。どこからが虚偽なのだろう。
 
わたしは彼に詫びた。心配をかけたこと、彼女との交際を黙っていたこと。
「ガイが彼女のことを、まだ愛していると思ったの。だから……、言いたくなかったの。彼女の名を聞いたあなたの表情を見るのが、どうしても嫌だったの」
「僕は……」
彼がわたしの膝のカップを、傍らのチェストの上に置いた。
そうやって、ベッドのわたしの隣りに掛けた。
肩に手を回し、やんわりと引き寄せる。わたしの髪に指を這わせながら、
「僕は、アンを愛したことなど一度もない」
信じられないでしょうが、と前置きをして続けた。
「殺したいくらい、憎んでいました」
 
「何から、話したらいいのだろう」
恐ろしい彼の告白に背中がぞわりと泡だった。しかし、彼の声に、わたしは瞳を閉じた。堪えたのではなく、自然に彼の続く言葉を待つのだ。
彼のそばにいる温もり。それを感じる今、きっとわたしは何だって受け入れられるような気がした。
どんなあなたでもいいの。
全て教えてほしい。



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