甘やかな月(23
 
 
 
「僕がアンと初めて出会ったのは、子爵の邸でした。そのころまだ存命であった彼が、園遊会を催したのです。初夏には暑い日だった。木陰に多くの人が逃げ込んでいました。一匹の蜂の、うるさく飛んでいた羽音が耳に残っている」
ガイはわたしの頭に、軽く頬を預けている。
肩を抱く彼の手は、するりと近くを指が這い、または髪に絡んだ。
マントルピースの中の炎が、一瞬空気をはらんで大きくふくれる。近くに新年を迎える今は、炎のくれる暖かさが恋しい冬。
そして彼が語る過去は、これから盛夏を迎える初夏なのだ。
それはとても遠い。
「ご婦人は皆、似たような白い衣装を着ていました。日傘を持って」
社交界の主だった人々が顔をそろえる、盛大な催しだったという。
「僕はあのころから、そういう場に出るのがあまり好きではなかったのです。面倒だし、大抵はつまらない。学者であることを言い訳に、派手な社交はほとんど避けていました。
しかし、あの会は、ほぼ僕と子爵令嬢のアンを引き合わせるために設けられたような会で、子爵が直々にここに迎えに現われるほどの念の入れようでした」
彼はそこで補足をしてくれた。
レディ・アンの父親である子爵は、彼女の婿候補を、園遊会の随分と前から選んでいたという。「地位があり、金がある者」それに適ったのがガイだったという。
「朝起きて、きれいなご婦人が朝食の席の隣りにいる。または僕の好きな献立を考えてくれたり、邸のそこかしこに花を活けてくれる。そんな人がいれば、楽しいだろう。
……僕は結婚について、その程度のことしか考えていなかったのです」
ガイが二十二歳、レディ・アンは十七歳。
白いレースの襟のついた衣装を着た彼女は、美しかったという。暑さにちょっと参ったような、それでも行儀よく微笑を浮かべ、
「お互いに、ご苦労なことだと思われません? この月は、わたくし、あなたで五人目なのです。こんな馬鹿らしいことが続くのなら、本音を申し上げて、わたくし、あなたで手を打とうかと思っているのです」
早く結婚を決めれば、父が彼女を見合い騒動から解放してくれ、再び友人たちと楽しい遊びに出かけることができると、彼女はあけすけに告げたという。
「面白いことを言う令嬢だと思いました。巻いた髪が、そのときはまだふっくらとした頬の縁にかかり、大層彼女は可愛らしかった。画集にある天使のように」
ガイの言葉に、当時の彼女の美しさ愛らしさが目に浮かぶようだ。澄んだアーモンド形のきれいな双眸。それを時折瞬かせる。ぱちり、そんなささやかな音が聞こえそうなくらい、引き込まれそうな瞳。整う鼻梁。滑らかな白い肌。艶めく形のいい唇。
「僕のような書物と数式ばかりの若者をその気にさせるなど、彼女にはごくたやすいことなのでしょう。僕は、彼女の言葉の意外性も併せて、すっかり彼女に惹きつけられた。馬鹿みたいに簡単に」
 
ガイの過去。彼がレディ・アンに抱いた印象と恋。それにわたしはやんわりと傷ついた。
彼女とのそれからに何があろうとも、始めに、彼の恋があったのは紛れもない真実。美しく聡明で、機知に富んだ彼女への、彼の興味と憧憬。
それだけは、変わらないのだ。
ありえないことだけれども、当時の彼女とわたしが今並んでいても、決して過去のガイはわたしを選ばない。
彼女との関係に破れたからこそ、わたしを選んでくれたのだ。
だから見劣りのするわたしを、ガイは妻にしてくれる。
「お嬢さん、僕は喜べばいいの? それともあなたに詫びればいいの? どちらですか?」
不意に、彼の声が額辺りに降ってきた。
「止めておきなさい、アンなどに妬いたりするのは。馬鹿らしい」
彼に心の中をすっかり見透かされて、わたしは恥ずかしさに頬がじゅんと熱くなった。
その頬を彼の指が伝う。
わたしが目を伏せて、ほんのりと頬を膨らませていたという。そんなときは決まって妙なことを考えているのだと、彼は言う。
指が少しわたしの顔を上向かせた。彼の唇がわたしのそれに重なる。
「僕が心底可愛らしく思い、愛しているのは、あなただけですよ、お嬢さん。僕は、あなたに僕の手にできる全てを捧げる。それでは満足できませんか? 欲張りなお嬢さん」
彼の唇がごく軽く、わたしの上唇を噛んだ。
その仕草に、胸の奥にじんとした甘い痺れが広がる。
「けれど、可愛いらしいあなたが、僕に妬いてくれるのは、嬉しい。いい気分になる」
 
ガイが話を戻した。
レディ・アンとの婚約はあっという間に決まったという。子爵はもとよりそれを目論んでいたのであるし、ガイの側にも特に障害はなかった。
しかし、当時健在であった彼の祖母が、やや難色を示したという。
「祖母ははっきりとは口に上せませんでしたが、アンを見て、どうにも気に入らない様子でした。『お前の手に負えるご婦人には見えない』と、そのようなことを幾度か言われたのを覚えています。既に祖母はアンの汚れた資質を見抜いていたのかもしれません。しかし、あきれたことに僕は、そのありがたい忠告を聞き入れなかった…」
多くの人々の祝福を受け、彼らが結婚をしたのは、婚約して半年後のこと。式を急いだのには、子爵の健康があったからだという。
「アンの婿探しをやたらと急いたのには、彼自身自分の健康を危ぶむ気持ちがあったのでしょう。元気なうちに、自分の目に適う者を、娘に添わせたかったのだと思います。式の後一年もしない間に、彼は亡くなりました」
ここで、ぽつりとガイがもらした。
あんな女でも、父親の死は悲しかったようだ、と。
 
結婚して間もなく、レディ・アンは仮面を脱ぐように、可憐な令嬢のふりを止めたという。
「表の顔と裏の顔を、がらりと変えるようになった。
邸の使用人たちの前では、それは朗らかないい女主人を演じていた。彼らの誰かが病気のときには自身で薬草を煎じて見舞いもする。パーティーを盛んに催し、人を招き、よくそれらを捌いた。
僕は友人によく言われたものだ。『君は実に幸福者だ。あんなに美しく優しいレディ・アンを妻にして』と。しかし、それは表の顔に過ぎないのですよ。

使用人たちの影では彼らを嗤い、端から馬鹿にしていた。社交に気を入れていたのは、それが派手好きの彼女の気に適うのと、ある目的のためです」
ガイはそこで言葉を切った。
わたしの様子をうかがう。彼のその仕草、もしくは配慮に、記憶の奥で、ある出来事がつながり始めた。
彼女は、あの秘密の愉しみのため、その仲間に引き入れるべき者を、社交の場で物色していたのだろうか。
レイチェルが、あの館でわたしにもらしたではないか。
新たな刺激がほしくなるのだと。
まさか、そう口にしかけて、わたしはためらった。ちらりと彼を見る。
彼はわたしの視線を静かに受け止め、まるでうなずくようにそれを伏せた。
「彼女は僕と出会う前から、淫らな仲間を幾人も持っていました」
「まさか、そんな……。でも、結婚したばかりでしょう? おかしいわ」
ガイは少し口の端に笑みを浮かべる。わたしの言葉がおかしいように。
「だから」
彼女が自分との結婚を決めたのは、父親の子爵の目的とそう変わらない。金と地位のある男。
ガイは淡々と告げる。
「彼女の場合はそれに、御しやすい男という条件が、加味されていたように思います。当時の僕は、まさに適任だ」
自分の快楽と享楽のために結婚をし、それを維持するために社交を重ね、その中で新たな享楽の糧、種となる人物を拾ってくる。
そう、あっさりと彼女の張り巡らした罠に落ちたわたしのように。そんな人物を、もしくは同じ趣味を持つ人物を探し、見つけ、取り込む。
ああ、そうだ。
目の裏に、あの夜、わたしのネックレスを引きちぎった彼女の表情が浮かぶ。
唇の下端をぬめる舌で舐めた彼女。面白がっているような、光る目は爛々と輝いて、それにわたしは息が止まるほどに驚いた。そうして、どうにもならなくなるまで、自分も勇気もなくして、逃げ出すことすら頭になかった。射すくめられた小動物のように。
彼女のあの目は、蛇のようだった。
わたしは恐ろしさと汚らわしさを思い出し、身震いする。
「ガイ……」
彼に抱きついた。その腕の中で、いやいやとでもするように甘えるのだ。そうすることで、彼が一層、わたしを抱く腕に力を込めてくれるのを期待している。
「別れることは、できなかった。彼女は離婚するなら、自分の件を暴露すると言った。あれは、覚悟のある女だ。決めたことは本当に実行する。
恐ろしいほどの醜聞は伯爵家の家名に泥を塗ることになる。僕の母は王妃であった方の姉になる。醜聞は彼の方に及び、皇太子であるエドワード王子に及ぶ。とても僕一人の判断で決めていい問題ではない。
おかしなものだ。削り取りたい部分が大きな足枷になってしまった」
だから、とガイはわたしを強く抱きしめた。
僕は耐えるしかなかった、と。
だから、耳と目を塞ぎ、見ないようにし、彼女の好むようにガイは振舞った。仲のいい素敵な二人。彼女の気に適うように、睦まじく、腕を組んで、腰に手を回し、邸では使用人の前でこんなことを言う、
『僕の奥さまはお出かけかい?』
それらは、彼女の真の顔を隠すカモフラージュになった。
 
いつまで、そんな努力を続ける気でいたのだろう。いつまで、その苦しみに耐えるつもりでいたのだろう。
果てのない空疎な努力。それはガイをどれほど蝕んだのだろう。
ここにきて、わたしの胸にレディ・アンに対する密かな怒りが生まれた。
わたしはあなたを、きっと軽蔑する。穢れて、邪まで、ひどく忌まわしい。それがあなた。
「彼女との、終わりの知れない関係に、変化が起きました。彼女はいきなり僕に恐ろしいことを告げた。子供ができたというのです。無論僕の子であるはずがない。どこの誰とも知れぬ子を彼女が宿したのです。そして、ごく幸せそうな表情で僕に言った。
『喜んで、あなたの跡取りができたのよ』
僕は、目の前が真っ暗になった」



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