甘やかな月(24
 
 
 
わたしの中で記憶の、あるシーンが甦る。
レディ・アンは落ち着いた柔らかい声音で、わたしにこう告げた。
『わたくし、子供を産みたくないのよ。それは、子供は愛らしいわ。天使のようですもの。でも、自分では産みたくないの』
 
そして大好きな叔母が、出産で亡くなってしまったという恐怖を、忘れられないと言った。
『それに、女は出産で随分と自由を奪われるわ。人生も変わってくるのではない? だから、産まないという選択もあっていいと思うのよ。危険を冒して、血まみれになって産むのは女ですもの』
 
それから、そんな屈託を抱える彼女を、ガイが待ち続けてくれたこと。その果ての妊娠。
『ガイは五年待ってくれたの。その間にわたくしの気持ちが変わると思ったのでしょうね。けれど、変わらなかった。益々気持ちは強くなって、そんなときに、妊娠してしまったのよ』
彼女はその後、恐ろしくなり自身である処置を行ってしまう。それが二人の破局の始まりだったと言った。
レディ・アンは淀みもせずに、それらをわたしに告げた。
 
 
わたしはガイの腕の中で、凍ったように固まったままでいた。
頭の中は嵐のような驚きと困惑で、ガイの言葉に相づちすら打てない。
ガイは、彼女が当時身ごもったのは、自分の子供ではないと言った。『どこの誰とも知れぬ』子を彼女が宿したのだと告げたのだ。
きんと冷えた指先。その指先をガイが左の手で包んだ。
片手で包んだわたしの手を、彼はそのまま唇に当てた。
「申し訳ない。汚らわしい話を、可愛いあなたにしてしまった。もう聞きたくもないという顔をしている。止しましょう」
伏せた彼の瞳。瞼が微かにぴくりと痙攣したのを見た。かれはそのままちょっと笑みを浮かべ、
「あなたは明日飾る花のことや、新しく作る衣装のこと。それから、僕にいつか作ってくれるという不思議なシチュウのこと。……そんなことを思っていてほしい。いつだって可愛らしく、優しい、はにかみ屋のお嬢さんでいて下さい」
わたしはガイの言葉に、少しだけ苛立った。花や衣装など、他愛のないことばかりわたしは考えていればいいと、ガイは言う。嫌なことには目をつむり、彼の後ろに隠れていればいいのだろうか。
あなたの目の中に憂鬱を見たときも、隠せない疲れと、忘れたい過去が顔をのぞかせていると感じるときにも、わたしはそれに触れてはいけないのだろうか。
ただ、いじいじと目を伏せてやり過ごせばいいの?
その間に、わたしからそれらを払ってくれる彼の手が、かさかさと傷ついていくのだとしたら、堪らない。
「ううん、知りたいの。教えて。お願いだから」
ガイはわたしの硬い声に、少し嘆息する。
 
「彼女は、わたしに別の話をしてくれたの」
わたしはガイに、彼女から聞いた話を端折りながら教える。子供を産みたくないという気持ち。なのに、ガイとの子供を身ごもってしまった彼女の当惑と混乱。
それらを告げた。
それにガイは軽くうなずく。社交界の誰もが知る、有名な表向きのための話で、嘘だという。
「僕が、アンと考えた。どちらもあまり傷を負わない離婚の理由を、二人で決めたのです。僕らは全ての人を、それで欺いている」
彼はそのとき、ひどく楽しかったという。
五年の間続いた屈辱と汚辱にまみれた日々が終わると思うと、胸が躍って、笑みが止まらなかったという。
「アンは笑い続ける僕に、初めて恐ろしげな視線を向けました。あの悪魔のような女が、心では蔑み切った僕を、あのときばかりは恐れていたようだった」
僕は、と彼が続ける。
彼女にそれまでの日々の復讐を考えたこともなければ、恨みに思いこそすれ、何かそれに対する手段を講じようと思ったこともない、という。
「それは僕が、至極善人であると言いたい訳ではないのですよ。
それほどに関わることを恐れたのです。僕の日常から、視界から永遠に消えてほしい。それだけが僕の望みだった。何も要らない。彼女だけ消えてくれれば、それでよかった」
 
彼女が子供の身ごもったという事実は、ひどく彼を悩ませ、苛んだという。
その様子を見て、彼女は舌を出し嗤い、愛らしい子供部屋を作ろうと、生まれた子が物心のつくころには王宮に上がり行儀見習いのようなことをさせるのだと、そのような計画を滔々と語ったという……。
彼女のあの柔らかい朗らかな声、だからこそそれらの言葉は、余計に忌まわしく、酷薄で、恐ろしいものに響いたのだろう。
「僕は頭がおかしくなりそうだった。
誰の子かすらはっきりしない子供を、自分の子供として認知しなくてはいけない。きっと、僕はその子に愛情どころか、存在すら疎ましく感じるようになるだろう。生まれる子には何の責任もないのに。彼女が身ごもったことが、忌まわしく、恐ろしかった。とても耐えられそうになかった」
わたしは彼の横顔をじいっと見つめていた。この告白は彼の心の整理になるだろうか。わたしに告げることで、気持ちが楽になるだろうか。
わたしは彼の過去の苦しみを共有する、唯一の人になれるのだろうか。
それらを思った。
ふと立ち上がり、呼び鈴を鳴らした。ガイはそれにちょっと驚いたようだ。意外な顔をこちらに向けた。
「あなたに温かな飲み物を用意させて。少し寒そうだもの」
「……ありがとう、お嬢さん」
ややして現れたアリスに、ガイのために温かなウイスキーを頼んだ。
再び現われたアリスは、盆に乗せた湯気の上がるお湯と、ウイスキーの瓶を持って来た。
わたしはそれを受け取った。アリスが去ると、用意されたウイスキーにお湯を注ぐ。マドラーでくるりと回し、液体の濃度を均一にする。このようなウイスキーのお湯割りは、父によく作っていた。
できたそれを、ガイに渡す。彼は「ありがとう」と受け取り、少し飲んだ。
「あなたの手は魔法のようだ。僕にこんなに上手にウイスキーを淹れてくれて、ほしいときにすっと腕に触れてくれる」
ガイの瞳が和んでいる。そう感じた。その一因になれたのなら、わたしはそれだけで幸せな気分になる。
彼の瞳にわたしが映る。それほどに、わたしたちは近い。
「あなたに初めに会いたかった。だったら僕は、全身全霊であなたを愛しただろう。どんなにか、幸福で満たされて……」
彼の言葉にわたしは、頬にキスをすることで返した。
離れずに、手をつないで、一生をこの人と。彼だけを見て。
ささやかで、静かな幸せ。ひたひたと満ちるような、涸れない幸福をあなたにあげたい。
そう胸に誓うことで、喜びに涙ぐむほどに彼が愛おしい。
 
少し間を置いて、ガイは告げた。
レディ・アンは子供を身ごもっても、それまでと変わりなく過ごしていたという。月に幾度も、親戚を訪ねるだの、遠方の友人の見舞いだのと言い訳を設け、邸を空けてわたしのよく知るあの遊びに夢中になっていたらしい。
「薄汚くずる賢い猫のように、彼女は幾つも例の遊びに用いる都合のいい館を知っていました。
それらを点々と変え、人に知られぬようにしていたのです。ああいう遊びは摘発の対象になるのです。特にアンは、思考を麻痺させる効果のある媚薬や麻薬を用いていた。見つかったら事だ」
そこで思い出す。
あの館に匂った香の煙と香り。あれを嗅いだ途端嫌な気分になり、わたしは気を失うように倒れた。レイチェルが焚いた香は、ガイの言うその麻薬かもしくは媚薬だったのだろうか。
随分と頭に残り、なかなか頭痛が消えなかった。その甘ったるく苦いような香りが鼻腔の奥で甦るように思い、慌ててわたしは、軽く首を振った。
「彼女のいない深夜、使いの者が邸に来ました。意外にもそれは、アンの寄越したものでした。それまでそんなことは絶対になかった。
至急来てほしいと、手紙には書かれていた。あなたの力が必要だと、柄にもない、しおらしいことが書いてあった」
相づちを入れ、わたしは先を促した。
彼はウイスキーで唇を湿らせ、続けた。
「人が死んだと書いてあったのです。連中の淫らな遊びの最中に、男が死んだのだと書かれていた。僕にその始末を手伝ってくれと言ってきたのですよ」
ガイはつぶやいた。ほとんどあれが殺したようなものだ。
わたしはただ、彼のグラスを持つ手に、自分のそれを重ねるだけだった。
瞬時に受け止めるには、驚きが過ぎた。
言葉を発せない。
わたしを救うためあの館に現われた彼が、吐き捨てるように言ったのは、このことを指すのだろうか。
「人殺しが……」
彼は確かにそう言っていた。



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