甘やかな月(25
 
 
 
王宮のある王都マキシミリアン、多くの人々の暮らす首都。街や貴族の邸が点在し、または連なり、華やかに匂うように賑わう都市。ガイがわたしに与えてくれたのは、その中での暮らし。
だから、わたしはその外の世界を知らない。
 
深夜のレディ・アンの使いが知らせる事件に、ガイは応じ、王都の外れに近いある館に赴いたという。
「寂しい、荒れた、嫌な雰囲気の場所でした。鼻につく忌まわしいような臭いが館中に漂っていた」
思いの他彼女は気丈で、人々を捌き、ほとんどの者を帰宅させていたらしい。
「到着したとき、彼女は煙草をくわえてホールの辺りを歩いていた。男物の妙なコートを羽織って、そのポケットに手を突っ込み、僕を待っていた」
死んだという男性は、その館の二階の寝室に仰臥していた。大きな男で、とても下男一人では、階下へ運べなかったという。
「アンの指示らしい。見苦しくない程度に衣服を着せられていた」
ガイの到着を待ち、彼を伴った使者と館に残った下男が二人で、男性を下ろしてきた。
彼女はその男性を館から出し、馬車に乗せ王都の外へ運びたいのだと言った。王都を出た街道の程ないところに、彼女の懇意の屋敷があり、そちらへ男性を運べば、全てはその屋敷の者が処理をしてくれるのだというのだ。
その運搬役をガイに頼んだという。
刻限を過ぎれば、王都から出るためのゲートが閉ざされる。そのゲートを通過するためには、ガイの持つ肩書きがどうしても必要だったらしい。
「当時僕は、王子の後見人をしていました。だから、厄介な警備のあるゲートを通過するのはたやすい。あるパスを提示すれば訳ない。だから、彼女は僕を呼び出したのです」
「…恐ろしかったでしょう?」
わたしはガイの手に重ねた自分の手に力を込めた。紳士である彼には、あまりにそぐわない、気味の悪い状況だったろう。
大男の死体、嫌な香の臭い、薄汚れた館、歩き回るレディ・アン……。
目に迫るように、彼の経験した光景が浮かぶ。
彼女はそんな災禍に、ごく簡単に彼を引き入れる。自分に降りかかったトラブルを拭うために必要であれば、彼の苦しみや舐める辛酸を全く考慮などしない。
人が死んだことにも、頓着などしない。その処理に精一杯なのだ。
今更ながらに、彼女の内面の黒々としたものに触れたようで、肌が粟立ちそうになる。
「僕は医者でない。死体など見慣れていない。確かに、ひどく忌まわしかった。しかし、ある絶好の好機だと考えていました。気味の悪い見知らぬ男を馬車で運び、僕のパスでゲートを通過する代償を、僕は彼女に求めた」
ガイは彼女の頼みを受け入れるその代価として、彼女に離婚を求めた。呑めないと言うのなら、邸に引き返すまでだ、と。
あっさりと彼女は、ガイの条件を呑んでくれたという。吸いかけの煙草をぽいと捨て、それを華奢なブーツの先で踏み潰す。
 
そして、用などもうないとばかりに、「あなたを解放するわ」と告げたというのだ。
 
ガイは話を続ける。時折ウイスキーを口に運び、わたしの髪や首筋に指を這わせた。それはくすぐったいほどに、静かで優しい。
レディ・アンの用事を済ませると、ガイはそのまま一人で邸に帰った。途中、汚らわしい馬車に長く乗ることに嫌気が差し、別の辻馬車を拾ったという。
「翌朝、早々に彼女の代理の弁護人から書面が届きました。正直驚いた。彼女なら、あの程度の口約束を反故にする可能性もあると踏んでいたから尚更です。そうなった場合の、別の手を考えてはいました。僕はもう、あの女の顔を見るだに耐えがたかった」
書面には、代理人筆跡で、伯爵家の財産権・慰謝料を彼女が放棄すること。彼女の名誉を傷つけるあらゆる風説を流布させた場合には、断固とした処置をとること。互いに素晴らしい幸福な過去を共有するものとして、尊重し合うことなどが続き、最後に彼女の直筆のサインがあった。
ガイは静かに笑いながら、
「馬鹿馬鹿しいことこの上ない内容であったが、僕に呑めないものではない。すぐにと返事を出し、後は代理人同士の話し合いで、全てが終わりました。顔を合わせることもなかった。
気の毒なのは、何も知らない使用人です。彼らは僕に、腫れ物でも触るように接し、何だか居心地が悪くなるほどでした。
いやはや、あれには参った。
笑っていては怪しいし、喜んでいればおかしなことになる。
それで、しばらく旅行にでも出かけようと、決めました。対外的には傷心旅行にも見えるだろうし、心の整理にでも勝手に思ってくれる。
僕の本音は単なる気晴らしと、邸にい辛いだけのことでしたが」
ガイは小さな笑いをすぐにしまった。そして長々と嫌な話に付き合わせて悪かった、と詫びた。
ううんと、わたしは首を振る。わたしが彼に語らせたのだ。彼の過去を共有したくて、嫌な思いを吐き出してほしくて。
受け止める対象がすぐそばにあるのだということを、彼に知っておいてもらいたくて。
「これが僕の全て。あなたの知らない部分など、きっともうない。安心してくれましたか? お嬢さん」
 
ガイはわたしから、するりと腕を抜いた。立ち上がり、手のグラスをテーブルの盆の上に返した。
マントルピースの弱くなりかけた火を、火掻き棒で掻き回し、大きくした。彼のすぐそばにまで、火の粉や灰の飛沫が飛んだ。
彼は火の前に立ち、わたしに背を向ける。
「僕は過去に大きな失敗をした。さまざまなしがらみと自分自身の弱さから、それを修復するのに、随分と日々を費やした。
時に思うのです。あなたと出会って、そばで暮らして、こんな愛らしいご婦人を妻とできたなら、ひどく幸せだと思った。幸運なことに、僕の気持ちをあなたは受け入れてくれた。けれど……」
彼の最後に使った逆接の言葉「けれど」に、胸がひやりとなる。彼がその先に何をつなぐのか、不安でたまらなくなるのだ。
落ち着いた彼の声は、やや、低い。
「けれど……、あなたにとってここに残り、そんな僕のそばにあることが、本当にあなたにとって真の幸福となるのか……。お嬢さんは、また何も、こちらでの意義を見出していないでしょう?
僕は求婚などし、とんでもない迷惑を、若いあなたに仕掛けたのではないか……。ちらりと思うことが、あるのですよ」
その言葉にわたしは立ち上がり、彼の背から抱きしめる。
「止めて」とつぶやいた。
そんなことを言わないでほしい。
ガイのいない生活、彼のそばを離れることなど、考えたくもないし、考えられない。
わたしはずっとこの世界で、あなたのそばで暮らしたいの。
「止めて、そんなこと言わないで。お願い。ずっとあなたのそばにいたいの」
彼が背から回すわたしの手に触れる。
「僕は卑怯かもしれない。あなたにそう言ってほしくて、こんなことを言っているのですよ。僕を選ぶのだと、あなたに言ってほしくて。微かな不安を取り去ってほしくて、こんなことを口にしている」
「ねえ、ガイ、わたし……」
彼の背に唇を当ててつぶやいた。「抱いてほしい」と。
育んだ過去と決別し、あなたとこの世界にあることが、どれほどわたしにとって幸せか知ってほしい。
わたしがどれほど容易にそれを選ぶのか。躊躇などせずに、まっすぐにあなたを選ぶ。それらを知ってほしいのだ。
「お嬢さん……」
わたしへの不安をもらすあなたを、一人にしたくなくて。
そしてわたしを、そんな夜に一人にしないでほしい。
例えば、触れ合うことで、温め合うことで、真実を知り合うことができるのなら。どんな表情より明白に、どんな言葉より正直に。
わたしの全てを伝えたいの。どんなにあなたに焦がれているか。
もう一度わたしはつぶやいた。
「抱いて」



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