甘やかな月(26
 
 
 
どれほど時間がたったのだろう。その間に、二度暖炉の火がはぜた。
ガイは言葉を返してくれない。
背から彼に抱きつくわたしを受け止めるだけで、彼は何も言わない。
あきれているのだろうか。
はしたない女だと思ったのだろうか。
わたしがきっとこれまでの話に錯乱し、おかしなことを口走ったと、彼は思ったのだろうか。
「お願い、抱いて」
わたしの言葉は懇願に変わる。
「あなたでないと嫌なの。ガイ、一人にしないで」
ようやくガイはわたしの腕を解いた。振り向き、やんわりと抱きしめる。優しいいつもの抱擁。
「これで、いいですか?」
彼の言葉にわたしは唇を噛んだ。彼がわたしの繰り返す言葉の意味に、気づかないはずがないのだ。それなのに、彼はそれをかわす。
 
叶えられないもどかしさ、悔しさ、緊張の切れた微かな安堵感。そして口にしてしまったことの重大さと恥ずかしさが、今になってわたしを襲う。
顔を上げて彼の表情を見るのが怖い。彼のブルーグレイの瞳はきっとわずかに歪んで、妙なものでも見るようにわたしに向けられるだろう。
それを見るのが、どうしても怖いのだ。
余計なことと、自覚しながら言葉を発していた。そんなことを言葉にすることが、どんどん自分を追い詰めるのに。
「わたしが本当にあの館で無事だったか、あなたに確かめてほしいの。レディ・アンの言った通りでなかったと、あなたに……」
更に言葉をつなぐ前に、まとめて結い上げた髪がはらりと肩に落ちた。それにようやく、わたしは顔を上げた。
視線の先には意外にも、やや険しい目をした彼の表情があった。
「馬鹿なことを言うものじゃない。僕はあれの言ったことなど、気にも留めていない」
頬に垂れた髪越しに、彼の指が這う。それが肩にすべり、わたしの羽織る薄いガウンが床に落ちた。
「あ」
わたしはそれを目で追い、再び戻すのとほぼ同時に、頬に彼の唇を感じた。頬から耳、首に移るそれは吐息も混じり、くすぐったく、少し恥ずかしく、わたしは目を閉じた。
重なる唇が深くなる。
わたしはそれに微かに身を引いた。触れるだけの口付けと異なり、その違和感にややうろたえた。
けれど、次第にそれが、わたしを陶然とさせていく。
おかしなほどに力が抜けていき、膝が崩れそうになる。ちょっとバランスが傾いたら、すとんと倒れそうだった。
「いいの?」
キスの狭間、彼がそんなささやきをくれた。いつもの彼とは違う声音だと、ほんのりと感じた。低いような、抑えたような。
わたしは問いかけに、恥ずかしさでうつむきながら答えた。
「何度も言わせないで」
 
明かりの落とされた室内。聞こえるのは暖炉の火のはぜる音、硬い雪がガラス窓を叩く音。
火のくれるほのかな照明。
重なる肌の熱と彼がくれる指と唇の愛撫の波。「愛している」という彼のささやき。それらはわたしに絶え間なく降り注ぎ、わたしはほどけるように、徐々に体を開いていく。
彼の肌をすべる優しい指使いに、幾度かわたしの唇から、吐息に似た声がもれたように思う。その恥ずかしさに、唇を噛んだ。
痛烈な痛みを迎えたとき。彼を歓ばせられたのだと気づいたとき。
いずれも、大きな喜びを伴って嵐のようにわたしの心を揺さぶった。
行為の果てに、彼の腕の中で恥ずかしさに頬を染めながらも、ひたひたとした充足感で満たされるのだ。
「明日、あなたを正式に妻にしたい」
彼の指が唇が、わたしの髪や肩に沿う。そして、「いいでしょう?」という問いかけが続く。
「離したくない。もう、あなたを離せなくなった」
それに何と答えてよいのか。はにかんで逡巡した後、わたしは小さくうなずいて返した。
「あなたは、僕に全てをくれる。優しさも、美しさも、甘やかなあの声も……」
「恥ずかしいから……。お願い、もう言わないで」
わたしはくるりと寝返り、逃れるように彼の胸に顔を当てた。懇願するのだ。彼が聞いてしまったという声を、忘れてほしいと。
ガイは意地悪にも、決して忘れないと言う。
「僕だけに、また聞かせてくれるでしょう? あなたの可愛らしいあの声を。ねえ、お嬢さん」
「意地悪……」
恥ずかしさと、ほんのりとした悔しさでふくれながらも、わたしは彼と素肌で抱き合うことの幸福を噛みしめている。
深いつながりと絆に似たものを、彼と築けたように感じるのはおかしいだろうか。
快楽だけではない、触れ合うことで得られるそれらを、彼は感じてくれているだろうか。
わたしはそれらを彼に捧げたいのだ。
幸福の小さな欠片かもしれないそれらを、わたしはガイに捧げたい。
 
 
レースの薄い手袋越しに、彼の手の温もりが伝わる。
この握ってくれる彼の手が全てだったほんの数ヶ月前のことが、頭をよぎる。
裸のままのようなわたしを、彼はいつだってそばで見守り、温めて、優しさをくれた。それは降るように、絶えなく。呼吸するくらい自然に。それはどんなにわたしを勇気付け、励まし、幸福にしてくれただろう。
彼の妻になること。これからも彼に寄り添うこと。そう心に決めることは、わたしの中で、すんなりとした流れのようで。
わたしを育んだ世界への決別をひっそりと胸に秘め、彼への変わらぬ愛情と、彼に幸福を注ぐ存在でありたいと願う。
つないだ手、そして絡めた指。
ねえガイ、離さないでね。
 
彼の腕の中で目覚めた翌朝、それから数時間後に、密かにわたしたちは結婚式を挙げた。急ごしらえのそれは小さな儀式で、ごく短い時間に終わった。
こちらの世界の神を祭った教会は、やはり神を取り巻く天使の図案のステンドグラスが煌いていた。
左右に会席者用の木の長椅子がずらりと並ぶ。その中央の小道を通って、わたしはガイの待つ祭壇に向かったのだ。
わたしが着たのは、淡いパールホワイトのドレス。ごくシンプルなそれは、開いた襟元でレースの切り替えがあった。首に沿うレース地。新しく作ったものでまだ袖を通していなかったのだ。ウェディングドレスにはデザインがいささか地味な感はあるものの、色合いも合い、わたしは十分だと感じていた。
ただ、そのドレスの胸に彼にもらったあのパールのネックレスがあったのならと、悔しがったのだ。せっかくの形見の品を、と申し訳ない気持ちがどうしても去らないのだ。
「あれはきっと祖母があなたを守ってくれたのですよ。だから、気に病むのは止しなさい」
ガイはそんな風に言って、新たに伯爵家の代々の夫人が身につけるというダイヤのネックレスを贈ってくれた。
式は、王立の国教会認可の神父の下で宣誓し、そして婚姻届のような結婚宣誓書にそれに記入することで完成する。
あっけないほどの簡素な式は、とてもわたしとガイの気に適った。長い長いベールも、着飾った天使のような子供たちの登場も、多くのキャンドルに揺らめく炎も、塔のようなウエディングケーキも要らない。
ただ誓い合い、互いを見つめ、めぐり会えたこの奇跡を、喜びを、共有するのだ。
それだけで、十分に満たされて、胸が躍る。これから彼と歩む未来に、わたしはひどくときめいた。
「あなたは輝くほどに愛らしい」
ガイはそう言って、わたしにベール越しの口付けと、それを額に上げた後で、二度目の口づけをくれた。
立会人のような人物が二人必要であるとかで、静かな教会には邸の執事であるハリス、そしてアトウッド夫人の姿がある。
式の後で、彼らの抱える大きな花束をわたしは受け取った。
「おめでとうございます、旦那さま」
「坊ちゃま、まことにおめでとうございます。こうなられて、本当に、よろしゅうございましたよ。お嬢さま、これからは奥さまでございますね。どうか坊ちゃまを、お幸せになさって下さいませね」
感激しやすいたちなのか、アトウッド夫人は目頭をハンカチで押さえている。この二人に認められることは、わたしをとても勇気付ける。誇らしいような気分になるから不思議で。
「これからも、どうぞよろしくお願いします」
わたしが二人に礼を返した後、ガイが耳元にささやいた。
「気づいていますか? お嬢さん、あなたはこれで、「レディ・ユラ」と呼ばれる人になった」

「え」
彼がわたしの顔を見て笑った。「そんなに瞳を大きくして、驚くことはないでしょう」と。
よほど驚いたきょとんとした表情をしていたのかしら。
ガイはわたしの驚きが面白いのか、もう一度「レディ・ユラ」と呼んだ。耳慣れないその呼び名は、くすぐったく、そして恥ずかしい。
わたしは頬を熱くして、彼を軽く睨んだ。
 
わたしは彼の妻になった。



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