甘やかな月 エピソード2
1
 
 
 
揺れる馬車の中、わたしは小さな欠伸をもらした。手袋をはめた手で口元を押さえたものの、前のシートに掛けるガイのくすりとした笑みに会い、気付かれたことを知る。
ガイは読みかけの革装丁の本を傍らに置いた。空いた手でわたしの手を取った。軽く引き、「こちらにいらっしゃい」と言う。
彼の隣りに掛けると、彼がわたしの頭に手を伸ばした。やんわりと耳や髪に触れる。
「僕にもたれて眠るといい。あなたは眠そうな猫のようだ。シンガポアがよくそんな顔をしているでしょう? ほら、ちょっと夢でも見るような、ぼんやりとした顔を」
彼の掌に任せ、わたしは頭をすとんと彼の肩に当てる。それだけで、重い荷物を預けたように楽になる。
再び欠伸が出かけて、慌てて噛み殺す。
「まだ遠いの?」
「そうですね。日暮れまでには着くと思いますよ」
「そう」
馬車の外を、はめ殺しの窓から眺める。冷えるはず、ちらちらと雪が舞うのが見えた。
ところどころ雪を被った田園風景が遠くまで見渡せる。
ぽちぽちとそんな間に、人家だろうか、おとぎの国に出てきそうな可愛らしい煙突の上がった家が見える。そこからはもくもくとした煙が上がるのだ。
折に、馬車同士が街道を行き交うこともある。
そんなとき、知ったもの同士なのだろうか、御者同士が挨拶を交わすのが聞こえた。行き違う際、向こうの馬車に乗るつんとした貴婦人の瞳に、さっと出会うこともある。
ふと、彼女の目には、わたしという女はどんなように映っているのだろうか、ガイの隣りには奇妙で、不釣合いに見えないだろうか……。
そんな暗い想像が、一瞬、頭をもたげた。

止めよう。一人の中で、勝手に迷って、迷子になるのは。気が滅入るだけ。何の糧にもならない。
できる限り、適う限り、なるべく他人と自分を比較しないようにいたいと思う。そういったものを、できる限り心から掃き出していたい。
それは心も視野も狭めていくから。見えないものを見て、知らずに壁を築いてしまう。もしくはあるべきものを見ずに、自分をそこから遠ざけてしまうこと。
ちょうど、レディ・アンの幻影を心に掲げていたときのように。勝手な理想像を作り、それと自分を比較して苦しんでいた。
あんな思いはもう二度としたくない。
素顔の彼女は、あるがままに生きているだけなのだろう。それがいいとか悪いとかは、もう、わたしにはどうでもいい。
ただ、わたしが勝手に理想とした彼女の姿を自分を比べ過ぎて、自分の心に迷路を作り、そこでくよくよ迷っていただけの話なのだ。
滑稽なほど愚かで、子供っぽい。
だから、もう止めるのだ。
そんなことをつらつら考えた。
不意にガイの手が目の前に下りてきた。掌を広げ、わたしの目の前に優しくあてがう。
「さあ、お嬢さん少し休みなさい。そうしないと、眠がって寝室であなたがすぐに眠ってしまうでしょう? ねえ、僕がつまらない思いをするじゃないですか」
彼の言葉に、式の後の、夜の幾つかのシーンを思い出す。まざまざと目の裏に浮かぶそれらに、わたしは頬がじゅんと熱くなる。
 
「そろそろ王子が、転地療養をされるそうです。新年を前に、僕らもそろそろウィンザーへ行きましょう」
式の翌日、ガイはそんなことを言い出した。
ガイの従兄弟に当たるという王子さまからも、直筆の手紙と豪華な花束が届けられた。ガイはそれをわたしに見せた。
わたしはその便箋の文字を追いながらも、ガイがウィンザーへ行きたがる大きな理由が、頻繁に訪れる祝いの客の応対から逃げるためと、ぐずぐずしていると、それらの人々から結婚を機に社交の場へ引っ張り出されることになのを、厄介がっているのだと思った。
いつにも増して増えた手紙に、彼はどこかうんざりとした目を向ける。
レディ・アンとの離婚を機に、一度気軽で身軽な生活に身を置いた彼には、社交の場にまたもや復帰するなど、とんでもなく面倒なことらしい。
彼の思いや考えに、わたしは何の異存もない。
以前彼がプロポーズをしてくれた日に、新年をウィンザーの別邸で過ごすことは口にしていた。
王都マキシミリアンよりも雪が降り、森のある静かな土地だという。
「庭に雪ウサギが見られます。何か投げてやるといい。きっとあなたのことを好きになってくれますよ」
そんなことを言って、わたしの気を引くのだ。
ガイが誘ってくれるのなら、どこにだって喜んで行くのに。
慌ただしく準備を急いて、ウィンザーの別邸に使いを出し、今朝朝食後のすぐ後に馬車に乗り込んだ。
途中街道にあるホテルで、食事を取り、またはお茶を飲んで休んだ。
そうやって、一日をほとんど馬車の中という密室で、ガイと二人きりで過ごした。
彼は本を目で追い、ときにわたしと話し、わたしが退屈しているようだと感じると、手を握ってくれる。
また欠伸がもれた。
瞳を閉じると、じんわりと目の裏が熱い。吸い込まれるように彼のそばで眠りに落ちた。
 
 
ガイの所有するウィンザーの別邸に着いたのは、夕日が山の稜線にちょうど沈むころ。オレンジ色の光が、グレイの大きな石造りの邸を照らした。マキシミリアンの邸より大きい。庭も広く、雪がこんもりと木々や緑に被ってしまっている。
ロバートという管理頭の男性が出迎えた。他にも使用人が数名いる。彼らの結婚の祝福を受ける。わたしは照れながら、ガイのほうをちらりと見てから「ありがとう」と答えた。彼はそれに鷹揚にうなずく。
「アンナのキジ料理は絶品ですよ。期待しているといい」
ガイは料理人のふくよかな女性を、そう紹介した。
こちらは彼の祖母の長く暮らした邸であり、ガイは幼いころからこちらで生活することが多かったという。
大理石の床が続くホールからは、中庭に出られるフランス窓が見えた。
暖かく火の入った居間に落ち着いた。ずらりと並ぶ大きな窓からは、中庭の雪に埋もれた噴水の姿がのぞける。
どことなく壁紙の色合い、家具の配置やデザインなどから優しい女性的な雰囲気を感じる。
そんなところから、ガイの祖母の、どこか柔らかい人となりが垣間見えるようで、わたしには楽しいのだ。
ガイは早速、藤色の穏やかな色調の長椅子に横になった。いつものように木の肘掛に脚を乗せる。
ほどなく晩餐になり、着替えを済ませた後、こじんまりとした食堂に案内される。居間に比較して、十人も入れば一杯のような、小さな部屋だ。
大食堂ももちろんあるが、こちらで食事をするのが、彼の祖母よりのウィンザーのやり方らしい。
磨かれた銀器がろうそくとランプの光に輝く。そんな中、マキシミリアンの邸より彼と密接に食事を取れるのは、ひどく嬉しい。
普段よりワインをちょっと多く飲んだため、わたしの頬は熱い。食事を終えても、なかなかその熱がとれず、掌を当てて冷やした。
再び居間に戻り、ガイは煙草をくわえながら、カーテンの向こうの窓の外を眺めている。わたしは椅子に掛けて、クッションを膝に乗せた。
「お嬢さん、いらっしゃい」
彼が煙草をくわえながら言った。それで声がいつもと違った風に聞こえた。
彼はわたしのために、面白がらせようと、約束どおり雪ウサギを見つけてくれていたのだった。
彼のそばに行き、その身体にもたれるようにする。彼の腕がわたしの肩を抱いて引き寄せた。
窓の外は真っ白い世界だ。月明かりが雪の表面をほんのりと柔らかに照らす。
目を凝らすとその一隅に何か蠢くものがあった。
白いそれは初め、雪の白と同化してなかなか見分けられなかったが、徐々に目が慣れてくると、次第に愛らしい輪郭が浮かんでくるのだ。耳をぴょんと立てこちらをうかがっている様子は、見惚れるほどに可愛らしい。
「今夜は眺めるだけにしなさい。いきなり窓を開けては逃げてしまう」
「ええ」
「あなたに慣れたら、彼はきっと仲間を連れてきてくれますよ」
「だと、いいわ」
そんなことをささやき合う。手首を返し、また器用にちょっと距離あるマントルピースに煙草を投げた彼が、わたしを抱きしめた。
彼の纏う煙草の香りと、感じる直情的な熱。それらに包まれる。
髪や額に感じる唇は、次第にわたしを陶然とさせていくのだ。重なる唇に、深くなるそれに、力を失うように、わたしの膝が崩れそうになる。
……ほら。
恥ずかしさの影で、このまま放っておかれたくない気持ちが芽吹くいていく。彼はそれを感じるのか、もしくは知って焦らすのか。
そっと唇を離した。
彼は愛撫の代わりに言葉を紡ぐ。
「お嬢さん、しばらくあなたの世界に帰ってくれませんか?」




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