甘やかな月 (3
 
 
 
わたしは窓にぺたりと両の手のひら、鼻の頭をつけ、外の景色を見ようとした。
そこからは、冷たいガラスの感触が伝わるだけ。何も見えない、ただの闇。
「そんなに顔を窓に押し付けて。跡がついても知りませんよ」
彼、わたしを伴いここに連れたガイは、ちょっと笑いをにじませた声で言う。
その彼はコートを脱ぎ、頭から外した帽子を傍らに置き、寛いだように長椅子に脚を伸ばす。
 
家の庭から、彼と共に見上げた、宵の空に長くうねるきらきらと輝く光を放った列車の影。
そこから下ろされた梯子は、簡単にそれに手を掛けた彼と、彼が腕を回したわたしを、するりと巻くように滑らかに深いブルーの列車へと運んだのだ。その短い奇跡の時間、瞬くような幻の時間、ふわり、としたくらむようなめまいが、わたしを一瞬包んで、すぐに消えた。
ステップにたどり着くと、扉は開いたままだった。まるでわたしを迎えるように。
車内はシャンデリアが煌き暖かく、布張りの長椅子と木のテーブル、グラスや銀器の並ぶ飾り棚と活けられた花々まであり、ちょうど豪華な応接室のように見えた。このサロンの他には、幾つものコンパートメントがあるという。
この長い列車には、乗客は一人としていなかった。
 
紺の制服を身に着けたボーイが現れた。赤っぽい髪の彼は一言も喋らず、シルバーのトレイから紅茶をテーブルに置いた。
生々しい、紅茶から上る湯気とその香り。
「お上がりなさい。落ち着きますよ」
彼の言葉に、恐る恐るカップに手を伸ばした。薄いカップの中の紅い液体はひどく熱い。舌が焼けるように思った。
渋い顔をしたわたしに、彼は笑う。整った顔立ちは冷たく見えるけれど、笑顔も声も優しい。
まるで甘やかしているかのように。
「その、あなたの猫、気味が悪いですね」
彼は足元にうずくまる、わたしの飼い猫に目を向けた。本当に気味が悪いのか、眉をしかめている。太った白い体に大きな黒のぶちが散らばる。シンガポアとわたしは名づけていた。
彼と共に梯子を上る際、放っておけず、頼んで一緒に連れてきたのだ。
何が起こるのかわからない夢を、せめて一人ではなく、シンガと一緒に見たかった。
「この列車は、どこに行くの?」
「僕の側の世界。あなたの世界の向こう側と言えば、いいかもしれない」
「そこで、わたしは何をするの? 何のためにそこに行くの?」
重ねた質問に彼は、ちょっとやれやれという表情を見せた。
「あなたが僕を呼んだのですよ。だから、迎えに来た。あなたがこちらの世界で何をするか、何を目的とするか、それはあなたの自由です。決めればいい」
彼は疲れたのなら、コンパートメントで休んだらいいと言う。わたしはそれに答えなかった。
「よろしいですか?」
彼が、胸のポケットから薄い銀の煙草のケースを取り出した。
彼が身に着けている服は、わたしの目からは、まるで結婚式に新郎が着るタキシードのように見える。よく似合うのだけれど、タイもベストも、かちりとし過ぎて、それはまったく昔の紳士のようだ。
わたしがうなずくのを待って、一本くわえる。紫煙がふわりと靄を作った。
ちょいと、ガイが足先で、シンガにちょっかいを出した。ふううっと背を立てた彼女に、彼は慌ててその脚を引いた。ひょっとして、猫が珍しいのだろうか。
「わたしは、いつまであなたの世界にいられるの?」
「お好きなだけ。お嬢さんのお好きなだけいたらいい。その間、僕があなたを守ってあげます。全てから」
 
やっと飲みごろの温度になった紅茶を飲んだ後、彼が用意をしたという衣装に着替えるため、コンパートメントに向かった。ガイは「お嬢さんのそれは、…バスローブですか?」と、わたしのワンピースに困ったように眉をしかめるのだ。
小さな一人用の寝台は、いつでも眠れるようにしつらえてあった。そばにはおままごとのような可愛いドレッサー。壁の小さく並ぶ額の絵といい、隅に据えた竜頭のあるまあるいホウロウの洗面台といい、すべてちんまりと旅用に作られてあって、ひどく愛らしいのだ。
ベッドの上に置かれた薄いピンクのドレス。繊細なレースが幾重にも重なり、肩はパフスリーブになっている。その可愛らしさに声がもれた。
床には、華奢な編み上げのブーツが、そろえてこちらを向いて置かれていた。
何気なく、癖のようにドレッサーの鏡の前で取り上げたドレスを胸にあてる。

「あ」
鏡の中には久しぶりに胸をときめかせ、微笑むわたしが映るのだ。




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