甘やかな月 (4

 

 

 

そこは広大な駅舎だった。

ステップを下りると、目の前に喧騒の世界が広がっていた。

自分と似たような、華やかな衣装をまとう女性の姿がすぐに目に入る。彼女らに従う少し質素な服装の女性。またはきびきびと歩く、お仕着せのかちりとした制服と帽子を身につけた男性の姿。彼らは大きな台車に乗せた、たくさんの革のトランクを運んでいる。

またはガイと似たような衣装の紳士たちの姿も見える。彼らはステッキ持ち、それで石の床を打ったり、仲間と話したりしている。他には、花売りの少女、煤を頬につけた少年が駆けている。

ボルドーの車体の列車。深いグリーンをした列車。幾つも幾つも見える。

ふと、振り返る。自分が乗ってきた深いブルーの不思議な列車。もう一度それを見たくて。

でも、視線の先にあの列車はなかった。かき消したかのように、ロイヤルブルーの車体は、そこにはないのだった。

 

「お嬢さん、しっかりついてきて下さいね」

「ええ……」

ガイのコートの背中を見失わないように、付いて行く。目を離すと、他の人たちに紛れそうになる。

彼が立ち止まり、こちらを向いてわたしに手を差し出した。わたしはその手を取る。

革の手袋越しに、ほんのりと温もりが伝わる。

握ってくれる彼のこの手が、わたしの全てだった。

 

駅舎を出ると、大きな円形の広場にたどり着く。中央に天使を模したような彫刻が建てられている。

レンガを敷いた道路には、駅舎の側にずらりと馬車が並ぶ。御者台にはきっと主人を待つだろう人が、鞭を持ち、煙草を吸っている。

ガイがくるりと視線を流しているの見た。自分の馬車を探しているのだろうか。

「旦那さま」

ほどなく声がかかる。グレーの制服を着て、頭には平たい帽子を乗せた青年。その帽子からこぼれた髪はブロンドの色をしている。

「ああ、マークス。ありがとう」

マークスという青年について、二頭立ての馬車に乗り込む。大きな車輪の上に乗ったきれいな箱。馬車の中は四人ほどがゆったりと掛けられるスペースがあった。

柔らかいクッションを敷いたそのベンチに、わたしたちは向かい合って座る。

ガイが、こつりとステッキで箱の壁を叩いた。それが合図なのか、ゆるい揺れと共に、馬車が走り出す。

彼はこれから、自分の邸にわたしを連れて行くという。

「そこであなたは、僕の恩師。フィッツ博士の令嬢として暮らすのですよ」

それにわたしは言葉を返せない。何を言っていいのか、よくわからない。

ただ不思議な世界、そこに入り込んだ自分。それだけを把握することに、精一杯の努力をしていた。

ガイは無言のわたしに何を感じたのか、「博士はあなたのような、黒い瞳と髪を持っていましたよ」と付け加えた。

「そう」

「彼も、かつてあなたのように、こちらの世界に来た」

「え?」

彼は優しく笑う。

「僕が連れて来た」

「え」

彼はコートの内側から銀の懐中時計を取り出した。よく磨かれはいるものの、ところどころに傷のある古い物なのが知れる。彼はそれを祖母の形見だと言った。

ぱちりとその蓋を開け、わたしに見せる。中はアナログの時計、そして蓋の裏側は鏡になっていた。しかし、それはひどく曇って、自分の顔すら確認できない。

「ここに、あなたが写った。泣いて、膝を抱えているあなたが」

ここに写る人物を、あの列車で迎えに来るのが、彼の役目なのだという。

「以前は祖母の役割でしたが、亡くなったため、僕が跡を継いだ。そういう家系なのだそうですよ」

奇妙な話だった。わたしは言葉も返せず、ガイの手に載る懐中時計を見つめていた。

彼はちょっと車窓に顔を向け、視線をこちらへ戻しながら、「ねえ、お嬢さん」とわたしを呼んだ。

「僕は、あなたの前のフィッツ博士とは親しかった。彼からあなたの側の世界の話をよく聞きました。祖母からも教わり、何となく感じてはいたつもりでしたが、改めて、じかにフィッツ博士から聞き、その相似の多さに驚いたものです」

彼の言った、「あなたの前の」という言葉が、頭に奇異に響いた。わたしの前に、このような不思議な経験を持った人。ガイの言葉を信じるならば、その人は確かに存在したのだ。そして、この後、「わたしの後」にも、別な誰かが……?

胸に引っかかったそれを、問わなかったのは、わたしにはここでガイを信じる他、できることがなかったからだ。

「存在する次元、時空が違えど、人間というものが考え出せる社会なり文明なりは、自ずと似通ってしまうのでしょうか。僕にとっては、あなたや博士の側の世界は、よく似てはいるが亜種であり、また、あなたや博士にすれば、紛れもなく僕の側が亜種なる世界なのでしょう」

ガイの話は最初、「ねえ、お嬢さん」とわたしへ聞かせるものであったけれど、最後にはまるでひとり言のように聞こえた。

どうでもいいことだった。わたしには彼の話へ実感も、共感も、また納得もいまだできない。だから、頷きもせず、彼を見つめてばかりいる。美しいブルーグレイの瞳を。

ふと、ガイは言葉を切り、わたしの手を取り、自分のそれを重ねた。

「安心したらいい。こちらでは僕があなたを守ってあげます。どんなことからでも」

 

この世界は、あなたを受け入れてくれる。

 

あ。

 

ガイの言葉は、優しくて、優しくて。

まるで大丈夫だと、父に背を撫ぜてもらっているようで。実感をもって、その声は、わたしの胸にしみた。

初めて今わたしは、自分の持つ悲しみの、真の意味に気づいた。

自分に酔うためでなく、このとき初めて心から、悲しみの涙が、自然ほとばしったのだ。

初めて、自分がどんなに傷つき、弱っていたか、ようやく気づく。こんな場所で、こんな知らない人の前で。

顔を覆い泣くわたしに、ガイの当惑したような声が聞こえた。

「おやおや、せっかくこちらに来たのに、そんなに泣いては……」

白いハンカチが目に入った。ガイの差し出すそれを受け取る。目に当てても、涙は止まらない。

堰を切ったように、わたしの心から溢れてくるのだ。

「お嬢さん、外を見ませんか? こちらの街並みは、あなたには珍しいでしょう。ほら、あたらしいモニュメントが覗けますよ。王宮の屋根も見える。……今、橋を渡りますよ。アーチの見事なセントレアブリッジですよ。次は、博覧会の会場になったビルズパークです。お嬢さん……」

ふわりと体が包まれた。

ガイ腕に抱いてくれたのだ。煙草の匂いがほんのりとする彼の胸で、わたしは長く長く泣いていた。

 

「この世界は、あなたを受け入れてくれる」

ガイの言葉が嬉しくて。

自分の居場所を見つけたようで。

いつしか悲しみの憂いの涙は、喜びのそれに変わる。





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