甘やかな月 (5

 

 

 

石畳の街道。そこを、かぽかぽ小気味のいい音を立てながら行き交う馬車がある。
すっきりとした青色の空の下、街の建ち並ぶレンガや石造りの建物は、堅牢に厳しく見える。
逆に歩く女性のドレス、飾られたショーウィンドウの華やかさ、ところどころに見える緑や花々の色合い、または賑わう街の活気には、胸が高鳴るような気分になる。
ガイの言うこちら側の世界。
涙をやっとしまったわたしは、馬車のガラス窓に指を当て、食い入るようにそれらを眺めるのだった。
 
賑わいからやや距離を置いた落ち着いた邸街。
どれもぐるりと門や鉄柵で囲まれた奥に、大きな邸のさまざまな色の外壁や見事に茂った木々が見える。
ほどなく、その一つにゆっくりと馬車は、当たり前のように入って行く。
放たれた門から続く、長いアプローチ。両の側にはそれぞれ整えられた庭が広がる。ちらりと左端にガラス張りだろうか、温室のような建物が見えた。その前の薔薇園。
庭園には、窓越しに色とりどりの可憐な姿が目に入る。その光景はとてもわたしの気持ちに心地よく響いて、一瞬で好きになった。ゆっくり見てみたくなる。ガイはそれを許してくれるのだろうか。
ここまで来るまでに、彼からは彼の邸のあらましを聞かされてはいる。
彼はこの邸の主、アシュレイ伯爵その人であること。家族はなく、独身の気ままな身なのだそうだ。
ちなみに三十二歳。仕事を持ち、大学で数学を教えている。
「邸には家政を束ねる、アトウッド夫人がいます。僕は彼女を、名のマーガレットと呼んでいる。頼りになる人で、とにかく僕は彼女に頭が上がらない。他には執事のハリス、従僕頭のマイク。他、何人か使用人がいます。会って挨拶をしてやって下さい。追々、皆の名を覚えてあげて下さい」
アトウッド夫人(マーガレット)、ハリス、マイク……。
アプローチが果て、馬車が停まった。邸の正面玄関の前に横付けになっている。
馬の頭の向こうに、ガイが説明した人々がずらりと並ぶ姿が見えた。お仕着せのメイド服をまとった女性、…何人いるのだろう。
白いユニフォームの男性。コックさんだろうか。作業着らしいものを着た男性もいる。
列の先頭に、少し頭に白髪の混じる男性が立つ。きりりと黒いスーツにタイを締めている。
その隣りには、きっとアトウッド夫人。年配のふっくらとした大柄な人で、メイド服とは異なる、グレーの長いスカート。その前で手を組んでいる。
こんな人たちの前で挨拶をすることを考えるだけで、怖じ気て、めまいがしそうになる。
彼らは、いきなり現れたわたしを、どう思うのだろう。
緊張したときの癖で、指先が冷たくなった。
受け入れてもらえるのだろうか。
馬車のドアが開かれた。何でもないように先にガイが下り、振り返ってわたしに手を差し伸べた。
それへ手を預けると、彼がそれをやんわりと握った。こちらに体を少し傾け、
「面倒なことは早く片付けて、書斎でお茶にしましょう」
などと囁く。
その優しい声に、心がこのとき、ほどけるように和らいだ。
 
 
ぎっしりと天井にまで届く書架が壁に並んでいた。
そこには隙間などないほどみっしりと書物が収まり、背表紙をきれいにこちらに向けている。空いたスペースなどない。あってもそこにはクリスタルのオブジェがあり、または小さな金の額が並べられてあったりする。
アイボリーに紋章のような百合模様が散らばる壁。猫脚のデスクと椅子。布張りの長椅子が幾つか。ライティングデスクを挟んで、一人掛けの椅子もある。
ガイは広々とした居間でなく、この部屋を好むという。
「一人ですから、広いと落ち着かなくて」
大きなフランス窓には厚いビロードのカーテンが掛けられ。レースの部分を残して、今はくるんと両サイドにとじられている。
窓からは庭の様子がのぞける。噴水には水が溢れ、中央に飾られた太った天使にシャワーを捧げている様子が見えた。目の端に、やはり鮮やかな花の姿が目に入ってくる。
ガイがマントルピースの中に、吸っていた煙草をぽいっと投げた。
お茶が運ばれてきた。
黒いスーツを着た従僕頭のマイク。ガイと年のころは似ている。白に近いほどのブロンドの髪。きっちりとした所作で、お茶の仕度を進行させていく。
ワゴンにはたっぷりの沸きたてのお湯。銀器のポットや陶製の繊細なカップとソーサー。トレイにはさまざまな小さなお菓子が並んでいる。
あの昨夜のよう、やはり舌の焼けそうな、熱い紅茶。
蜜のかかった小さなパンのようなお菓子。一つつまむと、口の中で優しい甘みが溶けていく。思いがけず笑顔と声がもれた。
「おいしい」
「マーガレットが頑張ったのですよ。僕一人のときは、こんなにお菓子がない。あなたが来てくれたお陰で、彼女も世話のし甲斐があるのでしょう」
「だって、ガイは煙草ばかり吸って、お菓子なんか食べないでしょう?」
ガイはそれに笑って応えた。
先ほどの気が滅入った挨拶も、ガイがあらかた話してくれて、わたしはそれにうなずいたり、よろしくとちょっと付け足すように言っただけだ。
お茶の後で、彼は邸の案内をしてくれるという。
庭が見たいというと、彼が簡単にうなずいた。
「その後で、お嬢さんが疲れていなければ、見物がてらにあなたの衣装を買いに行きましょう」
「衣装?」
「自分で選ぶ方が、楽しいのではないですか? 幾つか用意させましたが、あなたがそれらを気に入ってくれるかわからないでしょう」
ガイはごく当たり前のように言う。
優しい声で、わたしを甘やかしてくれる。
彼はカップの紅茶をテーブルに置いて、また一本煙草を取り出す。
「よろしいですか?」
煙草ぐらい、好きに吸ってくれていいのに。
彼の優しさに、しまったはずの涙が、ほろほろとまたぶり返す。
「どうしました?」
彼がマッチを擦る手を止めた。わたしは慌てて、目尻に溢れかけた雫を指で拭う。今は、泣きたくなどないのに。
ううん、と首を振った。
ガイはそれをどう取ったのか、
「お嬢さんを連れて来たのは、僕ですよ。あなたのこちらでの幸福に、僕は責任がある。不満でも何でも、言って下さい。それを僕は我がままなどと思ったりしない」
少し厳しい声で言う。
どこか彼は、父のようで。それでまた、涙が溢れる。
ガイがわたしの手を取った。顔をのぞきき込む。
「ねえ、お嬢さん、具合でも悪いのですか?」
「違うの……」
涙の中で、ありがとうという言葉を告げると、ガイはそのブルーグレイの瞳を少し、細めた。




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