甘やかな月 （6）
眠るのが怖かった。
朝になって目覚め、目を開けるその瞬間に、全てが消え、元の世界が周囲に広がっていたら……。夢の終わりのように、わたしはそれが怖いのだ。
天蓋の、そこからふわりと寝台を緩く包むレースとベール。頭には大きくてふっくらとした枕が並び、つるつるする清潔なシーツ。
その薄い密室で、衣装をとり、すとんとしたワンピースのような寝間着を着て、わたしは人はいつまで眠らないでおくことができるのかを、真剣に考えることもある。
こちこちと正確に時を刻んでゆく時計。その微かな針の音を聞きながら、ランプの明かりの下で、書斎で見つけた軽い詩集や画集のページを繰ったりする。
あくびをかみちょっと殺し、髪をといたり、いじったりもする。
または、シンガと遊んだり。
そうやって夜の時間を繰り延ばし、眠りから逃れようとするのだ。
そんな他愛もない抵抗は、いつしか意識を失うように入っていく眠りには、いつだって簡単に破られるのに。
一日を過ごし、三日を越えて、それが十日になる。
こちらの世界での夜を一月も数えるようになって、ようやくわたしは、眠ることが怖くなくなった。
それでも、ほんの少し、まだ躊躇する気分がある。
それほどに「こちら」に残りたいのだ。
それほどに、「あちら」に帰りたくないのだ。
それはガイのくれた新しい毎日が、大好きなだけではない、ひどくわたしの気に入っただけではない。
怖いのだ。過去を思うと、自分が何も出来ず、大切な何を失ったかを思うと、恐ろしくて、今もわたしは心の奥で震えてしまう。
ガイに訊いたことがある。わたしが残してきた世界は、どうなっているのか。
そのとき彼は、目の端に柔らかい笑みを浮かべて答えてくれた。
「時が止まっているのですよ。いや、語弊があるな。
こちらの世界とは時間の流れに違いがあるのですよ。あなたがこちらで何年と過ごす。その後の選択で、あちらの世界に帰る。ところが向こうでは、あなたが留守にしてから、ほんの数日や数ヶ月程度しか過ぎていない」
ここで彼は笑う。うまくできているでしょう、と。
「ほら、ほんの旅行にでも出かけていたような言い訳が、立つではないですか」
「帰るべきなの？わたしは……」
どんな顔をして彼を見たのだろう。
ガイは指先で、わたしの髪にちょっと触れた。
「お嬢さんのお好きにどうぞ。僕が選択を強いることは、できない。ただ……、その間に、僕にお茶を淹れてくれるのが、上手くなるといいですね」
「きっと、上手になるわ」
「それはそれは。期待していますよ」
彼は言ってくれた。
この世界は、あなたを受け入れてくれる、と。
そして、
僕があなたを守ってあげる、どんなことからでも、と。
その言葉は、どんなに嬉しくわたしに沁みているか。
ガイに連れられて、やって来た不思議なこちらの世界。
わたしの目の前には、写真集や映画、もしくは小説の世界でのぞいたような。タイムスリップしたかのような、たとえるのなら、ちょうどヴィクトリア朝のそんなような日常が広がっている。
伯爵という爵位を持つ紳士のガイ。彼はかちりとしたスーツを身につけて、いつも気がつけば、煙草をくわえている。もしくは指に挟んでいる。
郊外の静かな邸宅街にあるアシュレイ邸は、瀟洒で、でも荘厳らしさを感じるややくすんだ白い外観をしている。
その内側には入ってすぐの大きなロビー、居間や書斎、応接間、食堂のような部屋が続き、長く伸びる階段を上がれば寝室や客間、婦人部屋など、プライベートな部屋が連なる。
とにかく、わたしの常識では広大な家で、慣れるまで、迷子になったことも幾度かある。その都度、どこかの部屋に入り込み、呼び鈴を鳴らして人を呼ぶ。すると、メイドの一人や、アトウッド夫人が、助けにきてくれるのだ。
ガイにはこの件はおかしかったようで、長い間肩を揺らして笑っていた。
広々とした庭園では、薔薇園があり、噴水があり、小さな池や、散歩道がある。
邸から続く温室では、常に何か繊細な花が育てられていた。テーブルや椅子の用意もあるから、気の向いたときの午後は、居心地のいいこちらでお茶を飲んだりもする。わたしはそれが好き。
朝起きると、まずお茶を持ってメイドが寝室に入ってくる。
アトウッド夫人は、まだ十五の少女を、わたし付きのメイドとして雇ってくれていた。アリスという彼女の渡す熱いお茶を飲んで、着替えたり、髪を結ったり身支度を整える。
部屋を出てしばらくは、ぼんやりと庭を歩くことが多い。薔薇園の様子を見たり、この邸の庭を一手に担う庭師のジョンに挨拶をしたりする。
そうすると後ろから呼び声がかかる。これは大抵がアトウッド夫人、もしくはガイだったりした。朝食の知らせに来てくれるのだ。
朝食の席は、正式ではないという砕けた風に、わたしはガイの斜めに座る。
おかゆやスープ、卵やパン。サラダ。そんなような寝覚めに似合いの軽いメニューが並ぶ。
食事の後は、書斎に移って、ガイは煙草を吸いながらその日の新聞を読む。長椅子に脚を伸ばし、片方の足をその手すりに乗せる。
出かける予定のときは、それから馬車の用意があって、ガイが出かけていく。行き先の多くは教えているという大学。
出かけない場合は、二人で一緒に本を読んだり、お茶を飲んだり、彼が外に連れて行ってくれる。
「もう少し寒くなったら、スケートに連れて行ってあげますよ」
邸から遠い公園にスケートのできるリンクがあるという。
スケートはできないけれど、彼の言葉が叶うのを、わたしは楽しみにしているのだ。
ガイのいない午後は、アトウッド夫人に教わった刺繍をしたり、彼女と買い物に出かけたり、晩餐の献立を眺めたりする。
ガイが帰ると迎えに出て、彼と一緒にまたお茶を飲む。
それは決まって居心地のいいあの書斎でだ。わたしは大学の話を聞いたり、彼の研究するという数学に、難しげに顔をちょっとしかめて見せる。
彼の用意してくれたひどく優しい空間に、わたしはすんなりと、納まった。これ以上、何も要らないとさえ思うのだ。今がずっと続けばいい、と。
受け入れられた喜び。
ガイや彼を取り巻く全てに、慕わしさと、肌になじんでいく感覚を、わたしは認めていた。
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