甘やかな月 (
7
 
 
 
くるりと髪を結い上げることや、または少々厄介な衣装の前のコルセット。晩餐の前にはきちんとしたディナー用の衣装に着替えること。
馬車と、わたしの目には珍しく古めかしい華やかに賑わう街並み。その界隈にあるドレスメーカーでは、素敵なドレスをわたしはガイから贈ってもらった。

そして、用のあるときに呼び鈴で人を呼ぶこと。
「お茶を下さいな、ハリスさん」
「暖炉に火を入れたいの、アリス」
「アトウッドさん、お夕食は、このラム肉は止しましょう。ガイが嫌いなの」
「花を活ける花瓶を探してくれないかしら」
三月も経てば、自然にそんな言葉が、口から出るようになる。
邸の中での生活に、わたしは徐々に、わだかまりもなくなじんでいった。
薄情なほどに、元の世界のことは考えなかった。考えたくもなかったし、考えなくていいことと、自分に言い聞かせていたのだ。
少なくとも、ここにいる間は考えたくない。それを頭に思い描かなくてはならないだとしたら、わたしをここに連れた、ガイの意志や言葉があってほしいのだ。そうでないと、嫌。
 
過去を考えると、不安は止め処もなくなるから。きっとこの胸からあふれてしまう。
不安を御すすべを、わたしは知らないのだから。
 
 
晩餐の後で、いつものようにわたしたちは書斎にいた。暖炉には小さく火が起こされてあり、じんわりと暖かい。
ガイは煙草をくわえて、手の書類を眺めている。もちろん長椅子に長くなって。
わたしはその傍らで、コーヒーカップを手に、窓から庭をのぞいたり、この書斎を飾る花を、明日起きたらすぐに摘みに行こうなどと考えていた。
他には、今日どこかで引っかけて綻ばせてしまったドレスの裾を、アリスに手伝ってもらって繕うこと、など。
この世界でのわたしの悩みなど、この程度でしかない。
ふと、彼は思い出したように起き上がり、ライティングデスクのチェアに掛けた。卓上の羽のペンを取り、何かを記している。
手紙だろうか。
この邸には、彼宛てにたくさんの手紙がうんざりするほど届く。
ティーパーティーの招待、晩餐会の招待、音楽会の招待、詩の朗読会の招待、この都市のどこかの邸で、または王宮で、開催されるその他さまざまなレセプション。
こんなときに、彼はこちらでは大きな肩書きを持つ名士であることを、わたしは気づかされる。
ガイはそれに、直筆の返事を要するものとそうでないものを選り分け、そうでないものを、ハリスに渡す。彼の手から、ガイの名前で断りの手紙が出されるのだ。
直筆の返事を要するものには、彼が自ら詫びを加えて、断りの手紙を書く。
いずれにせよ、ガイはそういった華やかな催しに出かけようとしない。
どうして行かないのか訊いても、
「では、ワイルドマン卿の詩の朗読会に、あなたを連れて行きましょうか? 死ぬほど退屈しますよ。僕は過去に、二度ほど死にかけた」
などと混ぜっ返すだけで、本音らしいものを答えてはくれない。
単に社交が面倒なだけなのかもしれないし、何か別の意味があるのかもしれない。
けれど、わたしの位置からそれは、彼の様子からは量りかねるのだ。
いずれにせよ、わたしは、ガイが出かけずにそばにいてくれることに、うっとりと安易に安心していた。嬉しかった。
一人でしんと、眠るまでの夜を過ごすのは、寂しいから。
 
ガイは書き上げた手紙に封をして、それを傍らのトレイに放った。翌朝には、それはハリスの手で郵便に出される。
「お嬢さん、あなた僕の秘書をやってくれませんか?」
彼は立ち上がり、煙草をくわえる。ちょっと断りを入れてから、それに火をつけた。
「ガイの、秘書? 面倒なあなたの手紙を、選り分けるのが仕事?」
「それもいいですね。僕はあれがどうも苦手だ。あなたに任せてもいいですか?」
「ええ」
彼の言葉が嬉しかった。嬉しくて、胸がどきりと鳴った。大切な私信をわたしに任せてくれるのだ。
彼はぷらぷらと、マントルピースの辺りをちょっと歩いた。
「それとは別に、大学で僕の秘書もお願いしたいのですが、どうです?」

「え」
これには驚いた。
長く勤めた彼の秘書の婦人が、病気を理由に退職することになったという。それで、わたしさえよければ、彼と一緒に大学に行き、彼女の代わりを務めてほしいというのだ。
それはとても魅力的な話に思えた。
週に幾度か大学に出かけてしまうガイを、わたしは少し寂しい思いで見送ったからだ。
彼のそばで、彼が大学でどう過ごしているのか知ることも楽しい。
もちろん好奇心もあった。この邸の外の世界。買い物や見物などの遊びの他、出かけることはなかったし、他の場所を知らない。
この世界の大学は、どんなだろう。わたしの知る大学と同じようなものだろうか。それとも、違う? どんな学生がいるのだろう。こちらの人はどんなことを学ぶのだろう。どんな生活を送っているのだろう。
いつの間にか一人で気持ちが昂ぶって、火照った頬を、わたしは両手で挟んでいた。
「おやおや、お嬢さん」
ちょっとからかうようなガイの声。
「でも、わたしに務まるのかしら。……難しいことは、できないから」
「なに、簡単なことですよ。僕の言うことを手紙に起こしたり、研究室にやって来る小鳥にパンくずをあげたり、僕にお茶を淹れてくれたり」
ほっとした。学術的な難しいことを要求されたら無理だけれども、その程度の小間使いならきっとわたしにも大丈夫じゃないだろうか。出来る気がする。
「ねえ、後、たまに、換気をすればいいのでしょう? 煙草の煙がすごいから」
「そうですね、お願いしますよ」
彼はいつものように、指先で軽くわたしの垂らした髪に触れた。親しげなその密な仕草。
ガイのそんな仕草を受けるのは、とても嬉しい。
 
 
ガイの言い出したこの件に、案外なところから反対が上がった。アトウッド夫人である。
彼女はきりっと結い上げた髪の下の顔を、厳しくした。いつもはその目も口元も、ガイやわたしには優しいのに。
ふっくらとした体を少し揺らして、「坊ちゃま」とガイに呼びかける。対外的には「旦那さま」と呼ぶが、普段はこう呼ぶ。彼女は、ガイがまだほんの子供のころからこの邸にいて、幼い彼を知っているのだ。
三十二歳にもなる、すらりとした長身の紳士に成長した彼も、その彼女には弱いらしい。
「お嬢さまのような身分の方が、職業婦人めいてこられるのは、よろしくありません」
わたしは一体彼女の言う、どのような身分なのだろう。ぼんやりとそんなことを考えた。
ガイは火のついた煙草を口元に運び、くわえずにそのまま灰皿に押しつぶした。
「マーガレット。今回の話は、別にお嬢さんに、働いてもらおうと思ってのことじゃない。ちょっと、そう、ほんのちょっと、僕のごくごく私的な秘書をしてもらうだけじゃないか。ねえ、お嬢さん、あなたからも頭の固いマーガレットに、何か言ってやって下さい。僕の言うことなど、彼女には効かないのだから」
そう言って、するりとわたしの後ろに回り、両の肩に手を置いた。
まるで、わたしの陰に隠れるような、その仕草がおかしくて。
口もとにどうしても上ってくる笑いをこらえて話すと、どこか神妙な口調になるからおかしい。
「ねえ、アトウッドさん。わたしからもお願いします。ガイのお手伝いをしたいだけなの。それだけだから。あなたのおっしゃるようなことではないの」
ガイは後ろからわたしの顔を覗く。微笑んで、楽しそうに。
「ほら、お嬢さんの言う通りだよ。僕が責任を持つ。マーガレットの心配するような、妙な社会意識にかぶれたりしないよ。ねえ、お嬢さん」
アトウッド夫人は苦笑しながらも、渋々とうなずいてくれた。
彼女はきっと、ガイの言うことなら何でもきいてあげたいのだろう。可愛くてしょうがないような、そんな様子を、わたしは二人のつながりに時折感じるのだ。

わたしは、耳に離れ難い、忘れられない彼女の話を思い出す。
「坊ちゃまはお寂しい方なのでございますよ。
ご両親さまはお二方ともお早くに亡くなられ、お祖母さまの元でお育ちになったのでございます。ごきょうだいもいらっしゃいませんし……。

使用人の身分で、わたくし僭越なことを申すのでございますが、ユラお嬢さまがいらして下さいまして、本当に感謝しております。
邸が明るくなったように思いますもの。坊ちゃまも、最近はよくお笑いになるようですし、こんな嬉しいことはございません。
わたくしどもは、坊ちゃまにお幸せになっていただきたいのでございますよ。やっとあの、……ご結婚の失敗というご不幸も、ようよう晴れたように思われますもの」
 
 
ガイはアトウッド夫人の許可を得ると、彼女に素敵なグレーのショールを贈った。一緒に選んだのはわたしだ。
「これで、マーガレットも、少しは機嫌が直ってくれるといいのですが」
「そうね、きっと喜んでくれるわ」
彼の指がするりとわたしの髪に触れ、すぐに離れる。
それはガイの、わたしへの相槌のような仕草。わたしの大好きな仕草。
 
すぐに離れる彼の指を、少しだけ寂しく感じる思いにどきりとする。
その指は、過去にきっと長く誰かの髪に絡んだのだろう。
わたしの知らない、女性の髪や頬を、きっと優しく……。
アトウッド夫人の声がまた、耳に甦るようだ。
「坊ちゃまの元の奥さまは、子爵さまのお嬢さまで、それは華やかでお美しい方でございます。レディ・アンと、社交界の方々はおっしゃいますわね。
愛し合ったまま、お二人がお別れになったのは、わたくしどもにもひどく辛く寂しいことでございました」






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