甘やかな月 エピソード2
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ガイはもう一度繰り返した。
わたしに元の世界へ一時、帰ってほしい、と。今度は疑問ではなく、「〜してほしい」という彼の希望。
わたしは何も、言葉を返せなかった。
ただ彼の腕の中で、驚きと大きな胸のざわめきだけを感じていた。

熱い抱擁とあんなにも甘い口づけの後で、どうして彼はこんなにもあっさりと、または簡単に、わたしを冷たい剣のような言葉で突き刺すことができるのだろう。
彼のシャツに触れる指先が、例のように冷たい。そこだけぼうっとした嫌な感覚。
「お嬢さん、怒っているのでしょう? 僕がひどいことを口にしたから。ねえ、何か言ってくれませんか? 嫌だとか、僕への文句でもいいから……。ねえ、お嬢さん」
「怒っていないわ。でも……、とても驚いたの」
ひりひりする喉の奥から、ようやっと声を出す。かさついた、途切れそうな声を。
じわりと瞳に涙の粒が溜まっていく。自然にそれは溢れて、頬を伝った。
何が悲しいのだろう。
わたしは抱えた胸の思いを実らせ、ガイの妻となり、『レディ・ユラ』と呼ばれる人物になった。そばには彼がいて、こうやって抱いてくれる。彼がわたしを連れ出してくれた冬のウィンザーは、美しい景観の邸と森をたたえた、きんと冷えるどこか幻想的な場所。
それから、暖かな寝室ではきっと、彼はわたしを抱いてくれる。愛してくれる。陶然なり、わたしが懇願をするまで、きっと絶えなく。
何が悲しいというのだろう。
彼は「一時」帰ってほしいと言った。「しばらく」帰ってくれないかと言ったのだ。
さよならを告げられたのでは、決してない。驚愕の影で、わたしは冷えたどこかでそれを瞬時に理解している。
だったら、何を……?
「怒っているのですね? お嬢さん。申し訳ない。僕をぶってくれても構わないから。ねえ、ひどいことを言う嫌な男だと思ったのでしょう? お嬢さん、何か言ってください。可愛らしいあなたに泣かれるのは、堪らない」
彼がわたしの涙に気づいた。指で拭い、または唇を当てる。
悪かったと言い、ぬれた頬にキスを繰り返す彼。
きっと、きっとわたしは、彼の言葉が嫌だったのだ。
男性的な熱で包んだそのすぐ後に、あっさりと彼が放った言葉は、まるでわたしを突き放すように響き、ひどく悲しかったのだ。
わたしはそれを口にしない。
けれど、彼がわたしの唇に這わすその指先を、少しだけ恨んで噛んだ。
 
ガイはわたしを抱く腕を解いた。胸のポケットから、いつか見せた銀の懐中時計を取り出した。
片手で、ぱちんとその小さな蓋を開ける。中は以前見たときと変わらず、アナログの針が時を刻み、蓋の裏にあたる部分は曇った鏡になっている。わたしにはそれ以上、何も見えない。
彼の指はその鏡に触れた。
「ここに、今少年の姿が映っている」
彼はそんなことを言った。

「え」
その言葉が何を指すのか、そして彼がわたしに一時帰ってくれと告げた意味が、ぼんやりと輪郭を成していく。
誰か、わたしのような寂しい誰かを、彼は迎えに行くのだろうか?
彼が手を引いた。「いらっしゃい」と。わたしたちは近くの椅子に隣り合って掛けた。
わたしは彼の脚に手を置き、彼がいまだ掌に乗せる懐中時計を見つめる。
彼はこれに映ったわたしを迎えに来てくれたのだ。
だから、わたしは今こうしていられる。
「少年の影に気付いたのは、ここに向かう途中の馬車の中です。あなたは可愛らしい様子で、僕にもたれて眠っていた……。
ひどく驚きました。僕はこの役目を祖母から継いで、十年以上になるが、そう頻繁に影が現われるものではないのですよ。
あなたの以前は、フィッツ博士をこちらにお連れしました。
彼は、あなたの世界の物理学の権威だった」

ガイは「ほら、以前あなたに話したはずです」と言葉を挟んだ。けれど、わたしはそのれをよく覚えていなかった。
「僕らは二人で秘密に研究をしたものです。この不思議な現象を、何とか理論的に表せないか……。できる限りの考察を行ったが、解けない。そして彼が亡くなり、入れ替わって、数年後にまたあなたの影が現われたのです。このように重なるなど……、僕は祖母からも聞いたことがない。
満月の夜にしか走らないあの妙な列車、懐中時計の影、時間軸の差、時空のねじれ……。結局、不可思議な謎だらけが残った。

しかし、なぞの中にも理屈があり、ルールがある」
そこで彼は言葉を切った。
間の効果など期待した訳ではないだろう、けれども、口元を片手で覆った彼が置いたそのちょっとした間は、おかしなほどにわたしを震えさせた。
「ルールを破ると、必ず破綻する。ここではまだ異分子のあなたは、きっと、壊れてしまう」
 
彼が祖母から伝えられたという、幾つかのこの役割に関するルール。
「普段から優しい人でしたが、これを僕に伝えるときだけは、ひどく厳しい顔をしていました。
まず、僕以外の誰にも明かさないこと。これはごく簡単だ。僕が秘めていればいい。決まった場所へ、誰かを迎えに行き、生活を保障する。その人物が落ち着くまで見守り、選択を委ねるのです。残るのか、もしくは帰るのか。
結局、こちらに残りたがる人は少ない。フィッツ博士とあなたの二人しか、僕は知らない。祖母のときはあったようです。不自由はなくても、やはり居心地が悪いのか。または郷愁でしょうか、どうでしょう」
ここでわたしは首を傾げた。抱えられないほどの嫌な思いや、何か問題を持った人々が、彼の懐中時計に映るのだろう。それでもやはり、こちらに順応できず、帰ることを望むものなのだろうか。
ガイに問うと、彼はちょっと笑った。「お嬢さんは、誤解をしている」と言う。
「僕が迎えに行く人々は、何も困った問題を抱えた人々とは限らない。ごく幸せの最中にいる人を迎えに行ったこともある。
重要なのは、鏡に映った選ばれた人々が、僕を呼んでいるのです。こちらから選ぶのではない。何か共通の目的を持って鏡に映り、そして僕を呼ぶのです」
その他のルールには、鏡に映った以外の人物を、こちらには連れてくることができないこと。鏡に映った人々を、ガイの判断で無視してはいけないこと。
それらが主なルールだという。それらを破ると、必ず綻びが出るのだという。
「測れなくとも、意味があって決められたルールです。あなたに関わることで、僕はリスクを冒したくない。先例のないことを試して、取り返しのつかないことになるのが怖い」
だから、わたしに一度帰ってほしいと言うのだ。
「少しの間だけでいい。あなたを送った次の満月に、僕はその少年を迎えに行きます。そして次の満月に、きっとあなたを迎えに行く。必ず行く。それが終われば、帰ることなど、もう二度と考えなくていいから……」
どこか説くようで、しかし、急くような言葉の羅列。
僕を信じてほしい、と彼はそう言う。
端からわたしに選択権などない。うなずくしかないのだ。
でないと、彼がひどく困るのだろう。
わたしがどんなに拗ねても、悩んでも、選ぶことはできないのだ。
彼を信じて。迎えに来てくれるという彼の言葉を信じるしかない。
ガイのブルーグレイの瞳は、熱を帯びてわたしだけに向けられている。
「わかったわ。きっと、迎えに来てね。でないと、わたし……」
わたしは微笑んだつもり。
けれど、収めた涙がほとばしるようにぶり返す。
大きくて苦い、飲めないものを無理に飲んだような気分がする。
彼の腕が背中に回る。わたしをきつく抱きしめてくれる。
うっとりとなる幸福に酔うような、大好きなこの瞬間。彼がくれる、「愛している」という甘いささやき。
けれど、胸の落ち着かないざわめきは去らないのだ。
「ごめんさない、ガイ……、泣いたりして。ごめんなさい、わたし不安なの……。あなたを信じているけれど、怖いの……」



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