甘やかな月 エピソード2
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追い立てられるように、わたしは浴室に案内された。
廊下のとこどころに置かれた明かりは、光を柔らかく和紙が通して、照らされた床は艶光りしていた。
途中、来た部屋の方を振り返る。点々と明かりは続き、今わたしが立つ場所まで至っている。ほのかな香の匂いがする。
「さあ、こちらがお湯です」
仲居さんが几帳をややずらした。それに隠れるようにしてあった引き戸を開けると、湿気と湯の匂い、そして香の匂いがほんのりと鼻腔をくすぐる。
家庭の浴室よりゆったりとした脱衣室は、おおきなドレッサーが設えられ、身を整えるために必要なほぼ全てのものがそろっているかに見えた。
下にはすのこが敷かれ、その乾いた感じから、使用した人がしばらくいないのを知った。
浴衣の他、下着の替えまで用意されている。これを目にすると、ここが普通の宿ではないのではないかという懸念が生じる。
「ご遠慮なく、何でもお使い下さい。お帰りは、こちらの潜り戸から、お泊りのお客間に真っ直ぐに行けますので」
仲居さんはそう言って出て行った。入ってきた扉とは別の引き戸。それは閂が掛かるようになっていた。わたしは外された閂を掛けた。入ってきた引き戸の方も。
そうやって、しばらくドレッサーの椅子に掛けた。
傍らに、小さな冷蔵庫もある。ミネラルウォーターの他、缶の飲み物が揃っている。そこからミネラルウォーターのボトルを取り出し、一口飲んだ。
冷たい液体が、爽やかに喉を通っていく。しかしその感覚は、すぐに悪寒に変わった。
清潔感のある宿ではある。手入れの行き届いた、さぞ利用者にも散財を強いるだろう空間。
しかし、レディ・アンがわたしを誘ったあの薄汚れた館と、ここはひどく似ている。やや趣向が違うものの、根本は変わらないように感じる。
そうして、わたしはやはり、まんまとそんな場所に導かれてきた。
あのとき、わたしが身体を汚してしまう、ほんの直前にガイは現われてくれた。「無事でよかった」と、わたしを自分のコートにくるみ、抱き上げてくれたのだ。とても大事そうに、彼は走る馬車の中でも、ずうっとわたしを抱いて温めてくれた。
きっと、今夜彼は来てはくれない。わたしの頭の中の冷めたどこかが、そう悟っている。
今日が満月ではないこと、それから……。
それからわたしが、心の半分も、彼の迎えをあきらめかけてしまっていることが、そう思わせるのだ。
瞳を閉じれば、容易に浮かぶ彼の佇まい。その声と優しさ。癖と笑み。
かつて、わたしを包んだ幸せの全て。
熱い抱擁とあの繰り返す愛撫を、はにかみながらも時には思い、反芻してきた。初めてわたしが受け入れた彼を、その仕草に自分がどんなにときめいて、そうして崩れるように、溶けていったかを。
初めて共に過ごしたあの宵に、彼は告げたのだ。「離したくない。もう、あなたを離せなくなった」と。
それは、真実に響いた。一片の嘘のない真っ白なものに。
もう、戻らないのだろうか。
彼は、もうわたしを抱いてくれないのだろうか。
抱いてほしい。もう一度あなたに。そして、果てないその行為に溺れたい。
こう思うわたしは、淫らなのだろうか。いやらしいのだろうか。
あなたがわたしに刻んだ、その絆に似た熱がほしい。
彼でないと、嫌。
それだけは、譲れないのだ。
あなただけがほしい。
 
十分に間を取って、わたしは潜り戸を開けた。二人が並ぶと窮屈なほどの幅の廊下には、オレンジ色めいた柔らかい照明が頭上から照らす。
真っ直ぐに歩を進めると、襖に突き当たる。
わたしは浴室に入らなかった。手をドレッサーの蛇口で洗い、化粧をほんの少し直しただけでここにいる。もちろん着てきたワンピースのまま。
目の前の襖の向こうにいるだろう社長。彼はきっと今夜、わたしを抱くくつもりでいるのだろう。元から、そのつもりでここへ連れて来たのかもしれない。
けれど、そんなことは絶対に嫌。あの人を受け入れる自分を思うだけで、胸がむかついてくるほどの嫌悪感が走る。
わたしは精一杯話をしてみるつもりでいた。結婚を前にそういう関係になるのが嫌であること、どうしてもそれだけは守ってもらいたいこと。結婚後はもちろん、自由にしてくれていいこと。今夜は気分が悪く、もう帰りたいこと……。
嘘とでまかせと、時間稼ぎの言葉の羅列。結局、この場を逃れる方法は、その程度のものしか浮かばない。わたしに執心しているという、時任さんの言葉が確かならば、叶えられるのではないか、と思うのだ。
逃げ出すことも考えた。
しかし、嵌め殺しの窓の外は恐ろしいほどの闇と木々が鬱蒼としげる山が迫っていた。靴もなく、明かりもなくその山を下りることなど、不可能なことはすぐに察した。そこからどうすればよいかも、…途方に暮れてしまう。
それに、捕まったのなら、もう避けようのない出来事が待っているだろうこと。
だから、言葉を尽くして、頼んでみよう。
それしか、ない。
ちょっとだけ歯を噛みしめて、襖を開けた。照明の落とされた室内には、想像したとおりに、二組の布団が敷かれていた。それがぴたりとつながっているのは、見るだけで不快だった。
時任さんの姿はない。ただぽつねんと社長がいた。色合い薄そうな水割りを飲んでいる。わたしの視線に、
「酔うといかんからな。匂いのする水みたいなものだ」
「お替りを作りましょうか?」
わたしは距離を置いて、ウイスキーや氷などの置かれた隅のテーブルの前に座った。
「いや、いい」
彼の手がわたしの腕に触れ、掴んだ。じっとりと汗か脂かで、掌が湿っている。ぐいと力で引かれ、わたしの体が、彼のいる布団の方へと傾いだ。
「浴衣に着替えなかったのか?」
ねっとりとした嫌な息と声が、すぐ肩のところでした。
「ええ。あの……、時任さんは?」
「あいつなら、どこか別の部屋にいるだろう。もう寝ているのかもしれん」
社長の浴衣の前がはだけ、そこから胸が見えた。しみのある、ややたるんだ肌が見える。わたしの背を、彼の手が上下に動いた。
「お前のその姿は、清純な感じがなかなかいい。気に入っている」
「あの……、お願いが、あるんです」
「何だ、ほしいものがあるのか? やったカードで、勝手に買えばいい」
すうっと背中のファスナーが下ろされるのを感じて、肌を怖気が走る。身じろぎをし、それから逃れた。
荒い息が首筋にかかり、ひどく気持ちが悪い。「お前はまだ、男を知らんのだろう」と、そんなことを言う。
「あの……、お願いです。止めてください」
手が空いた背中から入ってきた。

「照れんでもいい。どれ、こっちを向け」
背を向けようとするわたしを、ねじるように振り向かせる。その思わぬ力に、驚く。割りに痩せ、年配の彼に、こんな強い力を振るわれるとは思ってもいなかった。
無理に力を掛けたため、ファスナーが擦れたようなジッという音を立てた。スリップの上を、撫ぜる掌。指がその隙間を潜ろうとする。
「あの、お願いです。結婚まで、待って下さい。嫌なんです、こういうの。お願いですから。嫌なんです、わたし…」
それに返事がない。
わたしは憑かれたように、呪文のように繰り返した。結婚までは関係を持ちたくないと。結婚後は、好きにして構わないからと。気分が悪いから、今日はもう自宅に帰してほしいと……。
繰り返し、そればかりを口にした。返事はなく、代わりに、痛いほどの力で背中から両の腕をつかまれた。
「嫌……」
そのまま自由を奪われ、わたしは布団の上にうつ伏せにねじ伏せられた。背中のすっかり開いたワンピースは、簡単にわたしから離れた。足元まで下りたそれを、彼が邪魔だとばかりに払いのける。
剥ぐように、破かれ脱がされたストッキング。馬乗りになった彼の生温かい肌の感触。みっちゃりと汗をかいた彼の脚が、膝を割りすれていく。
「嫌、嫌…。助けて」
「怖がらんでもいい。今にせがむほどになる。ほら、どうだ?」
下着の上から胸をつかまれ、わたしは悲鳴をあげた。
胸から離れた手は、つるつるとスリップの上を滑った。「お前の脚が好きだ」それは脚に下り、張り付くのではないかと思うほど撫で回した。
自分の甘さに、涙ぐみながら臍を噛む。
なんてわたしは甘いのだろう。説得すれば、聞き入れてもらえるのだと考えていた。解放してもらえるのだと、思い込んでいた。
この人は、父から会社を奪い、死に追いやったような人物なのだ。そんな彼が、「嫌だ」、「結婚まで待ってほしい」と繰り返したところで、わたしの身体を奪うことに抵抗を感じるはずがないのだ。
脚を舐め回す彼のいやらしい、汚らわしい舌。想像以上の力と体重で、わたしをしっかりと押さえ込んでいる。
空いた腕の先の指が、ショーツの上を彷徨う。行っては、帰る動き。堪らない不快さに、吐きそうになる。
気持ち悪い。
彼の激しく喘ぐ声が、じっとりと周囲に満ちていく。お尻の辺りを遊んでいた指が、ショーツの中に入り込んだ。
「ひいっ」と声がもれた。
腰にずしりと重みを感じる。なんて湿って、嫌な重さ。気味の悪い、大きな蛭にでもへばりつかれているかのような。
彼から離れたい。わたしの頭にはそのことしかなかった。
不意に、力が緩んだように思えた。そして腕が外れた。
その隙に、わたしは這って、背を覆う重みから逃れようとした。四つん這いになり、隅から逃げるのだ。
壁の際まで逃げ、おかしなことに気付いた。どうして、不意に社長の力が抜けたのだろう。どうしてわたしはここまで這って来られたのだろう。
振り返ると、布団の上に浴衣をだらりとはだけさせ、胸を押さえ、くの字になる彼の姿があった。
それは苦しんでいるように見えた。
微かな、ぜいぜいという胸の泣き声がする。赤くしかめられた表情には、苦悶しか見えない。
「社長……?」
声に反応しない。ただ身をこごめるばかりだ。
何だろう。この人はどうしたのだろう。
口からは泡のようなものを垂らし始めた。このときになって、わたしは彼が何かの発作を起こしたのだと、思い至った。
身を繕うより先に、下着のままわたしは備え付けの電話をつかんだ。受話器を上げ、フロントにコールする。
「はい、ご用でございましょうか?」
女性の柔らかい声が返ってきた。
「時任さんを呼んで下さい。丹羽社長が倒れたんです。早く、時任さんを」
そう言って電話を切った。
ちょうど近くには、わたしのワンピースが、丸めたように放られていた。それを取り、胸に抱えた。
わたしはしばらくそのままで、苦しみ続ける社長を見ていた。



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