甘やかな月 エピソード2
9
 
 
 
季節の変わり目というのは、人の背を、とんと押すような作用があるように思う。移る次の季節へ衣服が替わり、肌に当たる風が変わる。
それらに「さあ、急ぎなさい」、そう言われているように思えてならない。
特に冬の終わりから春の初めにはそれが露だ。
誰しもが次の節目に、押し出されていくように。冬の間、体をくるんだコートも、はらりと脱いで。徐々に花を芽吹く新しい季節へ、洋々と踏み出す。
 
短大の卒業式には、父兄の席に欠伸を噛み殺す時任さんと、金沢の叔母の姿があった。この二人の取り合わせというのは、不吉極まりない。わたしの重要時には、いつだって二人でつるみ、わたしから奪っていく。
だから、嫌い。二人は嫌い。
急かされるように卒業を迎え、追い出されるようにぽんと社会に放り出されるわたしたち。
なんてことだろう。まさか、自分の将来を自分で決められないことなど、あり得ないと思っていた。信じていた。
けれど……。
この二年の間に、わたしはなんて変わったのだろう。さまざまな出来事がわたしの周囲で起こり、それはわたしをあっという間に巻き込み、のんでいった。抗えない力で、くるくると、おかしな小さな壷にでも入れられるかのように。わたしが小さく小さくなりながら、その中に入れられてしまうような感覚。もしくは錯覚。
たとえるのなら、非常にそれに似ているのかもしれない。
式の後では、友達と写真を取り合った。袴を身に着けることなど、きっともうないだろう。
キャンパスの中であれこれ戯れるように写真を撮っていると、友達の一人が小さくささやいた。「あ、由良。眼鏡が来る」と。
眼鏡こと時任さんは、式も済み、早速何か口に含んでいる。キャンディーだろうか。時折がりがりと噛む音がする。
彼はわたしの手から、デジカメをすっと取った。皆で並んだところを撮ってくれるという。
「もうちょっと右にずれて。チャペルが入るから」
幾枚かそうやって彼は撮ってくれた。手にカメラを返すときも、わたしは「ありがとう」を口にしなかった。代わりに、「この後で、謝恩会があるの」と言った。
出席の許可をもらうというより、帰りには迎えに来てほしいという意味だ。彼はそれに軽くうなずいた。
「じゃあ、帰りには連絡を下さい。迎えに行きますよ」
これに友人に一人の優花がおどけて言った。「眼鏡さんって、便利。いいな」と。彼はいつの間にやら、自分がわたしの友人たちの間では『眼鏡』で通っていることを知っている。気を悪くする風もない。案外若い女の子に囲まれていい気になっているのかもしれない。
彼は彼女の言葉に、嫌らしくねっとりと笑った。
「君には、金に転ぶ叔母さんがいる? 叔父さんでもいい。簡単にエロおやじに姪っ子を売り渡すような。とにかくそんな身内がいると、わたしみたいな付き人が付くかもしれない」
そう言うと、ちょっとだけわたしに合図をして、彼は背中を向けた。彼の言う「金に転ぶ叔母さん」を家に送るという。
嫌な男。
わたしは恥ずかしさと惨めさに、唇を痛いほどに噛んだ。
 
 
約束の満月の宵に現われなかったガイを、わたしは次の満月も待った。けれど、彼はやって来ない。
その次の満月も待った。
泣きながら、祈るように待ったけれど、来てはくれなかった。
時に、あれはわたしの見た、悲しい現実逃避の夢であったのではないかと思ったりもした。けれど、この世界に戻ったわたしが身に着けていた衣装。そしてガイが贈ってくれた指輪がある。
それらは確かに、わたしはあちらにいたという証拠。ひっそりとその衣装を着てみることもある。指輪はまるでお守りのように肌から離さない。
けれど、彼は来てくれない。
どうして来ないのだろう。
わたしを妻にしたことは、彼のほんの戯れだったのだろうか。次の人物の影が、あの懐中時計に映るまでの、期間の切られた妻だったのだろうか。
元より、迎えになど来る気はなかったのだろうか。あれは、彼がわたしを納得させるために口にした方便なのだろうか。
そんな否定的な考えが、頭に徐々に苔のようにはびこってくるのを、わたしは止める術がなかった。
彼の言葉をひたすらに信じ、期待に胸を躍らせてその迎えを待つ。息を殺すように待つ重い重いその時間。その経過。果てに来る緊張の弛緩と、「やっぱり」という諦め。
幾ヶ月も、ふくらんだ期待は無残にも踏みにじられてきたのだ。
それらがどんどんわたしを蝕んでいく。暗い想像に、慣れてしまった。
思い出にした方がいいのだろうか。
微かに、胸をよぎる諦観。そしていまだ大きく残る期待が、もう一月待ってみようと、前者をなだめるのだ。
残った道は、ひどく辛く嫌なものでしかないのだから。
そうやって、わたしは日々を過ごした。
 
卒業式を終えると、一気に訪れた春。浮き立つようなその陽気も、花の香りも、褪せて感じる。心はいつも、見事に花々が彩るという、ガイのマキシミリアンの邸の春の庭へと飛んでいくのだ。
わたしは、時任さんの監視を受けながら、時に友人と会い、静かな毎日を送っている。たまに社長からは、食事に呼ばれることもある。そんなときはやはり、彼の好みにお洒落を施して、時任さんの言うがままに連れられて行く。
彼の邸であったり、料亭であったり、レストランであったり。その席には社長の他に大抵誰かがいた。矢島さんだったこともあるし、わたしの知らない仕事関係の人のときもある。あるいは子供たちの一人だったりもした。
時任さんいわく、「徐々に周囲にあなたの顔をつないでいるようですよ」という。
見えない沼に、どんどんと入っていくのを感じる。ひたひたと冷たく、けれどどこか安逸なぬめり。底に溜まる泥濘が、すっかりわたしの足首を掴んでしまっていること。
きっとわたしは知っていた。知りながら、答えを先送りしていたのだ。
今も胸に抱くガイへの期待、思い。それを盾に目をつむり、考えまいとした。
そうやって、咲かないわたしの春が終わる。
 
 
その日は社長のお供で、京都の鞍馬に出かけた。向こうの知人に、わたしを紹介するという。わたしに否応もない。
彼のカードで買った、ハイウエストの切り替えのある初夏らしいごく薄いブルーのワンピースに、リボンの飾りのある華奢なパンプスを合わせた。
社長も時任さんも何も言わないのをいいことに、せめてもの気晴らしと、わたしはカードを使うのをためらわない。しかし、どれだけお洒落をしても、気を配っても、それが社長のためのなのだと思うと、全く甲斐がなく味気ない。
彼はわたしが清楚で、少し大人っぽい格好をしていればいいのだ。なぜか彼はワンピースを好み、それを着ることを求めた。だから、わたしはワンピースばかり幾枚も持っている。けれどクローゼットを彩るそれらを見ても、ちっとも心が弾まない。
それらは彼に会う日以外は着ないから。それを着る日は彼に会う日になる。だから、心が弾まない。
乗ったのは、わたしにあてがったいつもの乗りなれた小型の外車ではなく、社長の常の使用のものらしいセダン。こういうときにはわたしは、ハンドルを握らない。運転するのは時任さんだ。
社長と共に後部座席の革張りのシートに座る。静かな振動とエンジン音。車窓の景色がどんどんと流れていく。
「天気になってよかった」
そんなことを彼が言った。それにわたしは「はい」と小さく答えた。
あまり反応のないわたしの返事に彼も慣れ、専ら会話は時任さんが受け持ってくれる。二人は何やら仕事の話から、ある人物の噂話、家内のことなどをつまつまと話していく。
「おい、向こうに着くのはどれくらいになる?」
「そうですね、急げば六時には」
「ふん、そんなに急がなくてもいい」
「はい」
わたしは窓の外を眺めた。高速道路の遮音フェンスに遮られ、海が見えるはずなのに、それも望めない。それで、微かに見える空の青と、フェンスの途切れにちらりと顔を出す風景を見続けた。
いつしか社長の手が、わたしに腿の辺りに置かれていた。さするように上下する動き。もう慣れたその手の温度。
それはするりとスカートの中に侵入していく。ストッキング越しでもその手の湿り具合は感じられる。ねばつくような脂っぽさ。わたしはぎゅっと掌に爪を食い込ませて我慢する。我慢しないと奥へ指が進むのだ。嫌だというと、余計な力がかかるのだ。
そうやって彼は、わたしの脚に触れるのを愉しんでいる。いつもそう。
ぐいと手が奥に押し込まれる。指が腿をくすぐっている。スカートがやや捲くれ上がった。
彼はそうしながらも、何でもないように時任さんと会話を進めていく。指だけは器用に動かしながら。
「あ」
いつになく奥へと入っていく指に、わたしは抵抗した。「お願いですから……」と、小さな声で言った。そんなわたしの声には頓着することなく、指はくすぐったく動いた。
わたしはそれに耐えながら、窓に目をやる。じわりと涙で、景色がぼやけた。
その後で、ルームミラーに映る時任さんと目が合った。眼鏡の向こうの彼の瞳は、鏡の中でにやにやと笑っている。わたしが先ほどから受けている辱めを、彼はとうに知っているのだ。
 
鞍馬に着いたのは、遅い日が沈み、とっぷりと暮れてからだった。
料亭を兼ねた宿は庭にほんのりとした明かりの灯る、古びた建物だった。苔生した庭先を行き、ぬれて照明にきらきらと光る石畳を渡り、館に入った。
社長はこちらを定宿にでもしているのか、ひどく歓待を受けた。すぐにでも風呂に浸かりたいという彼を、仲居さんがすかさず案内する。
残ったわたしは、時任さんと共に、隅に几帳を立てた小さな部屋で、お茶を飲んで待った。
社長が湯から上がってくるのと同じころに、会う予定の知人が現われた。
食事の席では、やはりわたしを「若い妻をもらうことになった」と、悪びれもせずに紹介する。相手の反応は大概が同じものになる。驚きと興味、そして、わたしへのどこか蔑んだ嗤いが、それには混じるのだ。
時任さんも加わった食事が済んだのは、十時に近かった。招かれた客はあっさりと帰り、わたしもそろそろ帰るものだと合点した。
「お前も早く、湯を使って来い」
社長が浴衣のまま、ひどく寛いだ様子でそんなことを言うのだ。腰を上げる気配などく、ねばっこい視線をわたしに向ける。
器は下げられ、既にきれいにテーブルは片付けられている。年配の仲居さんのお酌で、彼はちびちびと日本酒を飲んでいる。
「あの、いつ帰るのですか?」
「帰らんよ。今夜はここに泊まる」
この答えにうろたえて、わたしは思わず、時任さんを振り返った。彼も大きなあくびを何とか噛み殺し、うなずいた。
「今から帰るのは無理です。由良さん、社長のおっしゃるようにお湯を使ってきたらどうです?」
密かに、彼が合図でもしたのか。仲居さんが社長のそばから離れ立ち上がった。
「奥さま、さあ、お湯にご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
嫌な予感がする。
車の中でわたしのスカートの中を這った、社長の手の動き。ほんの日帰りのようにわたしをここに連れ出したのに。それが掌を返したように、泊まるのだという。
何の疑いも持たず、わたしはうかうかと、こんなところに連れられて来てしまった。
じわじわと肌が嫌な感じで汗ばんでくるのに、背中だけぞわりと寒気がする。あのねばつく、じっとりと湿った指は、きっと……。
嫌な予感がする。



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