甘やかな月 エピソード2
（11）
慌ただしく襖が開けられたときには、わたしは既にワンピースを身に着けていた。
時任さんの後ろには、この宿に迎えに現われた女将らしき中年の和服の女性の姿があった。
彼はわたしのなりを、ちらりと眼鏡の瞳で見た。それはどこまでことが及んだのかを、確認する風でもあった。
彼は裸足の脚に気付いたろうか。わたしは破れたストッキングを丸めて屑かごに捨てていた。
「どないしはったんどす？ 発作どすか？」
社長に屈みこむ時任さんの後ろからのぞくようにして、女将が声を掛ける。
それに返事をしない代わり、派手な舌打ちの音がした。
「至急、救急車を呼んで下さい。社長は血圧が高い。心臓が弱ったのかもしれない。だったら急いだ方がいい」
「へえ、でもうちに救急車は困るんどす。今夜は他にも、お客さんが起こしどすから。ご存じどっしゃろ？ ここがどういう場所か……」
「死んだら、どうするんです？ そのときここの名がドンと出た方がまずいんじゃないですか？」
ぴしゃりと女将の不平を打ち切るように言った後で、彼は更に厳しい声で「早く救急車を」と、もう一度言った。
女将はぶすりとした顔を隠さず、「難儀やわ……」とつぶやいて部屋を出て行った。
社長は声を出す様子もない。気を失っているのかもしれない。
屈んだまま、社長の様子を見守る彼に、わたしは救急車はどれくらいで来るものなのかを訊ねた。
「さあ、二十分もあれば、来るのじゃないですか」
「わたしも病院に付き添わなくちゃ、いけない？」
「では、この淫売宿のようなところに残りますか？」
それにわたしはうつむいた。こんなところに一人にされるのは嫌だった。なら、救急車の来る僅かな間に、シャワーを浴びてきたいと言った。社長の舌が這った脚が、堪らなく気味が悪いのだ。一刻も早く、洗い流してしまいたい。
あの脱衣場には下着の替えの他、ストッキングも用意してあるだろうか。
時任さんは不意に、わたしへ振り返った。じろりと脚から顔へと、視線を上げていき、
「由良さん、あなた助かりましたね。社長はナニに及んだ途端にこうだ。いやはや、年を取ると、若い女房を相手にするのも命懸けだ」
皮肉るような、馬鹿にしたようなそんな言葉を口にした。その後で、また小さく舌打ちをする。
これで彼は狼狽しているのかもしれない。社長にもしものことがあれば、彼の立場はどうなるのだろう。「社長の便利屋だ」とうそぶいていたこの人は、どうなるのだろう。そんな焦りが、彼の表情に見える気がした。
けれど、そんなこと、わたしには関係がない。
わたしは彼を置いて、浴室へ向かった。
一つだけ確かなこと。社長がどうなるにしろ、当分わたしには触れられないだろうということ。
それはわたしをひどく安心させた。
脚や体を這った、強引な力とねじ伏せられた痛み。あの気持ちの悪い指や舌。あんな目に遭うのは、もう二度と嫌。
あの力に体を開くのなら、死んだ方がまし。
時任さんと共に救急車に乗り込み、そのまま救急指定先の総合病院に向かった。
車の中では、救急隊員による応急処置が取られていく。どうやら、社長は心臓の発作を起こしたらしい。今すぐに、命に別状はなさそうだった。
深夜の病院は、それでも活気があった。救急センターには医師や看護師が忙しく動き回り、ロビーにもちらほらと人の姿が見えた。
ストレッチャーから合図で診療台に移された社長は仰臥のまま、やはりぜいぜいという息を続けている。彼の周囲には看護師が取り巻き、浴衣のままのその胸をはらりと開いた。
わたしは時任さんの隣りで、その様子をセンターの外から窓越しに眺めている。
そこへ、ぺたぺたとしたサンダルの音を立てながら、ブルーの上下のユニフォームを纏った医師が、足早にこちらにやって来た。まだ三十歳ほどに見える。
「担当医の柏木です。あの、患者さんとのご関係は？」
「わたしは秘書です。社長はどうなんですか？」
医師は時任さんに、患者の血圧がひどく高いこと。それが原因で狭心症の発作を起こしたらしいこと、薬で安定するということなどを説明した。
明らかに時任さんは、その説明を受け、ほっとした様子だった。わたしをちらりと見、軽くうなずく余裕を見せる。
「動脈硬化もかなり見られますね。年齢が年齢ですし、後に心臓カテーテル検査をしましょう。先ほども、訊かれたかと思いますが、確認させて下さい。何か既往症、飲んでいる薬などは？」
その問いに、なぜか時任さんは「あっ」と顔をしかめた。
「先生、言い忘れました。社長は高血圧ですが、普段その薬は飲んでいません。あの、今日は、ちょっとある別の薬を……」
腕を組んだ医師が、舌で片頬を膨らませる仕草をした。ちょっと視線をわたしに向け、すぐに外した。
「勃起不全薬でしょうか？」
そんなことを訊いた。それに時任さんがうなずく。「ええ、友人にもらったものを飲んでいました」と、胸の内ポケットから錠剤を出して医師に渡した。
彼はそれを一瞥し、
「それとは合わない薬があるのですよ。早く言ってもらわないと危険です」
そのまま、走るようにセンターに戻った。
彼がわたしにちらりと向けた視線。きっとわたしの存在で、その薬に合点がいったのだろう。きっとわたしを、そういう女だと見たのだろう。連想したのだろう。
恥ずかしさで、わたしは泣きたくなった。
時任さんと一緒にいることすら嫌だった。何も言わずに彼から離れた。一人になりたかった。
あちこちに電話連絡を始めた時任さんから、わたしは何も言わずに離れた。
広々とした外来のロビーは、救急センターの殺伐とした活気とは違い、常夜灯がほのかに照らす、静かな空間だった。
その椅子に掛け、わたしはぼんやりとしていた。空調の消えた温い空気が心地よかった。少し肌寒いほどだったから、それがありがたかった。
どれほど時がたったのだろう。
社長はどうなったのだろう。
時任さんはまだ電話を続けているのだろうか。
わたしはいつまでここにいなくてはならないのだろう。
自宅に帰り、ゆっくりと淹れた熱い紅茶を飲みたい。精油を垂らした湯船に、とろけるほどに浸かりたい。
とても疲れてしまった。
ぺたぺたぺた、サンダルの足音がした。その音に、いつの間にかうつむいて下を向いた顔を上げる。
こちらにやって来る柏木医師の姿があった。彼はそばまで来ると、隣りに座っていいかを訊いた。それにうなずく。
「社長が……、何か？」
「いや、患者さんは大丈夫。持ち直すよ。狭心症といってね、心臓に一時的、血液の供給が妨げられる症状があるんだ。それで発作が起きる。特に、年配の高血圧の男性には多い病気なんだよ」
彼はそう説明をしながら、わたしに「どうぞ」と、ユニフォームの上に重ねた白衣のポケットから、缶コーヒーを出した。
それは熱いコーヒーで、わたしには嬉しく、礼を言った後でプルトップを開けた。
彼は自分も缶を開け、口に当てた。そうしてさりげない口調で、わたしに年齢や、社長との関係を問うた。
くっきりとした二重瞼の大きな瞳は、逸らさずにわたしに向けられている。どういうつもりで彼がそんな質問をするのか、怪訝だった。あまり話したい内容ではない。
口ごもったわたしに、彼がちょっと鼻の頭を掻いた。「ごめん」と苦笑いをする。笑みで顔が歪むと、肌にある点々としたそばかすとその大きな瞳が、一瞬彼を、可愛らしい少年のように見せた。
「込み入った個人的なことを訊いたね。ごめん。……気になったから、君が」
「どうしてですか？」
「うん……、何だか寂しそうな、泣きそうな顔をしていたから」
「そうですか……？」
わたしは一口、熱いコーヒーを飲んだ。ほろ苦く、けれど甘い液体が喉を通っていく。胸でじんわりとその温かさが広がる。その感覚はひどく疲れたわたしを和ませた。
こちらを見る彼の視線を感じる。誤解をさせたままでいるのが、どうしてだか、嫌だった。
それで、ほろりと口にした。自分の立場と、社長や時任さんとの関係、そして今夜京都に来た経緯。それからのことも……。
告げながら、自分では淡々と感情も交えずに、事実を話しているつもりだった。けれど、次第に目に涙が浮かんでくるのだ。瞼の裏で乾かそうとしたそれは、大きくなり手の缶のロゴをにじませ、最後には落ちた。ワンピースのスカートに、涙のしみができていく。一つ、二つ、三つ……。
わたしは辛いのだろうか、悲しいのだろうか。それとも、現われないガイが恋しいのか、憎いのか。
「え」
それは突然だった。彼の腕が伸び、それがわたしを引き寄せた。彼は涙でぬれたわたしの顔を、胸に押し当てるのだ。
「ハンカチを持ってないんだ。僕の白衣で我慢して」
「先生……？」
「君が気になってしょうがない。僕に何かできないか、そればかりを考えている。おかしいね、会ったばかりなのに。……気になって、仕方がない」
「……じゃあ、もう少し泣きたい。泣かせてほしい……」
わたしはどうしてしまったのだろう。
何を言っているのだろう。
そんなことを口にしてしまった。
けれど、確かにそれは紛れもないわたしの真の気持ち、そして内奥。
抱いてくれる優しい腕があれば、甘えたい。その温もりで泣きたいと思った。
とても疲れた。
自分を支えることに、わたしはひどく疲れてしまった。
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