甘やかな月 エピソード2
12
 
 
 
わたしの涙は、なんて嫌らしいのだろう。受け止める誰かの胸があれば、止め処もなく溢れるのだ。一人のときはあんなにも耐えて、何かに紛らせて、絶望の淵のぎりぎりで立ち止まっていられたのに。
わたしは、嫌らしい。
柏木先生の優しい腕の温もりに、ガイを思い出している。彼の腕の温もりと質感、そして常にあった彼の煙草の香り。
その香りが、先生の白衣からは匂わないのを、知りながら、わたしは目を閉じている。
いつからこんなに、ずるくなったのだろう。
髪を絡める彼の指を、わたしは感じている。ガイではないその指を、確かに。
心地のいいその優しさに、ほんの少し触れたかったのだ。
甘えであり、逃避であり、弱さ。それらを理由に瞳を閉じ続けるわたしという女は、ひどく嫌らしい。
 
ようやっとわたしは、彼の腕から身を離した。顔を隠すハンカチもない。バックは時任さんが運転してきたあの車の中にある。
指で目頭を押さえ、彼から身を背けた。
大丈夫、涙は乾きつつあった。髪を撫で、整える。わたしはどんな妙ちきりんな顔をしているのだろう。
きっと化粧も剥げ、頬のかさつきを感じる。疲れた、眠たげな、涙で赤くなったどんよりとした目をしているのだ。
「怒ってる? 抱きしめたりしたから……」
「……いいえ、すみません。わたし、取り乱して……」
早く彼が、行ってくれないかと思った。二人でいるところを時任さんなどに見られたら、きっと厄介なことになる。あの冷たい眼鏡の瞳は、どんなに嫌らしくわたしを見るのだろう。
彼のわたしへの態度には慣れたが、あの、ときに陰湿さをもった瞳で見据えられるのは、苦手だった。
「何か、できないかな。僕に」
先生はまだそんなことを言っている。わたしの顔をのぞき込むのだ。
わたしはそれに首を振って答えた。「いいえ」と。
わたしを救える人など、ガイだけなのだ。さらうようにこの世界から連れて行ってくれることが、わたしを救う唯一の道。
「君はこう、じっと身をこごめているようだ。そうやって、辛いことをやり過ごして耐えているの?」
彼の両の手が、わたしの肩に触れた。そして自分の方へと向かせる。わたしを見る彼の瞳は、ぱちりと瞬く他、しっかりと強くわたしに視線を注いでいる。
癖のないさらりとした前髪の下のそれは、わたしが言葉を返さないと、ちょっと細まった。首を傾げて、うかがうように、それでも瞳を逸らさない。
「何にも知らないくせに、って、顔をしているね」
「そんな……」
わたしは彼から顔を背けた。徐々に、見つめられることが恥ずかしくなってきていた。
赤い目をした、冴えない自分が恥ずかしい。頬に手を当てる。指先の冷たさが、ほんのりと熱を帯びた頬に気持ちがいい。
「僕は可哀そうがって、言っているんじゃない。それは、わかってほしい。君が……、とにかく気になってしょうがないんだ。放っておけない」
どうして彼はこんなことを言うのだろう。真剣なまなざしを向けて、言ってくれるのだろう。
彼から視線を外し、ロビーの奥を見やった。人が現われる気配はない。
時任さんは、まだだらだらと、電話にかじりついているのだろうか。あの似たような社長の子供たちにも、連絡を取ったのだろうか。
「社長が新妻になる、例の由良という若い女を手篭めにしようとして、狭心症の発作を起こしました。ええ、命に別状はありません」。淡々とこんなことを述べる彼の口調が、聞こえるようだ。
馬鹿みたい。
わたしを組み敷こうとして、発作を起こした社長も。それに慌てる時任さんも。
一時の危機から逃れたと、ほっとするわたしも、次をどう切り抜けるのかなど、念頭にもないのだ。
「聞いてる?」
問いかける先生の声の近さに、はっとする。「ごめんなさい。何か?」
問いかけると、彼はなぜかちょっと唇を噛んだ。その目がほんのりとはにかんだように感じたのは、それが初めて伏せられたから。
「君が好きだって、言ったんだよ」
「え」
わたしは伏せた目を、再び戻した彼を見つめた。大きな瞳にわたしの影が映る。ぱちり、とそれが瞬き、彼が白い歯を見せて笑った。
それつられたように、わたしも笑っていた。おかしい。だって、わたしを好きだなんて、おかしい。彼は会って、どれだけの時間がたったと言うのだろう。わたしの何を好きだと言うのだろう。「先生は面白いことを言うんですね」そう返した。
彼は額を押さえる仕草をしながら、
「冗談で言ったんじゃないよ。本気だよ」
ちょっと困惑げに、わたしを見た。
それから、付け足すように言う。
「君は笑った方が、ずっときれいだ」
その言葉に、しんと心が冷えた。笑いも顔の上でこわばり、消えた。
それはいつかガイが言ってくれた言葉に似ている。「僕の可愛いお嬢さん。あなたは笑った方がきれいだ」。彼への断ちがたい恋心を抱えて、途方に暮れていたわたしに、彼がくれた言葉だった。
そんな彼の嬉しい言葉の数々を、わたしは宝物のように胸にしまっているのだ。時に気に入ったそれを取り出して、寂しい自分を慰めている。
不意に先生がわたしの手を握った。両の手で、わたしの手を包むように。その掌は乾いて温かく、すっぽりとわたしの手を包むほどに大きい。
「ごめん、困らせたかな。さっきみたいに、辛いこと、嫌なことを僕に話してほしいんだ。何か解決策があるかもしれない。探そう、これからそれを。ね?」
どうしたのだろう。
彼のその言葉に、また涙がにじむのを感じる。きっとわたしは嬉しいのだろう。そして、切ないのだろう。
温かい言葉をもらうのが久しぶりであること。優しい手の温もりに触れられたこと。不意に拾い上げられたように、それらが嬉しいのだ。
けれど、それをくれるのがガイではないということ。別の男性であることが、わたしの胸を締め付けるのだ。
泣きたくないと思った。泣いたら、この目の前の優しい彼はきっとわたしをまた胸に抱いてくれるだろう。ハンカチ代わりにと、白衣をぬらすことをきっと厭わない。
それが怖かった。
もう一度彼の腕に戻ったのならば、わたしは認めなくてはならなくなるかもしれない。ほんのりと、微かに感じるときめきを。
それを認めることが、怖い。
けれど、一方でわたしは、涙を隠すために伏せた目の先にあるものに、安堵していたのだ。嫌らしい場面の残滓を感じさせない新しいストッキングの脚に、素肌をさらしていない脚に。
それを彼に認められなかったことに、心の中でほっとしているのだ。



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