甘やかな月 エピソード2
13
 
 
 
温かい缶コーヒーの他に、チョコレートの粒も入っている柏木先生の白衣のポケット。
どうぞと、わたしにそれを差し出した。まあるいアーモンドのチョコレートは、口の中で甘く柔らかに溶けた。そんなことで、気持ちがふんわりと凪ぐようにも感じるから不思議だ。
彼はポケットから、次は携帯を取り出した。落としたのか、何かの薬剤に反応したのか、黒いメタルのそれはところどころ傷がある。
ぱたりとそれを開き、連絡先を教えてほしいと言う。
こちらを見ながら、親指の大きな爪が、ぽちぽちとボタンを操作している。
この人は、誰にでもそうなのだろうか。誰にでも優しくて、誰にでもちょっと深入りをする。そんな人なのだろうか。
「ああ、警戒してる? やばい男だって」
そこで彼はまた、鼻の頭をちょっと指で掻いた。まるで薬の説明でもするように、恋人はいないこと、三十一歳という年齢。上に姉が一人の母子家庭で育ったなど、家族構成まで言う。
「何? 出身大学まで必要? あ、もちろん独身で、婚歴なし」
「でも、わたしは……」
「友人に、弁護士がいる。何か打開策があると思うんだ。簡単に聞いただけでも、ちょっと君の境遇はおかしい。考えてみよう、ね?」
彼の瞳は揺らがずに、わたしの目にぴたりと重なった。
何とかなるのだろうか。何か方法があるのだろうか。もう二度と、今夜のような辱めを受けなくて済む、よい解決策があるのだろうか。
わたしの視線は、心の迷いのまま下を彷徨い、左右に揺れた。
最後に彼のきれいな黒い瞳に戻る。そこで、優しい笑顔に会うのだ。
「患者さん、あの社長さんはしばらくは安静が必要だ。君にもきっと時間ができるだろう? だから、二人で考えてみよう。これから…」
そのとき、彼の肩の向こうに、わたしの視界の端にこちらへ向かって来る時任さんの姿が見えた。ジャケットを脱ぎ、それを肩に乗せている。
真っ直ぐにこちらに向かって来る彼の姿に、わたしは表情がこわばるのを感じた。嫌な圧力が胸にかかり、心臓がぎゅっと縮まる、そんな気持ち。
それに押されるように、または払うように、意識をしつつ、わたしは自分の持つ携帯の番号を先生に伝えた。
ささやくような小さな、かすれた声。それを彼は拾い、ちょっとの間の後、何もなかったように胸にしまった。背を向ける彼のそんな仕草を、時任さんは知る由もない。
「由良さん、捜しましたよ。何をしているんです?」
時任さんが険しい声を出したのは、彼が携帯をしまった、一瞬後のことだった。
ほんの目を瞬くほどの、時間。その時間にわたしが得たものは、きっと大きい。
 
 
わたしが自宅に帰ったのは、京都に行った日の次の日になる。その晩は時任さんが手配してくれたホテルに泊まった。
翌日には意識もはっきりとし、体調の落ち着きを見せた社長は、すぐにでも帰ることを主張した。「懇意の医者がいるから、そっちへ移りたい」。それに柏木先生は了解した。病状を詳細に記したものを時任さんに預け、かかりつけの医者に渡してくれといった。
わたしは社長と時任さんの影で、彼の視線を感じ続けていた。そのわたしに流れる視線。わたしはそれを受けずに逸らし、またはうつむくことで避けた。この二人の前で、どうしても彼のはっきりとした黒い瞳を見ることができなかった。
怖かったのだ。その瞳に会えば、わたしの目にも何かきっと、浮かんでしまう。そのあえかな感情を、敏感であろう時任さんに悟られたくなかった。
小さな小さな明日への種のような、その感情。希望や、夢の可能性が詰まったそれを、時任さんは見つけたならばきっと許さない。靴の裏で踏みしだき、粉々にし、それが何であったのかさえ、わからなくしてしまうだろう。
彼はそういう人だ。わたしが彼の意に沿わない行動を取ることなど、きっと許さない。
前の晩に先生と二人でいたことを、わたしはとっさに「気分が悪いので、診てもらっていたの」と誤魔化していた。じろりとそんなわたしを見据えたものの、時任さんはそれ以上の詮索をしなかった。
彼もそれに「貧血用の鉄剤でも出そうか?」などと、調子を合わせてくれた。
退院の間際、病院を後にするとき、二人の最後についたわたしの指に、彼が少し触れた。わたしは振り返り、ほんの僅かに彼の瞳を見た。気づかれないように、そっと。
彼は何も言わずに、その瞳だけを細めて、笑みを浮かべてくれた。それだけで、胸の中が暖かくなるように、彼の感情が伝わるような気がした。
このときから、わたしは彼からの連絡を心待ちにしている。はっきりと彼の瞳を受けたそのときから。
何かが生まれそうな予感を、わたしは知っている。けれど、敢えてそれを深く取り上げなかった。彼が与えてくれるかもしれない可能性に、心を奪われている振りをして。
やはりわたしは、ずるい。
剥ぐように、もしくは何かを纏い、わたしは、嫌な女になりつつあるのだろうか。
きっと多分、何も知らずに純粋でいられた「お嬢さん」は、もうわたしのどこにもいないのかもしれない。ガイが愛してくれたわたしは、いないのかもしれない。
それは、なんて切ないことだろう。なんて苦いことなのだろう。
けれど、わたしはそんな自分を、芯の底からは嫌いになり切れないのだ。
それがきっと、本当のわたし。ガイでさえ知らない、本当のわたし。
咲かない春、そして芽吹かない初夏。
ひたひたと冷たいものが、わたしの中で満ちていく。
じわじわと徐々に。
それは静かで執拗な痛みを伴って、わたしの中で広がるのだ。
気付かない振りでやり過ごすことは、もうできない。
 
柏木先生からの電話は、ほどなくあった。
 
 
京都行きからしばらくは、社長からの呼び出しもなかった。当分は懇意にしているという医師の注意を受け、静養に心がけているという。
ただ時任さんからは、社長からの伝言として、渡されているカードで好きなものを遠慮せずに買ったらいいという、メッセージを受け取った。
「これであの社長には、詫びのつもりなのですよ」
外出予定のほんの一時間ほど前に、時任さんは現われた。時間など定めずに、彼はやはり毎日家にやって来ては、わたしの様子を探り、または社長の用を言いつけるのだ。
彼はわたしが出したアイスティーを飲んで、マーブルチョコをぽりぽりと噛んでいる。「アールグレイか。これには、アイスが合いますね」。そんな似合わない紅茶論に、おかしくなる。
わたしは時間を気にしながらも、彼の前に掛け、それを気取られないように、曖昧に返事するなどして、普段のようにしていた。
彼は温い空気にジャケットを脱いでいた。ネクタイをした半袖のワイシャツからのぞく焼けた腕。それはマーブルチョコを口に運ぶ以外は、とんとんと膝を打っている。
眼鏡の奥の冷たい瞳。それは相変わらず。彼がその目を細めるときには、何かを発するじゅわ、いう音でもしそうなのだ。そこからわたしへの痛烈な嘲りと、皮肉がにじむ気がする。
「社長は、あなたが可愛くてならないようですよ。いつも口にしている。今は医者に止められているから、邸に呼べないのが辛いようです」
わたしはその医師に、感謝したい気持ちだった。できることなら永遠に禁止してほしい。
彼がグラスをテーブルに置いて、ソファの縁に掛けたジャケットのポケットから何かを取り出した。いつか見たデジカメだった。
卒業式の際に、彼はこれで、友人とわたしを撮ってくれた。プリントされたそれを数枚渡されたが、見もしないで引き出しの中にしまい込んだままだ。
きっと写真の中のわたしだけ、友人とは異なり、ひどく憂鬱で暗い表情をしているに違いない。それを確認することが、嫌だった。
わたしだけが異質なものとして、大きな力でぴんと、明るい人生からはじかれた者みたいで、嫌。
断りもせずに、時任さんはそのデジカメで、いきなりわたしを撮った。角度を変え、笑えという。
「社長に見せるのですよ」
「なら、笑える訳がないでしょう」
それにも構わず数枚を撮り、ジャケットにしまう前にぽろりとこんなことを口にした。
また、じゅわ、と音がしそうなまなざしを向ける。
「できたら、スカートの裾でも上げてくれませんか? それを撮りたい。あなたの太腿が、社長は大層好きらしいから」
目の奥のある部分が、彼の言葉に火のついたように熱くなった。ちょっと唇を噛んだ後で、わたしはこう切り返していた。
「あなたの社長に、告げ口をされたいの? わたしがあることを、あの人に頼めば、時任さんは困ったことにならない?」
彼が細めた瞳を大きくした。それには驚きと、やはり嘲笑が見える。口の中にまだ残るのか、チョコを噛みながら、
「色じかけですか?」
「ええ、何とでも。何でもするわ」
「あははは、だったら、敵わない。彼はあなたに夢中ですからね」
冗談だった、とちょっとだけ、彼は詫びた。それにわたしは返事もしなかった。したくなかった。
自分が口にしたことの汚さ。それが喉に粘ついてこびりついている。
時間なのか時計を確認し、彼は立ち上がった。
わたしより随分と高いその背を、彼は屈めることなく、代わりにやや身を反らすようにしてわたしを見た。
「初め、わたしはあなたを、くらげみたいな女だと思った。白くなよやかで、名のとおり、ゆらゆらとしていた。自分もなく子供っぽく。簡単にこちらの言うとおりになる、そんな女だとね。けれど…」
嫌らしく、唇を歪めた。きっとそれは笑みなのだろう。彼は続けた。
やはりくらげだと。
「あれは毒を持っている。刺すのですよ。舐めていると痛い目に遭う」
 
時任さんが帰った後、わたしは洗い物をし、服を着替えた。フレンチスリーブの白いブラウスに、ベージュのプリーツスカート。足には華奢なミュールを履こうと思う。肌寒いといけないから、薄いカーディガンを忘れないで持って行こう。
軽く化粧をして、口紅の色でちょっと迷う。いつものピンクベージュを唇に乗せ、ふと、それにグロスを重ねてみた。鏡の中のわたしはそれで、ほんのりと色づいて見えた。
そろそろ待ち合わせの時間だ。
家を出て施錠し、ゆっくりとした歩調で、目的の場所まで歩く。住宅街の果てにある運動公園は、屋外ステージの施設などもあり、いつも天気のいい日には賑わっている。
公園をぐるりと囲む木々からは、小鳥の声の他、気の早い蝉の声までが聞こえるように思った。
駐車スペースは五分ほどの入りで、その中に、見覚えのあるRV車を認める。距離が近くなり、わたしは運転席に見える影に、手を上げた。
彼もこちらに気付き、車から出る。ジーンズに、チェックのシャツ、履きつぶしそうなコンバース。
白衣を着ない柏木先生。彼とのデートはこれで、三度目になる。
「ねえ、どこに行こうか?」
ごく当たり前のように、彼はわたしの手を握る。笑って、こちらを見るのだ。
まぶしいものでも見るように、わたしへ注ぐそのまなざし。
ほら、こんなにも、柔らかな優しい瞳をくれる人がいる。
「ねえ、どうする?」
ほら、それはすぐそばにある。



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