甘やかな月 エピソード2
14
 
 
 
放った言葉やアクションが、ぽんと即座に返ってくることに、いまだわたしは小さな驚きを持ってしまう。
待ち過ぎて、期待をすることにどこか投げやりになっていたわたしに、その変化はまぶしいくらいに新鮮に思えた。
柏木先生は病院の外で会って二度目に、友人だという弁護士さんの許へ連れて行ってくれた。
「約束しただろう。簡単に概要は伝えてある。法律のことは僕には手に負えないけど、あいつなら何か方法を考えてくれるよ」
わたしはどんな顔をしていたのだろう。どんな表情で、彼を見たのだろう。
「言ったじゃない、君の力になりたいって」
「あの、わたし……、お金もないし……」
「金なんか、もらう気ないよ。大丈夫、ちょっと視野を広げよう。僕に任せて」
ごく簡単に彼は言う。そう言って笑う。黒目がちの大きな瞳で、真っ直ぐにわたしを見ながら。
それが癖なのか、ちょっと鼻の頭を指で掻いた。そうして、瞳を伏せた。「君が好きだから、力になりたいんだよ。それだけ」と、つぶやくように言うのが聞こえた。
わたしはそれに、言葉を返せなかった。
忙しい勤務を縫って、遠くまで来てくれた彼。時に眠いのか、欠伸を噛み殺すようにしているのだ。それでも「大丈夫」、「僕に任せて」と言ってくれる彼。
わたしはこの人に、何を返せるのだろう。
ようやく、「ありがとう」と口に出して言った。それはとても小さな声で、彼に届いたのかどうか。
大きな手が、わたしの冷たくなった指先を包んだ。ぎゅっと握る手の暖かな温もり。
「小さな手だね。冷たい……。いろいろあって、大変だったね。我慢してたんだね。辛かったね、きっと」
彼の言葉に、胸が詰まった。喉の奥から熱いような、苦しいような、涙のもとが生まれそうになる。
「嫌だ、泣いてばかり……」
あふれた涙をハンカチで拭おうと、バックを探った。そのわたしを、彼がいつかのように抱きしめた。ほんのりと肌の柔らかい匂いの移るシャツに、わたしの頬を押し当てた。
ハンカチは持っている。涙を拭うものはあるのだ。
「ねえ知ってる? 僕が今、嬉しくて、どれだけ舞い上がっているか」
彼の言葉と抱きしめる腕の熱に、わたしは確かにときめいた。
そのときめきに、罪悪感がにじむ。
胸が鮮やかな色で、ふうわりと染まることが、どこか怖い。
 
彼が伴った先の弁護士事務所は、あるマンションの中にあった。自宅とオフィスを兼ねているらしい。
びっくりするほど背の高い男性が出迎えてくれた。チノパンにポロシャツの彼は、犀川さんという柏木先生の高校時代からの友人らしい。
リビングがオフィススペースに当てられている。壁にスチールの書棚が並び、ファイルや法律関係の書物がぎっしりと詰まっている。デスク前の簡単な応接セットを示され、そこに先生と並んで掛けた。
コーヒーを振舞ってくれながら、ちくりちくりと先生を皮肉るのがおかしい。
「聞いてないぞ、女の子絡みの件だなんて。単純に知り合いに相談されたって、だけだったよな? 聡」
「聡」と、聡一郎という名前を縮めた愛称が、二人の親密さと、先生の別の面を見せたように思う。
それに先生は「妬むなよ」と返した。
「まあ、後で何か奢ってくれ。……いろいろ遺恨はあるが、それは置いておいて」
笑いを引っ込め、犀川さんがわたしに向き直った。先生から聞いたという内容を、説明していく。
終わったところで、間違いがないかを確認した。
「はい。それで、合っています」
「お父さんが亡くなった際、あなたは十九歳と、未成年だったのですね。それで、一番近い親族の叔母さんが、あなたの後見人となった。おかしな話ではないですね、ここまでは。相続の件もあるから、代理人が必要になってくる」
そこで彼は補足してくれた。未成年者の後見人になるには、家庭裁判所に申請し、受理されることで認められるということ。きっと叔母が、その処理をこっそりと行ったのだろうこと。そしてわたしが二十歳を迎えた今、その後見は終了すること。
「お父さんの会社の財務の方も、ちょっと調べてみました。経営者が移る間際には、大変な債務になっています」
そう言い、彼はある資料の写しをわたしに見せてくれた。細かな数字が並ぶ先に、彼の引いたらしい赤線がある。その上の莫大な数字に、背筋が凍った。そしてやたらと現われる、〈丹羽経済会〉の名前。
「非常に残念ですが、この〈丹羽経済会〉とやらに、食われたのは間違いがありません。立て直そうとなさったのでしょう。所有の土地や山林をほぼ全て手放して、金策に当たられていますね」
「あ……」
犀川さんの言葉に、脳裏をあるシーンが甦る。父が自殺を図るほんの少しだけ前のことだ。憔悴したような、疲れ切ったような、ひどく倦んだ表情をした父。胃が痛いからと、好きだったコーヒーを断って、代わりに止めていた煙草をよく吸うようになったこと。
どんな思いでいたのだろう。心のうちを、わたしに何も、もらすことなどなかった。
そんな疲れた弱った父を、わたしは救うことも、助けることもできなかった。ただまんじりと見守って、おろおろして……。
何か、できなかったのだろうか。何か、わたしに。
それを思うと、悔しさと、自分の不甲斐なさ、父への申し訳なさで、身がすくみそうになる。
いつの間にか、膝に置いた手を、隣りの先生が握ってくれていた。ちょっとわたしの顔をのぞき込む。「大丈夫? 顔色が悪いけど」。そんなことをささやく。
「ええ、大丈夫……」
微かにうなずいた。
わたしはいつだって、そう。
守ってくれる誰かに甘えて、すがって、それを当然のように感じてきた。わたしは弱いから。何もできないから。何も知らないから。怖いから。
きっとそれは方便。逃れるための言い訳。
純粋なお嬢さんの顔をしていれば、楽だから。いつの間にか、誰かが物事を収拾してくれる。可愛らしく、おとなしく振舞っていれば、誰かがきっと守ってくれる。
わたしは頬かむりをしていただけ。嫌なことから、逃げていただけ。
きっとあのいやらしい社長の、思うがままにされそうになったのも、時任さんに蔑まれるのも、わたしという女のそのずるさが、きっと招くのだろう。
「由良さん」と、犀川さんが続けた。
「相続の放棄は、故人の死から三ヶ月間の猶予が認められています。とうにその期限は超えている。けれど、今回のように胡散臭い事情の場合、錯誤があったとして、異議申し立てを行うことができるんです。期限の延長をした方がいいでしょう。負債を放棄した方が、あなたのためになる。どうです? やりますか?」
「そうすれば、父の借金を負わなくていいんですか?」
彼はうなずいた。しかも、と、どうしてかそこで笑みを見せた。ホチキスで綴じた別の書類を、わたしの前で広げた。
「お父さんは遺言を残されなかったようだが、あなたのために、家と土地を残されましたよ。亡くなる数日前に名義の移転を行っている」
ほら、と彼が指した先には、建物の地名と地番が並び、所有者として父の名から、代わってわたしの名前が記されていた。

「あ」
「きれいなものだ。何の抵当権も付いていない。あなたのものだ」
「でも、それは叔母が権利書を持っていて……」
「叔母さんが譲られるいわれのない、あなたのものだ。きっと、お父さんが、あなたを思って残されたんですよ」
「わたし……」
小さなころから親しんだ、父やそして随分前に亡くなった母の面影も残る、あの家。季節に応じて人手を頼み、手入れをしていた庭。
それを父がわたしに残してくれた。
胸の奥が、かちりと火のつくように熱い。それは微かな憎しみの感情だろうか。
渡したくない。あの叔母などに。渡したくない。
「取り返しましょう」
犀川さんの促す声に、わたしはちらりと、先生を見た。少し笑っているような気がする。瞳を瞬かせ、それがうなずきのように見えた。
わたしはそこで犀川さんにうなずいた。深く、何度も、何度も。
 
 
彼はわたしの指先に触れたまま歩く。そうやって、犀川さんが今、わたしの件で動いてくれていることを教えてくれた。
「何かお礼をしないと……。申し訳ないから」
「いいよ。この間僕が焼肉を奢っといたから。人の金だとあいつ、食うわ、食うわ」
彼が笑いながら言う。
夕暮れ時の砂浜。行き先に迷い、結局こんな場所にきた。
生ぬるい風が頬をかすめ、スカートの裾をはためかせた。わたしはそれに気を取られ、彼から遅れそうになる。握った指がぴんと引っ張られた。それに彼は立ち止まって、こちらを振り向いてくれる。
ちらほらと、たそがれ時に、カップルの姿が目に付く。「考えることは、皆一緒だな」。そんなことを言って苦笑していた彼。
ミュールの中に、容赦なく砂が入り込んでくる。わたしは彼の手を外し、しゃがんで裸足になった。日の熱が冷め切らない砂が指をくすぐるようで気持ちがいい。
そのミュールを、わたしの引っ掛けた指から彼が取った。
「あの、わたし先生にも、お礼をしないといけない……」
「じゃあ……」
急に、ミュールを持つ彼の指が、私の肩に置かれた。立ち止まる。日を背にし、視界を遮った。
彼がちょっと屈み、わたしに口づけた。さっき飲んだコーヒーの香りのする唇。きっとわたしも、同じ香りを唇に乗せているのだろう。
重なったそれがややして、離れた。不快ではなかった。胸が、ざわめくほどに騒ぐだけで。
「これで十分。連続の夜勤も、頑張れそう」
そんなことを言う。そして照れたように微かに笑う。
わたしはそれに、はにかんでうつむいた。
まだ咲かない。けれど蕾がふっくらと色づいているのは確か。
そんな彼をわたしは、きっと好きになる。徐々に緩やかに、掌の氷が溶けていくように。
 
ふつっと、何かが、わたしのどこかでちぎれたように思う。
つないだ手、ガイとつないだその手を、わたしはこのとき、自分から離してしまった。



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