甘やかな月 エピソード2
15
 
 
 
きらきらとまぶしい日差しは強く、吹く風は夏に近い熱を帯びている。
少し動くだけでも、汗ばむほどの陽気。初夏のまぶしさが、そここに散らばっている。
水に触れることが心地よく、気紛れにわたしは、大きなたらいを庭に持ち出して、その中でスニーカーを洗う。しゃぼんの清潔な芳香。まるでその泡に戯れるように、水の冷たさを楽しんだ。
タオルやシーツの隣りに、二足のスニーカーがクリップで留められ、水を滴らせてぶら下がる姿は、さっぱりと、目に入って、とても気持ちがいい。
お昼には友人が家にやって来る。
簡単なランチを振舞って、お喋りをすることになっているのだ。
掃除は済ませたし、着替えてから食事の仕度にかかろう。野菜はラタトゥイユにして、サンガリアを作って……。
そんな予定を頭でざっくりと立てるのが楽しい。ついハミングが出るほど。それに気づいて、自分でおかしくなる。
そう、何か、忘れていた自分を取り戻したような、新しく楽になったような、そんな気分。
家の中に入り、日陰の涼しさにほっと息をついたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
条件反射で、この音を聞くと嫌な気分が襲うのだ。毎日これを鳴らすのは、決まってあの時任さんだから。
けれど、この日は既に彼は来た後だった。そして友達には、ちょっと早過ぎる。宅配便だろうか。
リビングのインターホンを見ると、そこには涼しげな大島紬を着た金沢の叔母の姿があった。日傘を畳み、手に持っている。熱いのかハンカチを振り、顔に風を送っている。
『由良ちゃん、お話があるのよ。開けて頂戴』
一旦は引っ込んだ嫌な気持ちが、またぞろ復活する。追い返すこともできず、わたしは玄関の施錠を解いた。
叔母はリビングに落ち着くなり、あれこれとここに来るまでに済ませた用事をぺらぺらと喋った。デパートでお使い用の探し物をしたこと、近くの知り合いに、用で挨拶に寄ったこと。
わたしは着替えるきっかけをなくし、家事用の、色褪せしてよれたTシャツと古いジーンズを膝まで捲くった楽過ぎる格好でいる。仕方なくそのままで、キッチンで叔母にお茶を用意する。
自分にはアイスコーヒーにミルクを入れたものを作り、叔母には冷茶を淹れた。
叔母は出したお茶に口を付け、ふうと息をついた。
美人ではあるのだけれども、それをひどく了解しているのが、よくわかる顔つきをしている。変に顎を引きすぎ、目に力を込め過ぎる。ヴィヴィアン・リーでも意識しているかのよう。
「由良ちゃん。昨日おかしな手紙が来たのよ。叔母さんね、内容証明って初めてよ」
叔母は膝に置いたバックから、畳んで皺だらけにした書類を取り出した。茶封筒には、ゴム印が少しずれた〈犀川法律事務所〉の名が見て取れた。
それを叔母が、パールピンクのマニキュアを施した指で撫ぜている。
柏木先生を通じて、遺産の放棄をお願いした彼の友人である犀川さんが、早速と、叔母の許に必要な通知を出してくれたのだ。
「現金書留も最近珍しいでしょ。だから、こんなかっちりと署名させられるものが届いて、正直叔母さんびっくりしたわ。しかも、中を読むと、由良ちゃんの『代理人某〜』とあるじゃない」
そこで叔母は書類を触る指を止めた。一度目を伏せ、それをゆっくりと上げた。わたしをじろりという風に見つめ、
「何で弁護士が出てくるの? おかしいじゃない。あなた、家を手放すことも、丹羽さんと結婚することも、納得したわよね? 一体どうしちゃったの?」
わたしは叔母が話す間、ずうっとアイスコーヒーを飲んでいた。外で洗い物をしていたから、喉が渇いていた。ようやっと口を利くため、グラスをワゴンに戻した。
「わたし、一度も納得なんてしていません。お父さんが亡くなって、混乱して訳のわからないときに、叔母さんや、時任さんが強く言うから、それに流されてしまっただけです。他の方法や、別の手段なんて、何にも教えてもらえなかったもの」
ウサギのようにびくついて、世間知らずで、大人に従順なだけが、わたしなのだと、きっとこの叔母は思っている。思い込んでいる。
再び叔母の手が書類に伸びた。それを掴み、膝に乗せ、乱暴に畳んでいく。目の色が違う。怒りをにじませたそれは、縁取ったラインにより、更にくっきりと大きく見えた。
やや低い、感情を抑えた声で、
「他の方法って、あんたみたいなお嬢さん育ちが、これまで通りに苦労をしないでいられる、別の方法なんてある訳がないでしょ。考えなさいよ。あんたに何ができるの? 丹羽さんのお陰で、あんた、短大も卒業させていただけて、この家にだって住めるのじゃない」
そうやって、この人たちは、わたしから別の方法、他の道を剥ぎ取っていったのだ。
それは叔母の言うとおり、わたしに何ができると問われれば、そうなのかもしれない。
けれど、父の残してくれたこの家と、わたし名義の相当額の口座の存在があることもわかった。小さな仕事でもいいから、徐々に探して、働く。そうやってささやかに暮らしていく分には、当面、何の心配もない。
叔母の声は反応のないわたしに、大きく甲高く向かってきた。
「あんたがそうやって、いまだにお嬢さんでいられるのは、全部保護して下さっている、丹羽社長のお陰なのよ。それをお世話したのがわたしよ。少しは、目上の恩のある大人を敬う気持ちが持てないの? 嫌な子になったわ、由良ちゃん。反抗ばかりして」
叔母はついっとそっぽを向いたついでに、煙草を取り出して口にくわえた。細いメンソールのそれを吸う彼女の横顔に、わたしはつい言いたくなった。
「わたし、丹羽社長に、京都に連れて行かれて、もう少しでレイプされそうになったわ。それでもあの人は、保護者なの? ねえ叔母さん」
こほんと、彼女は小さく咳き込んだ。その後で、「結婚するのなら、いいじゃない。レイプなんて大袈裟な」。そんなことを言う。
結局、あの行為が成っていた方が、叔母にはきっと都合よかったのだろう。おとなしいわたしは、更にそのために従順になり、御しやすくなる。丹羽社長との結婚に異を唱えるなどないだろうから。
どうして、わたしは、あなたみたいな自分勝手で嫌らしい人の思うがままに動かなければいけないのだろう。
それで、わたしが幸福感を持てると、この人は本当に信じるのだろうか。
あの脂と汗で、にちゃにちゃと音がしそうな身体。社長の髪の、嫌なにおいのする整髪料……。それらに包まれて、辱められる日常が、わたしには最上の幸せだというのだろうか。
叔母は尚も、丹羽社長との縁組が、どれほどわたしにとってありがたいことなのかを、言い募った。
それはきっとわたしではなく、叔母にとってありがたいのだ。彼女にとって一番旨みのある利益を得る、いい道なのだ。
話を打ち切りたくて、わたしは書類の話に戻した。その書類の通り、遺産の放棄のために、猶予期限を延長する異議申し立てを行っていることを告げた。
「由良ちゃ…」
叔母の声を遮り、わたしは続けた。この人に早く帰ってもらいたい。いなくなってほしいのだ。
「それと、叔母さん。この家と土地の権利書を返して。あれはわたしの物だもの。父がわたしに残してくれた、わたし名義のものなの。勝手に持って行くなんて、泥棒みたいよ、叔母さん」
 
 
コットンのワンピース。それがさやさやと動くたび、脚にまとわりつく。それが気持ちいい。
日が沈むまで友達とお茶を飲んでお喋りをした。彼女たちの仕事のこと、または通っている学校のこと、そして恋のこと。尽きない話はとりとめもなく、そして他愛ない。
彼女たちと話している最中に、わたしの携帯に、柏木先生から電話があった。仕事の都合のいいときに、ほぼ毎日、メールや、または声を聞かせてくれる。
『今、大丈夫?』
そんな風に彼は必ず、断りを入れるのだ。わたしはそれに「うん」と答えながらも、集まる視線に頬が熱くなった。
『今度、学会でそっちの方の大学に行くんだ。よかったら、夜にでも会えないかな?』
「うん……」
『今、何してるの?』
「あの、友達がいるの、今」
『ああ、そう。ごめん。またかける。今夜は遅くなるけど、いい?」
それにまたわたしは「うん」と答える。こればかり。もっと気の利いた返事がしたいのに。
電話を切った途端に、矢のように降ってくる質問。それに照れながらも、はにかみながらも、答えるわたしは嬉しかったのだ。
そんなことをつらつらと反芻しながら、キッチンの洗い物をする。粗方終わったところで、手を拭い、庭の洗濯物を取り込む。
ふんわりと乾いたそれらを抱えてリビングに行き、テレビを見ながら畳む。
大きなシーツを畳み終えたところで、玄関のベルが鳴った。
ひやりと胸が冷える。
このベルが誰のものか、わたしにはわかっている。ランドリーバスケットに畳み終えていない下着やタオルなどを隠し、インターホンを取った。
果たして、モノクロの画面に映るのは彼だった。
 
時任さんは一日に二度もこの家の敷居をまたぐのが、面倒でならないといった表情をしていた。ソファに座りもしないで、ブルーのワイシャツの腕を組んで、立ったままだ。
乾いた声で、
「あなたの叔母さんに泣き付かれましたよ。あの子を何とかしてくれとね。わがままで反抗的で、手に負えないと言っていた」
「そんなことないわ。当然のことを言っただけだもの。それに、時任さんと叔母さんって、コンビでしょう? 面倒は最後まで見なきゃ…」
照明の光が当たり、彼の眼鏡のレンズが、きらっと光をはねた。ちっ、という彼の舌打ちの音。それが京都のあの忌まわしい夜を思い起こさせて、ぞっとする。倒れた社長を覗き込みながら、彼は頻りに舌打ちをしていたのだ。それを、思い出す。
「舌打ちをしないで。嫌いなの」
彼はそれに取り合わない。眼鏡の奥の瞳を、ひたっとわたしの瞳に当てる。
「ヒステリーを収めるのに骨を折りましたよ。あなたが送ったという書類を見ました。内容証明とは念が入っている。あれは、本当ですか?」
そこで彼は「あの女、役立たずな」、そう低くつぶやいた。その「女」とはきっと叔母を指すのだろう。わたしを上手く丸め込み続けられなかった彼女を、罵っているのだろう。
ちらりとこのとき、時任さんと叔母の間に、男女の関係があったのではないかと感じた。欲得ずくでも美しい叔母と、彼女を意のままにしたい彼。どうせならそういう関係に進んだ方が、都合がいいのではないか。
どうでもいい想像。けれど、その想像はきっと、遠く外れていないのだろう。
だからこそ、気味が悪い。
「ええ」
「だったら」
そこで、彼がわたしの腕を掴んだ。こちらの感覚など無視した力で、ぐいと引っ張る。痛いほどのそれに、わたしは怯んだ。
「な、何? 止めて」
「あなたが蒔いた種だ。わたしは責任を被りたくない。社長に会って、あなたが説明をして下さい。妙な弁護士を雇って、今頃反抗し出した理由をね」
捻りあげるほどの腕にかけられた力。
痛みにそして、この男の恐ろしさに、瞳の奥から涙が浮かびそうになる。
それを押し込めるのが、わたしの精一杯の虚勢だった。



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