甘やかな月 エピソード2
16
 
 
 
時任さんという、この人のことを、わたしはあまりよく知らない。
細いフレームの眼鏡とスーツ。あんまりに、その取り合わせが板につき過ぎて、似合い過ぎて、そのままの格好で眠っているのじゃないかと思うほどに、それ以外の物を身に着ける彼が、頭に描けない。
始終ポケットから小さなお菓子を出して、口に運ぶ。それらをくしゃくしゃと咀嚼する音。
そして、案外な紅茶好きであること。その気味の悪い落差。
わたしを見るまなざしは、いつだって、そこはかとない嘲笑と、侮蔑が混じるのだ。
ほら、今も。
整った横顔をわたしに見せつけながら、止めてほしいと繰り返す舌打ちを、煽るかのように再現してみせる。
わたしは彼に腕を掴まれた後、そのまま引きずられるように車に乗せられた。丹羽社長の屋敷へ向かうという。
「ちっ」
その苛立ちを示す舌打ちの割りに、交通量の多い区間も、彼はいたって落ち着いた運転を見せた。舌打ちは、わたしへの嫌がらせなのだろう。
きらきらと車のライトが窓に映り、流れていく。わたしは助手席に座り、膝を抱えるようにして、ちらりとそんな光景を眺めた。
「由良さん、社長があなたを屋敷に引き取りたいと言っていました。式にはまだ日があるが、今のうちから、家内に慣れてほしいそうですよ」
そして、隣りのわたしを一瞥する。頬を歪ませて。
「身の回りの世話を、頼みたいそうですよ」
わたしは彼からできるだけ視線を逸らした。この男の視界に入りたくない。
彼はこんなことをわたしに告げて、その反応を楽しんでいるのだ。顔をしかめるわたしを、もしくは唇を噛むわたし、または瞳に涙をひっそりと溜めていくわたしを。
感情を弄ばれたくない。
わたしは彼の言葉に返事をしなかった。
あなたなどに、言う言葉はない。
 
邸に着いたのは、ちょうど丹羽社長の夕飯時だった。お手伝いさんの案内で、わたしたちがそこに入っていくと、がらんと大きな食堂のテーブルに着いて、彼は一人で食事を摂っていた。
そばに置いた夕刊紙に目をやりながら、箸を動かしていた。これまで食事に同席したころのメニューとは、はるかに品数もそのボリュームも減少している。
抱える狭心症のために食餌療法を行っていると、確か以前耳にしていた。仕事も遠出はせずに、十分に休養を取れるように、量も加減しているという。
時任さんは来意をまだ告げていなかったようだ。社長は何だという、怪訝な表情で、彼とわたしを見比べる。
食事を終えると、薄いニットのおなかの辺りをさすりながら、顎を廊下の方へしゃくった。先に立って歩き、書斎を兼ねた常の居間に入った。ここに入るのは、わたしは初めてだ。
十五畳ほどの空間。壁には油絵が数点と、書き込みのあるさまざまな地方の地図が幾枚も貼られている。大きなデスクの他、ぐるりと本棚が並ぶ。他に革張りらしいソファとテーブルが置かれ、ここで仮眠も取るのか、毛布なども用意してある。
「何だ?」
社長はデスクの肘掛け椅子に座った。背を反り、やはりおなかをさする。彼の視線がわたしに向くと、京都の宵を思い出し、背筋を嫌な感覚が這う。
わたしはうつむいたまま、時任さんの後ろに立った。
時任さんはすらすらと、わたしが今犀川さんを通じて申請している遺産放棄猶予期間の延長について、目の前の社長に報告した。
「申し訳ありませんでした。彼女の叔母が絶対に大丈夫と請合うものですから、つい、わたしの監督が甘くなっていたようです」
「ふうん」
社長のそんな反応が聞こえた。伏せた顔のちょうど額辺りに、熱いほどの彼の視線を感じる。
身が震えるほどに、怖い。
時任さんは今後の経過も告げる。家庭裁判所はきっと、わたしの側の異議申し立てを認めるだろうこと。それによってわたしが遺産を正式に放棄すれば、社長とわたしの間の、それがあるゆえに結婚まで強要された、債権者債務者の関係が消滅してしまうこと……。
社長は時任さんの説明を、最後まで言わせなかった。「そんなこと、お前に言われるまでもなく、わかっとる」。ぶつりと遮った。
「何がしたいんだ?」
問いかけは、わたしに向かった。その声には取り立てて、感情がこもっていないように聞こえた。
わたしはようやく顔を上げた。唇をきゅっと引き結んだ社長の顔は、少しだけ目をしかめている。
「あの家は、わたしの物です。父が死の間際に残してくれた、わたしの物です。叔母さんやあなたたちには、決して渡したくない」
そこに時任さんの失笑。まるで馬鹿にした合いの手のような。
もう一度、わたしは繰り返した。「あの家はわたしの物」だと。
「お前は家がほしいのか? それなら、どうしてわしに言わない? ほしかったら、お前の財産としてくれてやるのも、やぶさかじゃあない。どうせ、地価も下がって、ろくな値もつかんだろうし」
わたしは首を振った。自分の中の勇気を振り絞るように、ありったけのそれをかき集めて、首を振った。
柏木先生が与えてくれたチャンス。それを、わたしがいつまでも弱気でいたら、活かせないのだ。
いつまでもこの人は、温和な振りをしていてはくれない。わたしが結婚を拒絶したら、そのときは、どんな表情に変わるのだろう。どんな……。
怖い。
それが歯の根を震わすほどに、恐ろしいのだ。
けれど、誰も代わってくれなどしない。
わたしにしか、本当の気持ちは話せない。
逃げられない、逃げたくない。
「わたし、社長と結婚はしません」
 
告げた後のしばしの間。その時間はひどく長く感じられた。
返ってきたのは、案外に静かな声だった。
「お前には、好きにさせてやっているだろう? 金もやっている」
「カードも、今は持っていないけれど、お返しします。使った分も、買った物も……」
「時任が気に入らんなら、外してもいい」
わたしは首を振り続けた。そして再び口にする。「結婚はできません」。
そのとき、どうしてだか、フラッシュバックしたように、頭の中にある光景が浮かんだ。
それはガイとの結婚式のシーン。静かな落ち着いた雰囲気の中で、わたしはひどく幸せだった。彼の笑顔を手の温もりを。くれたキスの感覚。抱えた花々の混じり合う芳しい香りまで、鮮やかに鼻の奥に甦るのだ。
輝くような過去。そして、遠い遠い、過去。
かけがえのないものを失ったとき、手離したとき、きっと人はどこか変わるのだろう。
それが、二度と手の中に戻らないと悟った日から、緩やかに、何かを脱いで、剥いで、変わっていく。
津波のようにやって来る悲しみと喪失感は、もしかしたら、そうでなければ拭えない、やりきれないものなのかもしれない。
ねえ、ガイ、あなたと離れて、わたしはどんな風に変わったのかしら?
「お前みたいな世間知らずが、どうやって生きていく? わしの許にいれば、可愛がってやる」
社長は叔母のようなことを言う。自分の言うがままに従えば、いいのだと。それがわたしの最上の道なのだと。
わたしはやはり繰り返す。「結婚はしたくない」と。
そのとき初めて、社長の目が大きく開いた。怒りと何かいやらしいものが浮かんだような、そんな双眸を、はしっと、わたしに据えた。
次の瞬間、わたしの頬を大きな力が打った。よろけて、わたしの体は、後ろのソファの背に寄りかかった。いつしか椅子から立ち上がった彼の手が伸び、わたしの頬を打ったのだ。
その痛みはわたしをはっとさせるどころか、逆に驚きで、ぼんやりとさせる。こんな風に人に手を上げられたことが、わたしにはない。
熱を帯びた頬はじんと痛みが響き、わたしはそれを掌で覆った。そのすぐ後に、もう片方の頬が、ばちりと耳から強くぶたれた。
衝撃に、耳が遠くなる。
何か彼は言ってる。けれど、耳を強く打たれてふらつくわたしには、彼が何を言っているのか、よくわからない。
伸びた彼の腕は、わたしのワンピースの胸倉をしっかりと掴んだ。そうしておいて、左右に、交互に頬を掌が打つ。
熱で麻痺した頬は、痛みは少ない。それよりも振られることにめまいを感じ、気分が悪くなる。気が遠くなりそうだった。
「社長、やり過ぎです」
そんな声が、ようやっと耳に届いた。時任さんだろうか。
「ええい」、おまけとばかりに、社長が最後に込めた力は、相当なものだった。そのまま、どんと突き放した。
口の中は既に切れて、錆っぽいそんな血の味がする。
いつの間にかわたしの目から、何の意味か、痛みによる生理反応か、涙がこぼれていた。
ソファの背にもたれながら、わたしは床に崩れた。体を支えていられない。
「許さんからな、勝手は。もうわしのものにすると決めたんだ。変更は効かん」
断固とした、大きな声が上から降ってくる。
床にぺたりと座り、手を付いたまま。惚けたようにわたしはそれを聞いた。
逃れ、られない……。
もう、遅いのだろうか。
そのとき指の先に、何かが触れた。冷たい金属の感覚。
ふと目を下ろすと、それは一瞬、ナイフのように見えた。金の装飾のある、ああ、きっとペーパーナイフだ。社長が身を乗り出して、デスクから弾いたのだろうか。
わたしはそれを掴み、喉に押し当てる。朦朧とした、けれどどこかきんと冷めたわたしの思考は、そのときためらいもなかった。
つんと首のある部分に当たるペーパーナイフの切っ先は、冷たくて、心地がよいほどに感じられる。
「だったら、解放してくれないのなら……」
「ああ? 何を言っている?」
苛立った声。それにわたしは、ナイフを持つ指先に力を込めた。
ちくり。
意外なほどに、それは切れた。ぬるりとしたものが首筋を伝う感覚に、自分でもはっとしたほど。
わたしは笑ったのだろうか。
わたしの行為を見つめる、驚いた四つの瞳に。



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