甘やかな月 エピソード2
17
 
 
 
喉を伝うぬるりとした血液。
それがしだいに、ワンピースの襟元を、徐々ににじませていっているのを、わたしは感じていた。
生成りの柔らかな色調のそれを、わたしは気に入っていた。血液を洗い落とすには、レモン汁がよかったのだろうか。大根の搾ったものの方だったろうか。結局、却ってシミを作るのではないかと不安になり、合成洗剤料を使うのが、常なのだけれども。
そんなことを、現実感もなく考えていた。
怖くなかった。
社長の大きな手のひらが、幾度も幾度も頬をぶったこと。それによる頬のじんじんとした熱は、まだ去らない。
その熱が、ひきずるようにして、新しい感情を胸から見つけてくる。
わたしは、自分の思いをただ口にするだけで、なぜ、こんなにもぶたれなくてはならないのだろうか。
生まれた怒りの感情は、じわりと増え、胸の中に一杯、満ちるほどになる。
どうしてわたしは、こんな自分勝手な大人たちに、おもちゃのように扱われなくてはいけないのだろう。
わたしは「わたし」というもののために、生きている。その未来、歩む先、それらを選ぶのは、わたしなのに。
「おい、時任。ナイフを奪え」
部分部分、かすれた社長の声がした。少し慌てているのが、表情でうかがえる。目が落ち着かなく時任さんと、わたしを行ったり来たり。
時任さんの手がこちらに伸びた。力に任せて、わたしの握るナイフを取ろうとしているのだろうか。
あなたたちはいつだってそう。結局は力、もしくはお金にものを言わせてわたしをねじ伏せる。それしか能がないかのようだ。狡猾なようで、とても、単純。
「近寄らないで。もっと、刺すわ。それでもいい?」
伸びた彼の手がそれで止まった。やり場を失った手は、そのまま空に浮かんだまま。
「由良さん、あなた死ぬ気ですか?」
「死んだら困るでしょう? いくらお金があっても、家の中に喉を突いて死んだ若い女が出たら、さぞ困るでしょう? 誤魔化せないでしょう? 血まみれになって、しかも頬には何度も殴られた痕もある。警察に何て説明する? 時任さん」
ちっと、ここで彼の舌打ちが返ってきた。真の焦り、わたしへの嫌がらせではない、彼の苛立ちを感じた。
わたしがここで命を絶ち、そのまま連絡が取れなくなったら、きっと柏木先生は不審に思う。犀川さんもそうだろう。彼らは警察に間違いなく通報するだろう。この屋敷に至ったわたしの足取りは、容易に知れることになる。
そこで何があったか。わたしの血だらけの、暴行を受けた身体は、雄弁に語るのだ。
自殺であっても、他殺に見える、不思議なおかしな死体。
それとも、わたしの遺体をソファの毛布にでもくるんで運び出す? まさか、どこかの雑木林にでも埋めに行く?
隠し切れるものではない。
どこまで同じ思考を辿ったのか、社長と時任さんが目混ぜしている。わたしが死んだ場合の処置、対策、またはその後のことでも、おなかを互いに探り合っているかのようだ。
「…誰が、死んであげるものですか。誰が、あなたたちの自由になるものですか」
わたしは、わたしのもの。
誰が、それを踏みにじる権利を持つというのだろう。
「このまま、病院にでも行ったら、面倒なことになるでしょうね。頬の折檻の痕、妙な喉の傷。お医者さんはきっと、警察へ届けるでしょうね。暴行を受けたらしい若い女性の姿が…」
わたしは言葉を止めた。時任さんの手が、するりとナイフに伸びそうに見えたから。この人はいつもそうだ。猫みたいに静かに狙い、そして蛇みたいに嫌らしく近づいてくる。
「さあ、どうする? どっちがいい? 男二人で、か弱い女性に暴行を振るったと訴えられたいの?」
「わたしは手を上げていない」と、彼の目が言っているように思えた。その証拠に、舌打ちの後で「わたしは止めましたよ」などと言う。
「これが軟禁状態でなくて、何なの? 時任さんはわたしをこの家に拉致したのよ。忘れないで。腕を掴んで、引きずって、無理に車に乗せたじゃない」
社長が少し優しげな声を出した。
「許してやるから、それをこっちに渡せ」
手のひらを示す。さっきまで、わたしを散々にぶったその手のひらを。
まだ、この人はそんなことを言っている。
「解放して、わたしを。そして、ここから、出して」
「おい、無茶を言うな」
困惑に歪む彼の表情は見ものだった。額に脂汗のようなものが光っている。全体に赤みを帯び、てらてらとした照りがある。
この顔を二度と見たくない。
「わたしを解放すると約束して。そして、ここから出して」
喉の痛みなんて、傷なんて、ちっとも惜しくはなかった。
唇からほとばしったわたしの心の叫び。それを言葉にできたことが、嬉しい。
傷など、痛みなど、惜しくなんてない。
 
 
時任さんにタクシーを呼んでもらい、屋敷からそれに乗って帰宅したのは、もう九時を過ぎていた。
鏡に映したわたしの顔は、頬がひどく赤く腫れている。これは明日には青くなり、紫に変わるのかと思うと、ちょっと嫌になる。どこにも出かけられない。
そして、喉の傷。これは意外にも浅かった。ただ当てずっぽうに、とにかく喉にナイフを当てたけれど、その場所がよかったようだ。大きな血管を傷つけず、しかし少量の出血は強いることができる。偶然にもわたしは、そんな場所をナイフで突いたらしい。
シャワーの後で、そのちくりと痛む箇所を消毒し、ガーゼを当てた。
缶ビールを冷蔵庫から取り出し、冷えた缶で頬の熱を冷やしながら、口に運ぶ。いつもは苦く感じるそのしゅわしゅわした液体が、今夜はほんのり甘く舌の上で弾ける。
リビングの隅に出されたままのランドリーバスケット。その中の洗った衣類。ソファに座ると目に入るそれは、畳むのがどこか億劫で、手が出ない。
明日にしよう。
ややこしいことは、明日に回そう。冷蔵庫のお昼に残ったラタトゥイユの真空パックも、スコーン生地を伸ばすのも。
 
苦り切った様子の社長が目に浮かぶ。彼は言葉を発せず、顎をドアの方へしゃくっただけだった。後は背を窓へ向け、何も言わなかった。その背に溜まっていく怒りを見たけれども、気にも留めなかった。
舌打ちと、唇の端を噛む変わった表情を見せたのは時任さん。彼はその仕草の後ではお喋りだった。
わたしの反攻が意外だったこと。そして、なかなかによくできた台本だったという。
ポケットからティッシュペーパーを取り出し、渡してくれた。喉に当てろということらしかった。
門のそばでいまだ現れないタクシーを待つわたしの隣りで、彼はやっと嗤いをにじませた、いつもの声を取り戻した。
「あなたにしてはよくできている。いや、でき過ぎだ。知恵をつけた男がいるのでしょう? あの京都の医者かな? ビンゴでしょ?」
柏木先生の存在を知られていることに、はっとした。わたしの向けた視線は厳しいものだったようで、それをにやにやと「怖い顔をしなさんな」と彼が受けた。
わたしが社長や叔母に、俄かに反抗し出したのは、あの京都行きがあってからのことだという。
「あなたの異性関係などは、事前に調査している。それらしい男はいないし、あなたの若い女の友達が授けた知恵のようでもない。弁護士を即座に用意したりと、周到だ。
それなりに頭の回る、そしてそんなつてのある男。そんな男をあなたはどこで調達してきたのか? ああ、あの病院の若い医者がいた。ちょっと男前の、彼。あなたに気があるようだったな。ビンゴでしょ?」
いやらしいしたり顔で、そんなことを口にした。ちょうどやって来たタクシーに手を上げ、わたしはそのまま乗り込んだ。
わたしが彼の推理に返した言葉は、これだけだ。
「さようなら」
 
缶ビールを二本も開け、すっかり酔った気分でいるわたしを、電話の音が呼ぶ。柏木先生だった。
『大丈夫? 今。もう寝てなかった?』
少し騒がしい音がする。外だろうか。どこか、お店の中のようなそんな喧騒が伝わる。
「うん、起きてた」
『今、同期で飲んでるんだ。結婚する奴がいてね、その前祝い。うるさくてごめんね』
「……ううん」
『何してたの?』
「何も、ぼんやりしてたの。ちょっと、いろいろあったから」
微かな、笑ったような彼の吐息が、まるで耳に触れるようだ。『いろいろって?』と訊く。
「内緒。大したことではないの」
『気になるな。何?』
その問いに、わたしは酔いも手伝って混ぜっ返し、うやむやにしてしまう。今夜のことを、彼に話すつもりはない。
胸にしまって、鍵をかけるのだ。そう、ガイの思い出のように。隣りにその箱を並べる。
『会いたいな。週末、学会でそっちに行くけど、会えるよね?』
念を押すような言い方が、ちょっとおかしい。
彼は、これをどこでかけているのだろう。人に聞かれないのだろうか。そんなことが心配になって、訊ねた。
『ああ、離れたところでかけてるんだ。……ねえ、それより、会える?』
急くような問いかけが嬉しい。耳をくすぐるようにそれは響き、胸に届き、わたしをふんわりと包むように広がる。
「うん」
どうせなら、今夜会いたい。腫れてみっともない顔は恥ずかしいけれど、首の傷の説明も面倒だけれど。
今夜会いたい。
そんな叶わない願いに焦れるのか、悲しいのか。涙が今頃になって頬をぬらした。ぶたれても、すごまれても、生理反応以外の涙はこぼれなかったのに。
おかしい。
泣くなんて、おかしい。
『由良ちゃんに、会いたい』
「わたしも……、先生に会いたい」
そして、彼に抱いてほしいと思った。
涙はきっと、満たされないわたしのどこか上げた、悲鳴なのだろうか。
 
眠るほんの少し前に気づき、わたしは胸元が血で染まったワンピースを、洗剤を薄めたたらいの溶液に浸した。ちゃぽんと落ち、沈んでいくそれを、わたしはしばらく眺めた。
明日には、シミはきっと薄くなっているのだろう。何もなかったような顔をして、洗い上がったそれを、わたしはどこかにまた着て出かけるのだ。
きっと、そう。



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