甘やかな月 エピソード2
18
 
 
 
夏に向かう日々の夕暮れは好き。
淡く街が、柔らかなベールに包まれたように見えるから。
風も、その温さも。そして解放感を抱えて歩く人々の気配も、夏に向かうというだけで、どこか他の季節とは違って見える。
大きな、またはささやかな期待やドラマが、これから待っているように。どこか特別な雰囲気を纏う。
だから、好き。
 
待ち合わせしたのは、柏木先生が出席する学会の会場となる、国立大学のキャンパス。わたしはその中央の、噴水のある広場に落ち着いていた。この場所から、会場となる棟はほど近いのだ。
携帯のメールをチェックしたり、返したり。しゃわしゃわと風が鳴らす、木々の葉の音を聞いたりする。
腕をなぶる風は、夕刻になるほどに甘い。
胸元の開いた白いニットの、前で結んだリボンが少し曲がっている。それを直し、新しいプリーツスカートの丈が、思いのほか短いことに、ちょっと気を揉むのは、家を出てからずっとだった。
ややすると、行き交う学生に混じり、スーツ姿の人々が、建物からどんどんとこぼれてくるのが見えた。銘々に、早々ジャケットを脱ぎ、または互いに挨拶を交わしている人々。
その中に彼を見つけた。
グレーのジャケットを脱いで、肩に乗せた柏木先生は、わたしを探すのか、ゆっくり首を振りながら噴水に歩いてくる。
手を上げるわたしに気付いた彼が、早足でこちらに向かって来る。真っ直ぐに。
「お待たせ」
そう言って笑う彼が、ラフな普段とは違いスーツを着ているのが珍しくて、わたしにはちょっと照れくさいのだ。それでも、ストライプのシャツの胸ポケットに挿した数本のペンと、片手がすぐにもネクタイを緩める仕草に、何となく変わらない彼を感じて、すぐに落ち着いた気分になった。
まぶしそうにわたしを見る彼の瞳。逸らさないその強さも瞬きも、これまでと同じ。
 
 
彼はやはり、食事に入った店で、わたしの喉の傷にすぐ気づいた。
顔の腫れは引き、喉の傷も目立たないように塞がった。しかし皮膚の引きつったような痕は残り、それがあまり目立たない場所であることに、わたしは安堵していたのだけれども。
「どうしたの? それ。ちょっと、見せて」
わたしの顎に手を触れる彼は、珍しい虫でも見つけたような顔をしていると思う。そんな少年ぽい仕草を見せるときが、彼にはある。
「転んだの、階段で。手すりの角が当たったの」
わたしは予め考えておいた言葉とは、微妙に違うものを言ってしまった。手すりではなく、持っていた本の角のはずだった。
案の定彼は、それに訝しげな視線を向ける。「何か、あったの?」と。
わたしはそれに、ううんと曖昧に答えた。うつむいて、手のグラスを弄び、しばらくしてそれを口に運んだ。
「何でもないの、本当に。何かあったのなら、ここにいないわ。そうでしょう?」
彼はそれ以上、追及はしなかった。食事の雰囲気を壊したくなかったのかもしれないし、顎の手を外し、軽くその指を自分の指に絡めたわたしの仕草に、気を取られたのかもしれない。
彼の気をふと、こちらに向けさせるような。
いつしか、わたしはこんな仕草を身につけているのだ。いつ覚えたのか。誰が、わたしに教えたのだろう。
食事の後で、彼が泊まるというホテルまで歩いた。駅前のそのホテルまでは、三十分もあるだろうか。
犀川さんから、叔母が権利書と実印の返還を行ったことを聞いたこと。そして、わたしの異議申し立てが受理され、遺産の放棄の準備に入ること。それらを柏木先生は、わたしの手を握りながら教えてくれた。
ときにわたしが、それを少し前後に振った。
「ありがとう。本当に先生のお陰ね。わたし一人だったら、今もきっと、ずるずると……。ねえ、先生、本当に何か、お礼をさせて」
「じゃあ、今度何か僕に作って。君の手料理が食べたい。それでいいよ」
そして、ついでのように彼は、一人暮らしの侘しさを、ちょっぴりぼやいた。食事が大抵外食であることや、洗濯や掃除が大嫌いなこと。
「あの部屋の汚さは、壮絶かもしれない」
「え」
「ごくたまに、おふくろが見かねて、掃除に来てくれることがあるんだけどね。そんなときには、床が見える喜びを味わえるよ。へえ、ここフローリングだったんだ、て」
「嘘ばっかり」
「今度来る? そのときには、少しは片付けておくから」
わたしはそれに、どうしよう、と笑った。
「由良ちゃんは、きれい好きそうだね。毎日きちんと掃除して、洗濯して。僕が食べたこともないようなものを作ったりするんだろう。そうそう、家の中に花を飾ったりとか…」
「ううん、花は飾らないわ。ずうっと、飾っていないの」
「どうして?」
「さあ、ごたごたしたから。そんな気分になれなかったのかも。見るのが、あの時任さんじゃ、張りがないし」
「ああ、あの彼ねえ」
先生は、何を思うのか、時任さんの印象などを話した。抜け目のないような、狡猾なような……。
わたしはそれに、上の空で相づちを打ちながら、頭では別のことを考えていた。
花を活けなくなってから、どれくらいたつのか。ガラス瓶や飾らない花瓶に花を活けるのは、わたしの家事の楽しみの一つだった。
それをしなくなってから、きっと多分、もう三ヶ月ほどになるのだろう。
時任さんが理由などではない。わたしの心の変化が、その本当の理由。
瑞々しい切花が、徐々に日を経て、どんなに毎日水切りをしても、萎れて、枯れていく。その様を見るのがどうしても辛かったのだ。
まるで自分のようで。ガイを失っていくわたしを見るようで。
だから、今は花は活けない。まだ、辛いのだ。
きっとわたしは、色んなものを手離して、ここに立っている。
気付いたときには、ホテルまでほどない場所に着いていた。
彼の手がついっと、自分の方へわたしを引いた。「一緒に泊まってほしい」と言う。
「嫌かな?」
ささやく声が、耳に熱い。
わたしはうつむいて、足のミュールに目をやった。それから、視線をゆっくりと上げ、彼の濃いグリーンのネクタイへ、そして喉へ。そして瞳を見上げた。
それはいつもの真摯な強さと、緩く伏しがちになる瞼のそこに、ほんのりとした彼の恥じらいが感じられた。
「僕と、一緒にいて」
このまなざしをくれる他に、何がいるのだろう。
「うん……」
抱きしめてほしいのは、きっとわたしの方。
 
フロントで彼が、シングルの部屋を、空いている別の少し大きな部屋に変更してもらった。それを少し離れて待つ間、堪らない恥ずかしさで、うつむいてばかりいた。
何かのシンポジウムや会議の案内が幾つも示され、その果てなのか、ホテルは賑わってざわめき、ロビーは人が多かった。
「取れたよ。行こう」
カードキーを顎に当て、彼がわたしの手を取った。
エレベーターを上がり、着いたフロアの一番奥の部屋。そこしか空いていなかったという。
中はバスルームが左手にあり、クローゼットと続き、ミニバーがあり、そして鏡のあるデスクにソファと椅子にテーブル。壁にはベッドヘッドを背に、大き目のベッドが据えられていた。
柔らかい照明。その中で、わたしの頬はどんな風に見えるのだろう。自分でも、触れた頬がひどく熱いのを感じる。指先がじゅん、となるように。
ちょっと、頬に手を置いたままでいると、背中を、抱きしめられた。
強く腕が、わたしを包んだ。「会いたかった。毎日、君のことばっかり考えてる」。
くるりとわたしを振り向かせ、もう一度、胸に押し抱くように腕を回す。
「好きだよ」
唇が重なったのは、その言葉の後だろうか。もしくは、少し離れたときに彼がそう言ったのだろうか。
少し強い唇の感触に、たじろぐ。背にあるわたしの指が、やや抵抗するかに、彼のシャツを引っ掻くのだ。
腰にまわる彼の手、それが少し下がり、また上がる。
求められているのを、容赦なく感じる。いやらしく、どこか冷めて、わたしはそれを認めるのだ。
わたしはどうしてほしいのだろう。自分でもよくわからない。けれど、確かなことは、胸のざわつくときめき。そしてこのまま、放っておいてほしくないということ。
確かに昂ぶっている気持ちと身体を、放っておいてほしくなくて。
だから、好きだとささやく彼の言葉を、目をつむり、わたしは受けている。
いつ、ベッドに倒れたのだろう。重なる彼の、それでも体重をかけないように気をつけてくれる重さ。脚に触れる冷たいベッドカバーの感触。
「……お願い、シャワーを、浴びたい」
「このままの君がいい。このままほしいんだ」
こんなに近くに、彼の視線を感じたことがない。長い睫毛、大きな黒目がちの瞳。それはわたしに据えられて、わたしを求めている。
 
肌を滑る彼の指と唇の感覚。
恥じらうわたしに「可愛い」と、何度もささやく優しい声。そして薄暗い照明を絞った部屋の中、ゆっくりと身体を開くわたし。
あるときまでは、心は凪いでいた。ときめきと、それを凌駕する恥ずかしさの他、気持ちは変に穏やかだった。
「あ」
わたしの声はどんなものだったのだろう。痛みを訴えるそれに、似ていたのだろうか。苦痛を耐えるように、彼には聞こえたのだろうか。
わたしの奥を探る彼の指が、動きを止めた。「痛むの?」と訊く。
「少し……」
その返事なのだろうか。

「あ」

指が外れ、その場所に、代わりに唇と舌が触れた。その行為に、堪らない恥ずかしさと、ここに及んでの堪え難いためらいとで、涙がにじんだ。
わたしは、一体、どうしてほしいのだろう。
「力を抜いて」
ささやいた彼の声に返したのは、涙声だった。「嫌」。わたしの声はそう言った。
「お願い、止めて。……嫌なの」
脚を覆う力が緩んだ。
 
こんなはずじゃなかった。
止まらない涙。止まらない嗚咽。しゃくり上げるように、それは続く。
彼に愛して、抱いてもらって、一つになりたかったのではないのか。埋まらないわたしの空白であり喪失を、埋めてほしかったのではないのか。
この人に、彼にならと、捧げたかったのではないのか。
どうして、いけないのだろう。何がいけないのだろう。
触れ合いに、その肌の熱に、匂いに、どうしようもない違和感を抱えて、途方に暮れているのだ。
それが結ばれることを、気持ちを、どうしても、乗り越えさせない。
涙を流し続けるわたしを、彼が素肌の胸に抱いてくれる。「ごめんね、初めてだったんだね。ごめんね」と、そう繰り返す彼。
「優しくできなくて、ごめんね」
いけないのは、わたし。ひどいのはわたし。
「ごめんなさい。先生が好きなの。本当に、好きなの……」
「その言葉だけで十分。僕は待つから。ゆっくりでいいから、徐々に、僕を受け入れてくれればいいよ」
うなずいて、わたしは彼の胸に唇を置いた。少し汗ばんだそこに、唇を這わす。
早く、この彼を受け入れたいと思う。
早く、彼にわたしを知ってもらいたい。
「好き」
気持ちを言葉に乗せながら、どこかで怖いのだ。あの違和感、拒絶感を、きちんとわたしは追いやってしまえるのだろうか。
そんな不安に呑まれるように、しかし、あえかな反抗で、わたしは彼の胸に唇を這わすのだ。

他に、何があるというのか。



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