甘やかな月 エピソード2
19
 
 
 
薄い眠りと、ぎこちのない寄り添いで目覚めた朝。
寝足りないのに、再び夢の中には戻れそうもない、そんな覚醒。
すぐ隣りには、わたしの髪に手を触れたままの柏木先生が眠っている。
規則正しく続く呼吸の音。
優しさとか、暖かさとか、安心とか。彼のそばにいると、そういったものを確かに感じることができる。
だから、わたしは彼のそばにいるのだ。
彼のくれる、そういったものがわたしはほしい。好きなのはきっと彼ではなく、彼がわたしに注いでくれるもの。
きっとそう。
それが、わたしをいつか、ひたひたとした幸せで満たしてくれることを期待して。
だから、わたしは、彼のそばにいる。
嫌らしいわたし。
ずるいわたし。
ふと、小さく、痙攣のようにまぶたがひくつき、彼がうっすらと瞼を上げた。ぼんやりとした様子でわたしを見つめ、今に至る出来事を思い起こすのか、ゆっくりと微笑んでいく。
「起きたの?」
「うん、あの、……先にお風呂使っていい?」
「いいよ。でも、まだ、早いんじゃない?」
「でも、ちょっと寒いから」
わたしは彼に向こうを向いてほしいと頼み、ベッドの下に落ちたスリップを拾う。それを頭から被った。
ベッドから出ようとしたとき、腕を掴む力に振り向かされた。「ひどい。あっちを向いていてって、言ったのに」
「ごめん、つい誘惑に負けた……」
そんなことを言う。そう言って笑う。抱きしめる腕と、温もり。触れるようなキスが、幾度か。
「駄目、シャワーを浴びるから」
「少しだけ、触れさせて」
あっさりとスリップの中に入る手が、乳房に触れた。緩くふわりとした手の感触。続きそうな、流れそうなそれを、わたしは言葉と手で制した。
「……先生、止めて」
わたしがベッドから出ると、再びばたりと横になった彼が、瞳を閉じた。「もうちょっと、寝かせて」
「うん」
彼を置いて、そのまま、バスルームに入った。
シャワーカーテンを引き、浴槽の縁に腰掛けた。熱いお湯が適温になるまで、湯気が立ち込めるまで。
頭からシャワーを受けながら、ぬれた顔を涙が更にぬらすことに気付いた。手でこすり、追いやるように払う涙は、後から後から続く。
何が悲しいのだろう。
止まらない涙は、喉の奥から込み上げる嗚咽を呼んできた。
嫌だ、わたし。
シャワーの音に隠れるように、ささやかな小さな嗚咽をもらす。
違うのだ。
頭ではわかっている。心では、柏木先生を選びたい。多分彼はわたしを、柔らかく、愛情で包んでくれる。その優しさがほしい。
けれど、違うのだ。
体が覚えている。ガイの仕草を、愛撫を、彼の吐息まで感じられるほどに、それらはわたしの中に刻まれている。その違和感が、昂ぶった気持ちを容易に萎えさせて、体を閉ざしてしまう。
「違うの……」
視線を足先に落としたそこに、うっすらと赤い水の流れが見えた。
「あ」
それはわたしの経血だった。脚の付け根からするりと流れるそれが、水と混じり、小さな渦を作り、排水溝へ流れていく。
バックに用意があったろうか。予定外の早過ぎる訪れに、胸がどきりとなる。
それは理性と嫌らしい打算で抑えたあるものが、わたしの中で予定調和を乱したように見えた。
それが噴き出して、こぼれていく。
辺りの水を桃色に染め、にじませて、流れていく。
 
 
柏木先生との外泊から数日後、連絡もなく、ふらりとこれまでのように時任さんが家にやって来た。
警戒はしたものの、社長から渡されていたカードや車の返還などがあり、家に上げた。ダブリエのポケットには、こっそりと痴漢撃退用器具を忍ばせた。何かあれば、臆せずに使うつもりだった。
当たり前のように上がり込み、当たり前のように彼はリビングのソファに落ち着いた。
わたしが渡したカードや車のキーを確認し、胸のポケットに収めた。カードで買った洋服や靴、アクセサリー類のことを訊ねた。
「ああ、あれはあなたがもらっておけばいいでしょう。あんな物返されたって、社長には業腹だ。ここ数ヶ月のバイト代だと思って、取っておいたらいい。そう、あの医者とのデートにでも着ていけばどうです? 特に、鞍馬行きのときに着ていたワンピースは思い出深いでしょう? あなたにも、あの彼にとっても」
相変わらずの口の悪さ。皮肉も同じ。
それをわたしはやり過ごした。口答えする気も起きない。どうでもよかった。彼とはもう縁がないのだから。
そう思うと肩の力も抜け、彼にちょっと待ってと言い、キッチンでお茶を入れて戻ってきた。彼の好きなアイスティー。茶葉はアールグレイ。
リビングに戻ると、彼はまたいつもどおり、キャンディーをがりがりと噛んでいた。
わたしが出したお茶に、「どうも」とあっさりと口を付けた。
「それ、除菌洗剤が数滴入っているのよ」
「嘘だ。あなたはそういったことはしない。せいぜいが、ポケットに痴漢撃退ブザーでも入れておくくらいでしょう」
「そうね、嘘よ。でも、時任さん、ブザーのこと、どうしてわかったの?」
それに彼はわたしが始終、ポケットの上に手を置き、指で撫ぜていたという。
「ふうん、時任さん、刑事さんの方が向いているのじゃない?」
「どうせ、悪徳汚職刑事とでもいいたいんでしょう?」
「ええ、その通り」
そこで彼は、わたしが受けた暴行の件を、どうして実際訴えなかったのか訊ねた。「あなたの切った啖呵のように、あの状況では言い逃れができなかった。実際社長もびくついていましたよ」
眼鏡の彼は、他人事のように澄ました表情でそう言った。
自分だって同じ穴のムジナであることを、彼はときに簡単に排除してみせるのだ。ときにわたしの側に立つような素振りを見せ、ときにやはりそれを翻す。小気味がいいほどの、彼のずるさ。
それはわたしが嫌いな彼の、ある部分。好きな部分などないけれど。
わたしのずるさはある意味、もっと湿って、嫌らしい。こんな自虐的な思考が常に頭をよぎる。
柏木先生に、肌を許してから。彼と重なった日から。最後まで結ばれなくても、わたしの中で、ちぎれたもの、失ったもの。
それは大き過ぎて……。
払うように、軽く頭を振った。
「訴えてほしかったの?」
「まさか。あなたがどう出るか、正直半々でした。ブレーンもいるようでしたしね」
「ブレーン」には触れずに、わたしは答えた。自分にも、流された嫌らしい面があったこと。もっと早く気持ちを言うべきだったこと。それが少し負い目として、わたしの中にもあるのだということ。
「だから、いいの。関わらないでいてくれるのなら、もう、いいわ」
「……どうでしょうね。社長はいまだ未練ありげな様子ですよ。せっかく見つけた、可愛い桃の実のようなあなたをね」
どうしてこの人の言うことは、いつもざわざわと嫌な響きを伴うのだろう。敢えて、それを狙っているように。
わたしはそれに取り合わず、急き立てるように彼を帰した。
半嗤いを残して消えた彼のいた場所に、通った箇所に、ふわふわと埃が立っているように思える。
おかしなほどの潔癖感で、わたしはその思しき幾つかを、エタノールで拭いて回った。
彼らと関わった数ヶ月、じゅわじゅわとわたしの中に侵食していった影を、さっぱりと拭き去るように。
 
 
進まない気持ち、芽生えない恋。
けれど、慣れた安心感、優しさなどは確かに胸に育ちつつあるのだ。
毎日の電話なりメールでのやり取り。それはわたしを、ふっと必要な人間であると教えてくれるような。誰かに純粋な気持ちで求められていると、感じさせてくれる。
そんな気持ちに飢えていたわたし。貪るように、彼のその気持ちを飲み干すように、舐め尽しているわたしの淫らなさまを思い描いてしまう。
そのイメージは大袈裟ではあっても、きっと似た何か、根源といえるものが、きっとわたしのどこかにある。
これまでどこに、しまっていたのだろう。そんないやらしいわたしを。
隠して、取り繕って、澄ましたお嬢さんの振りで、わたしはガイのそばにいたのだろうか。
けれど、
けれど、ガイを知らなければ、あなたに抱かれていなければ、きっとこんなわたしを知らずに済んだ。
だから、ガイのせい。きっとあなたのせい。
わたしを抱いてくれない、あなたのせい。
 
初めて京都の彼の部屋に来た。
「床が見えないほどの壮絶な散らかりよう」ではなかった。2DKのごく普通のマンション。思いの他片付いている。先週有給を使って片付けてくれたのだとか。
小さなベランダからは遠くの緑の杜と、神社の影が見えた。ねっとりとするようで、どこか華やいだ匂いの感じる夏の京都の空気。
男の人の一人暮らしらしく、がらんとして、必要以外の家具は、ほとんどない。ベッドやデスク、そして簡単な食事用の低いテーブル。
隅に本や書類がどんどん積まれ、どこにでもハンガーの服が掛かっている。
何か夕食は作ると言うと、嬉しそうに顔を綻ばせた。「実は期待してた」なんて言う。
「何がいい?」
「あれ、ハンバーグ。絶対あれがいい」
「じゃあ、作るね」
小型の冷蔵庫には材料がある訳もなく、缶ビールが転がっているだけ。それで、二人で近くのマーケットに買い物に出かけた。
もちろんこの日は、前に見たスーツの彼ではなく、なじんだようなジーンズに、シャツ。スニーカーの踵がちょっぴり潰れかけている。
そんな彼と、手をつなぎ、ほど温い夕刻の風を受けて歩く。
見知らぬ京都の街角が、彼の手を通じてひどく身近に感じる。角のクリーニング店、通りの薬局、花屋、お弁当を売る店。
そんな彼の生活の匂いのしそうな道を、手をつないで歩く。
「玉葱と、ブロッコリーと……、挽肉と、ケチャップ」
そんなことをつぶやいて、彼を見上げると、ふいっと瞳が合うのだ。わたしを見ていたことに気付いて、はにかんでうつむく。
「結婚したら、こんな風なのかな」
「え」
「いい、いい。聞き流して」
 
わたしの心は確かに凪いでいる。
安逸と穏やかさに満ちて。
それが、焦がれるほどの恋ではなくても、眩むほどの思いでなくても。
静かで、波立たないそんな気持ちの平安をくれる。
それで、いいのではないか。
それ以上、今のわたしが望むものなどないように思えた。
「先生、ハンバーグには、目玉焼きが乗っているのが好き?」
「うん、好き」



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