甘やかな月 エピソード2
20
 
 
 
さやさやと水が流れるように、緩やかに、彼の心に沿えるといい。
優しいまなざしを受けて、または微笑み合って。特別なことはなくとも、一緒にいる時間は穏やかで。
常にわたしに手を差し出してくれる。そして、つないで、離さないその手がほしい。
それが、ゆっくりとわたしを元のわたしへ、ガイを知らなかったころのわたしに、戻してくれたらいい。
何も知らないころのわたしなら、柏木先生をすんなりと受け入れられるような気がする。好きになれるような気がする。
だから、わたしをガイを知る前に戻してほしい。忘れられなかったあなたを、わたしは、今忘れたいのだ。
先生の抱擁や、またはキスで。
苦しみを、痛みを、もう終わりにしたい。
わたしは、勝手なのだろうか。わがままなのだろうか。
ずるいのは承知、いやらしいのも知っている。
けれどもう、目覚めて、改めて一人のシーツに気付く、しんと体の奥が冷えていくような、あの恐ろしさと落胆は、嫌。もう嫌。
 
照り焼きハンバーグと、ブロッコリーの胡麻和えにポテトサラダ。それに玉葱とベーコンのスープ。なぜかご飯は、リクエストでごぼうと油揚げの入った炊き込みご飯。
そんな簡単なメニューを、彼はひどく喜んでくれた。おいしいと反応があること、それがじんわりと胸にしみるほど嬉しい。
一人の食事作り、それを何とかルーティンワークにしないようにあれこれと気をつけて、楽しむ工夫はしていたけれど、食欲もなく、さぼりたくなることも多かった。だから、こうして、誰かにぽんと「おいしい」と言ってもらうことは、やはり比べようもないほどに嬉しい。
そんなことで泣きたくなるほど、わたしはこんな日常の、誰もがさりげなくもらうリアクションに飢えていたのだ。
食事の後で、テレビを眺めた。彼が何となく、わたしの脚に頭を乗せた。
「重かったら、言って」
「ううん、大丈夫」
彼のさらりとした髪に、ときに触れ、何か取り留めのない言葉を交わす。明日連れて行ってくれる植物園のことや、わたしに行きたい所はないかを訊ねたり。
いつしか彼がちょっと眠っていて、わたしも何だかつられて欠伸をもらしたり。
そうやってゆるゆる夜の時間を過ごし、自然に抱き寄せられて、唇を重ねる。
どこかきしきしいうベッドの中で、少しずつ脱いで、肌に触れて。
寝室のカーテン、それを通して宵の明かりがもれ入ってくる。その案外な明るさ。目が慣れるに従い、緩く視界が像を結ぶ。
彼の身体のライン、腕の動き、または瞳の位置。
いつしかわたしは、堅く目を閉じていた。それは何かを堪えるのに似て、そんなことで自分が情けなくなる。
違う、耐えているのじゃない。彼と触れて、重なって、あげたいのだ、わたしを。
彼がくれる、愛情や優しさや、そういったものの代わりに、わたしを。
けれど、わたしはやはり目をつむる。堅く、堅く。
シーツと肌の匂い、またはさらりとした髪から流れるそれらは、まるでむせ返るほどにわたしを包む。
「あ」
指の動きに、ついともれた声。かつて、恥じらって、はにかんで、そのせいで耐えられないほどに思えた声。それがわたしの唇から、もれた。
別の誰かの腕の中で、その声はあっけなく、そしてひどく軽薄に耳に届いた。それが恥ずかしかった。自分のいやらしさを、まざまざと突きつけられたようで、堪らない。
二度と聞きたくない。わたしは強く唇を噛んだ。
「由良ちゃん……」
ふと彼が、顔を上げた。ささやくように言う。「あの……、生理なの?」
「え」
そんな兆候があるという。
おかしい。それは先週終えたばかり。おかしい。
彼のシャツを借りて羽織り、バスルームで確かめた。それは紛れもない毎月のしるしで、わたしはすっかりうろたえた。乱れたことなどほとんどない月のめぐりが、ここに至って、狂うのだ。
わたしはどうしたのだろう。
癖で、バックに用意してある物で処置をし、寝室に戻ると、彼が身を起こしていた。
「どうだった?」
その問いにわたしはうなずいて答えた。恥ずかしくてならない。いくら、彼が医師だといっても、堪らない。
腕が引かれ、シャツのままわたしは彼に抱きすくめられた。
「僕は構わないんだけど……」
「お願い、嫌」
「そう……。しょうがないね」
そのとき、彼がちょっともらしたため息。呆れたような、詰まらなさそうな。それがつきんと胸をえぐるように響いていく。
わたしはいつも彼を落胆させる。それが辛い。
「ごめんなさい、先生」
「ううん、いいよ。ねえ、……もし、嫌じゃなかったら……、手でしてほしい」
彼はほんのりと瞳を伏せて、わたしにささやいた。それにわたしは何と答えたのか。
多分、小さくうなずいたのだろう。それを断る気はなかった。ちょっとでも彼の気に適うのなら、歓んでもらえるのなら、構わない。
再び触れた唇の熱と、シャツの上をまさぐる指。
それらに、わたしはやはり堅く瞳を閉じる。
どこかで、彼を受け入れられない自分を情けなく思う部分と、その反面、逃れられたことにひっそりと安堵する自分がいるのを、わたしは頭の冷えた場所で捉えているのだ。
わたしという女は、やはりどうしようもなく、ずるい。
 
 
まどろみの途中、ぴぴぴというおかしな電子音が響いた。それにわたしは目を覚ました。朝方なのか、うっすらとした光がカーテンから入っている。
彼もずるずると腕を伸ばし、そばに置いた携帯を取った。ちらりと発信先を確認するのがわかる。
「はい、柏木です。もしもし……」
どうやら勤務先の病院からのようだ。彼の使う、事務的な言葉の調子で知れる。簡単なやり取りの後で、彼が携帯をぱたりと閉じた。
いまだ身を起こさずに、しきりに目をこすっている。ひどく眠そう。わたしと目が合うと、「起こした? ごめんね」、そう言って、ゆっくりと起き上がった。
急に救急センターの医師に欠員が出て、どうしても出勤しなくてはならないという。
「ごめんね、ちょっとだけ穴埋めに行ってくる。昼までには帰れると思うから。由良ちゃんは、寝てて」
わたしはなぜか頭の芯からぼんやりとしていて、彼が着替えたり、仕度をして出かけて行くのを、ベッドに起き上がり、緩慢な仕草で見送っただけだ。
ばたんと微かな玄関ドアの音をさせ、彼が行ってしまった。
一人のベッドの中はひどく冷えて、背筋を悪寒が走る。申し訳ないけれども、パジャマの代わりにと、やはり彼の夕べのシャツを借り、それを着たままで再び横になった。
気分が悪いような、ぼうっと頭が霞むような。熱でも、あるのだろうか。
とろとろとした思考がいつしか緩み、わたしは眠りにまた、落ちていった。
夢を見た。
ガイの夢。別れてから、心にどれほど宿しても、焦がれても容易に姿を現してはくれない彼が、こんな眠りの狭間に現れるのだ。
夢の中で彼は、わたしを呼び慣れたあの「お嬢さん」という呼び名で呼んだ。ジャケットの胸で留めた、懐中時計のチェーンをくるりと指に巻き、わたしを見ている。
「おやおや、どうしたのです? 泣いているのですか? 僕のそばにいらっしゃい。あなたは笑った方が、ずっときれいだ」
そんなことを言った。いつかのように、瞳に笑みをにじませて、わたしを見ている。掌を上に向け、わたしをやや招く。
わたしは夢の彼に、何を言ったのだろう。きっと詰まらない、レディ・アンと比較した引け目や、いじいじとした独りよがりな感情を口にしたのだろう。
彼はおかしそうに肩を揺らせて笑うのだ。そうして「誰が何を言おうと、あなたがレディ・ユラだ。威張っていらっしゃい」などと言う。
またもやわたしが、何かを言った。それに彼は口元を緩ませたが、発した言葉が聞き取れなかった。霞んで薄くなり、彼の影が淡く、溶けて……、消えた。
もう、………見えない。
「嫌。嫌、一人にしないで。ガイ、わたしを置いて行かないで……」
自分の大きな声にはっとなり、目覚めた。首筋、額にぐっしょりと汗をかいてしまっている。
そして、頬には滂沱と流れた涙の跡。瞳には、まだ尽きない涙が溢れてくる。絶えなく、それは続くかに思えた。
なぜだか、夢にもなかなか現れてくれないガイ。それが、この日ようやく現れてくれた。そしてわたしに、以前と少しも変わらない瞳と言葉をくれたのだ。
夢でさえも、そんなことが、わたしを有頂天にさせる。彼の気配を感じた夢を見られただけで、嬉しさで、胸が高鳴るのだ。ひどくときめいて、頭はずきずきと痛むのに、満たされたように幸せを感じるのだ。
夢でさえ、こんなにも会いたかった。
「お願い、もう一度。夢でもいいから、あなたに会いたい」
夢の中の彼の笑顔を瞼の裏に浮かべるだけで、容易に彼の腕の中にいられた日々の幸福が、わたしの中に甦る。
しばらくそんな、豊かな気分がわたしを包んだ。
 
次に目が覚めたのは、日が高くなってからだった。涙は頬に、張り付いたように乾いていた。それをこすりながら、身を起こす。
ひどく体が重い。
それでもベッドを抜け出して、そばの目覚まし時計を見ると、午前十時に近い。
体を引きずるようにして、バスルームに向かう。シャワーを借りて、新しい服に着替えて、髪や化粧など、身づくろいを済ませる。やはり頭が重い。
漫然と柏木先生を待つのが退屈で、シーツやタオルなどの洗濯を始めた。洗濯機を回す間に、窓を開け空気の入れ替えをする。むっとするような夏の空気が入り込んでくる。
通りの人声、車の音。どこかの家の料理の甘い匂い。それらにじゃわじゃわとした蝉の声が混じる。
クーラーの効いた部屋にいて、体が冷えたのか、とても寒い。だから、その外気の温さは心地よかった。
あまり彼の物に触らないように、部屋を片付ける。そうやって洗い上がった洗濯物をベランダに干しに行く。
ぶかぶかとする古いスニーカーが出されており、それに足を引っ掛けて、少し弛んだ物干しロープに干していく。
そこで、チャイムが鳴った。
洗濯物をそのままに、わたしは玄関に向かった。彼に違いないと思ったのだ。何のためらいもなくドアを開けた。
ドアの向こうに立っていたのは、若い女性だった。ショートカットの、頬のふっくらとした可愛らしい顔立ちの女性。けれど、わたしよりはきっと年上だろう。二十代半ばに見えた。
わたしの登場に、彼女は面食らったような表情をした。きっとわたしも、似たような顔をしているのだろうけれども。
「聡ちゃん、留守ですか?」
彼女はそう言った。その彼を呼ぶ呼び名で、親しい仲なのだと察する。わたしは先生は仕事で出かけていて、昼ごろには帰るはずだと言った。
彼女はわたしを、嫌らしくない程度に眺める。女性らしい、当たり前のような視線に、わたしは別に不快にも思わない。同じような視線をきっと、わたしも向けたはずだ。
「通りかかって、この部屋の窓が開いていたから、いるのかと思って寄ったのよ。ごめんなさいね、あなた、聡ちゃんの今の彼女さんね。わたし、以前聡ちゃんとつき合っていたことがあるの」
今はもう完全に友達で、互いに時間の合うときに食事をしたりする仲だという。
彼女は戸惑った風に逡巡し、その後で、手のケーキの箱をわたしに渡した。二人で食べて、と言う。
「わたしのこと、誤解しないでね。怒られちゃうわ、聡ちゃんに」
彼女が帰った後、わたしはそのケーキの箱を、低いテーブルに乗せた。しばらくしてそれを冷蔵庫に入れた。部屋の温度に悪くなるといけない。
沙織さんと名乗った彼女。きっと彼女はまだ、彼のことが好きなのだろう。
人は隠したいこと、悟られたくないことのために、却って饒舌になるもの。彼女の瞳の動揺と、ほんの少し蒼ざめた頬。逆に滑らか過ぎた言葉。
それらにとにかく、わたしにはないものをはっきりと彼女の中に感じてしまった。彼を思う気持ちとか情熱とか、不安に思う、そんな揺れる心を。
わたしには、ないもの。
それらを埋めるために、辻褄を合わせるために取ったわたしの行動。手料理を振る舞い、部屋を片付けたり、彼と重なり合った。
けれど、結局ふん切れず、中途半端な未消化な、その場しのぎのようなことで誤魔化しているのだ。
彼の優しさに付け込んだだけ。
吐き気を催すほどの嫌悪感、自分へのそれは、今ごろになって、真っ直ぐに胸に突き刺さった。
わたしのやっていることは、嫌らしくずるいだけではなく、彼への裏切りに近い。
彼と肌を合わせ、重なり合ったあのベッドで、わたしはガイの夢に焦がれて、涙して、陶然となっていた。
そして、比べようもないほどの彼への思いの強さに、目がくらんでいたのだ。断ち切れないそれに、やや恍惚となるほどに。
わたしはひどい。
 
しばしの後で、わたしは柏木先生にメモを残した。気分が悪く、今日は一人で帰ることを詫びて、それから少し今後のことを冷静に考えたいと書いた。
どう繕っても、どう表現を捻っても、所詮勝手で、上滑りな言葉の羅列になる。
けれど、確かな気持ちは、これ以上嘘を重ねたくないこと。あなたを裏切りたくないこと。
そして、決して忘れられないガイへの気持ち。
ぽつんと置いたそれを残し、部屋を出た。鍵をしめた後で、ドアのポストにそれを忍ばせた。
かたんという音。それが聞こえた。



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