甘やかな月 エピソード2
3
 
 
 
こちり、こちりという時を刻む時計の針。
またはウィンザーの広大な邸、その中庭にしんしんと降り積もっていく雪。夕べ見たときより朝にはふんわりと嵩が増えていること。
手にした刺繍枠の中の薔薇模様が、蕾のようなものから今にも咲きほころびそうな花に変わるとき。
こちりこちり、こちり……。
それら時の流れを確実に知らせるものを目にするたび、わたしの胸はひやりとした。
次の満月までの時間。その僅かな残された時間を思い、きりきりと胸の奥が痛んだ。ずんと気持ちが滅入っていく。
ガイの「元の世界へ帰ってほしい」という言葉にうなずいたわたし。
彼の見せる懐中時計の不思議。あれが呼ぶ、奇妙だけれど居心地のよかったあの列車。それが走るのは満月の夜のみだという。
わたしが身をもって知る、奇跡のような、または魔法のような不思議。
「次の満月に、きっとあなたを迎えに行く」
ガイが誓って口にした言葉。それをたのみに、よすがにして、わたしは帰る。
刻限の満月の夜まで、幾日あるのか。幾日もないのか。
それを思うたび、言葉を失うほど、わたしは自分を育んだ世界に怯えていた。
ガイが言うから。あの優しい彼が、譲らないほどにわたしにそれを迫るから決めたのだ。
あちらでわたしを待つもの、迎えるもの全てが怖い。
ガイのいない世界が怖いのだ。
 
ある宵の中、嫌な夢を見て目が覚めた。
眠りにある間はひどく差し迫って感じた夢なのに、目を開けた途端瞬時にその内容が薄れた。何に不快を感じていたのかさえ、おぼろになる。
脚を動かすと、きゅっとシーツの素材が鳴った。ぱちっと、小さくなりつつある暖炉の火がはぜるのが聞こえたた。
火のほのかな明かりと、カーテン越しの柔らかな月光。
わたしは夢で泣いていたのか、瞳に涙を溜めていた。それを指で拭う。
急に甘えたい気分になって、隣りで眠る彼に身を寄せた。腕を抱いて頬に当てる。
「……どうしたの?」
どこかぼんやりしたガイの声。
わたしは起こしてしまったことを詫びた。
彼の肌に触れる紛れもない現実。それを確かめたくて、感じていたくて。
彼の指がわたしの髪に絡んだ。そして、くるむように抱いてくれる。その中でうっとりと、わたしは彼のそばにいられる今を感じていたいのだ。
不意に彼が、何か耳元にささやいた。それはちょっとくぐもって、わたしには聞き取れなかった。
だから、彼の急な口づけに、わたしはどきりとした。
首に感じる彼の歯と舌。まるで吸血鬼のように、わたしの首筋にほんのりとあてがう。ガイの癖。それだけで、緩やかに、わたしが溶けていく。
小さくもれる声。それを堪えようと、またもらしてしまう声。それに、恥ずかしさで唇を噛む。
「嫌」
そんなわたしの様子を、彼はうっすらと笑う。「ねえ、どうしてあなたはそんなに、愛らしいはにかみ屋なのだろう」と。
ガイのせい。
きっとそれは、あなたのせい。
あっさりと、わたしのあえかな抵抗をかわす、あなたのせい。
 
 
幾度かの使いのやり取りが合って、王子さまを見舞う日が決まった。
彼はこちらに到着後、すぐに熱を出し、体調が優れなかったという。それも落ち着き、今回の訪問が決まった。
冬には暖かく日が差す午後、暖かくコートを着て、わたしたちは馬車に乗った。
雪の林道を馬車が軽快に走る。途中、林の陰に小さな生き物が見て取れた。ウサギだろうか、またはキツネかも。たまに顔を出すそれらに、わたしはつい夢中になった。
ガイはあくびをもらしながら、王子と共に彼の姉に当たるジュリア王女が、ウィンザーの離宮を訪れていると教えてくれた。
「ジュリア王女……?」
初めて聞く名に少したじろぐ。王子さまとはいえ、ガイの従兄弟である病弱な少年を見舞うだけの軽いつもりでいた。ほんの十五歳という、気管支の繊細な少年を。
「ええ。王子の六つお年上の、美しい王女です。ごく気さくで楽しい方だから、きっとお嬢さんと仲よくなれるでしょう」
「そう……」
どんな女性だろう。王子さまの姉ならば、同じくガイのいとこになるのだろう。彼は簡単に「ごく気さくで楽しい方」と言ったが、それを聞いて思い出すのは、レディ・アンだ。彼女だって一見、ごく気さくで楽しい人だったではないか。あれ以上ないくらいに。
わたしは軽く頭を振った。馬鹿げている、ここでレディ・アンを思い出すなど。
「王女さまに、わたし気に入っていただけるかしら」
ガイの妻として、及第点をもらえるのだろうか。きっと、上辺素晴らしいレディ・アンと比較されるだろうことが怖かった。
手袋の下の指先が、やはり冷たい。緊張したり不安になったときの、わたしの癖のようなもの。
ガイがわたしの手袋の指を握る。
彼はわたしの不安なとき、何かを察するのか、自然に手を取ってくれる。肩を抱いてくれる。それはどんなに、わたしを和ませるか。
「誰が何を言おうと、あなたがアシュレイ伯爵夫人なのですよ。威張っていらっしゃい、レディ・ユラ」
彼の口にする『レディ・ユラ』という響きは、いまだ新鮮で耳慣れない。それがわたしを指す名称なのだと、瞬時に思い至りはする。けれど、くすぐったいようなどこか恥ずかしいような。
ガイがもう一度そう呼ぶ声に、耳が熱くなる。
 
ぐるりとグレイの城壁が囲む厳しいような外観が現われた。
「着きましたよ。ウィンザー城です」
わたしは離宮というイメージ、そこに王子さまがいるというイメージから、単純にディズニーのシンデレラ城のようなものを想像していた。しかし、そこは石造りの堅牢な大きな館だった。馬車の窓から瞳を凝らすと、シンボルのように、塔が見える。
辺りを覆う雪の白と相まって、どこか寒々しいような印象を受けた。
紺色の制服の人物が立つ、高くそびえるような鉄の門。中央には鷲なのだろうか、紋章が見える。
ポーチに並ぶ人々。彼らはやはり紺のそろいの外套を着込み、長い銃を捧げ持っている。馬車が横付けされると、その銃の持ち方をかちりと変える。
わたしたちは馬車を降り、開け放たれた大きな扉から中に入る。
臙脂のカーペットが厚く引き詰められたホールがすぐある。壁は濃いグリーンの色に、ちらちらと金の模様が走っている。光が差さないホールには、既に照明が灯され、きらきらと輝くシャンデリアは、大きな光の粒の集まりのように感じられる。
必要以上の装飾も華美さもないのに、とても重厚で特別に高貴な雰囲気がするのはどうしてだろう。それらに包まれるだけで、ややたじろぐような、気圧されるような。そんな場違いな気分になる。
「ようこそおいで下さいました。アシュレイ伯爵さま、レディ・アシュレイ、ようこそお越し下さいました」
慇懃に腰を折る男性は輝くような銀髪の持ち主で、その穏やかな挙措が、マキシミリアンの邸の執事であるハリスを思い起こさせる。
どこの邸にも、こういう人物はいるのだろう。邸内のことを何もかも知り尽くしたような落ち着いた人物が。
「やあ、アンブローズ、久しぶりだね。王子のお加減はどう?」
ガイはコートを脱ぎながら彼に尋ねる。ごく親しげに。メイドが現われ、わたしもガイに倣う。彼女の案内で化粧室に行き、髪を整え手を洗った。
再びホールに戻ると、ガイが煙草に火をつけたところだった。わたしを手招きする。傍らに引き寄せ、空いた右手をするりとこちらの腰に回す。
そんな親密な仕草に、知らない場所での緊張がうっすらと和らぐ。
「さあ、アンブローズ。案内を頼むよ。王子がお待ちかねだろう」
「まあ、ひどい。お待ちかねなのは、エドだけなの?」
明るい声の持ち主は、いきなり現われた。緑の衣装の裾を軽やかに揺らし、奥の回廊から駆けてきた。
シャンデリアの照明に輝くブロンド。血色のいい頬は、ほんのりとしたピンク色をしている。ぬれたような瞳のブルーは、海のように濃い。どちらかといえばふっくらとした女性だ。彼女がジュリア王女なのは、瞬時にわかった。
整った顔立ちは、印象的な大きな瞳とよく動く唇のせいで、若く、ひどく愛らしく見える。
「ガイ、お久しぶり。長らくの嘘くさい傷心は、すっかり癒えたようね。何よりだわ」
彼はそれに大きく笑った。「姫には敵わない」と。
王女が当てこすっているのは、ガイとレディ・アンの離婚劇の件のように聞こえる。彼女の言いようでは、どうやら、レディ・アンの人となりを承知しているようなのだ。
彼女はガイの紹介を待たずに、わたしに「ご機嫌よう。レディ・ユラ」と話しかけた。
逸らさない瞳は、しっかりとわたしに据えられ、
「エドワードの姉のジュリアよ、よろしく。可愛らしい方。仲よくしましょう」
そう微笑んだ。それにわたしはのまれたようになる。何と言葉を返したのか……。
「ほら姫、あなたの突飛ななさりように、僕の奥さまはびっくりしているよ」
彼は声に笑いをにじませ、「ジュリア姫は、ああいった直截的なお方なのですよ」とささやいた。
王女はガイの言葉に頓着せず、アンブローズの背を押して、王子の寝室への案内を急かした。
ガイとわたしはその後に付いて、照明の灯る回廊を進む。
彼女は時折振り返り、慣れたようにガイの腕を取った。
「あなたが新しく奥さまを迎えたって聞いて、驚いたわ。ねえ、秘密主義のガイ、教えて。あなた、以前、言っていたわよね。結婚はもうしないって。何があなたの固い決心をとろかしたの? 教えなさいな」
そんなことを大きな声で訊くのだ。
ガイはその問いに、咳き込むほどに笑った。わたしも、くすりと笑いがもれるのを止められない。確かに「直截的」な人のようだ。
このような朗らかで気持ちのいい人を姉に持つ、エドワード王子とはどんな人物だろう。やはり同じく、濃い瞳のブルーを瞬かせる、明るい爽やかな印象の持ち主なのだろうか。



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