甘やかな月 エピソード2
21
 
 
 
京都駅の新幹線のホーム。昼下がりの平日は、この観光地の駅も人でごった返すほどではない。
列車の到着、発車を知らせるアナウンスが続き、はっきりとした目的を持った人々が行き交う。ビジネスであるとか、旅行であるとか。
そのどこか白っぽい駅の構内で、わたし一人が何の当てもなく、ぽつねんとしているのだ。
陽炎のように、視界が揺らめいて、じりじりとした暑さを持って迫る。
切符をコットンのワンピースのポケットに入れ、到着時刻まで、空いたベンチで休んだ。そばには、誰かが置き忘れた新聞紙があった。
彼の部屋からは、地理も疎く、わたしはすぐにタクシーに乗ってここへ来た。
ひどく暑い。それなのに、背中の悪寒がずうっと止まない。
バスケットからハンカチを出して鼻の頭に当てた。すぐ、こめかみを汗が伝う。とても暑い。
途中買ったミネラルウォーターのボトルを、目に当てる。もう、すっかり冷たさは消えていたけれど、ないよりいいから。暑い。
「由良ちゃん」
声に顔を上げる。そこへ、思いがけない人が、こちらに向かって駆けて来るのが見えた。半袖のシャツが風にふわりと裾が膨らむのが見えた。
柏木先生はわたしの前まで来ると、屈んで膝に手を付いた。大きく息をしている。ここまでずっと、走ってきたのだろうか。
汗が額から、頬に流れている。彼はそれを邪魔そうに、手の甲で払った。何となく、条件反射のように、わたしは手のハンカチを彼に渡した。拭う物を、彼はきっと持たないだろうから。
彼はそれを握るばかりで使わない。大きな瞳をしっかりとわたしに据え、やや尖った声を出した。
わたしが携帯の電源を切っていたこと。それから、きっと直近の新幹線に乗るだろうことを考えて、ここにやって来たこと。
「何があったの? いきなり出て行くなんて」
「ごめんなさい。あの、メモに書いた通りなの。ごめんなさい……」
彼の瞳を避けて、わたしはそんなことを言った。指でボトルのロゴの辺りを、しきりにいじっている。
彼はわたしの手をボトルごと包んだ。「おかしいじゃない。いきなり…、そんな」
そう、ぼやくように言うのだ。もう一度何があったのかを問う。わたしはそれに、同じようなことを返す。「ごめんなさい」と。
彼は声の調子を少し殺し、
「夕べのこと、……もしかして由良ちゃん、すごく嫌だった? あんなときに、無理に求め過ぎた?」
「ううん」
彼はここに来るまでに、わたしが部屋から消えた理由を、散々と探したのだろう。辿った思考の、一番もっともらしいそれらしい理由がきっと、それだったのだろうか。
彼にはわたしの行動が、あまりに突飛過ぎて、不思議過ぎるのだ。
いきなりわたしは、自分の思いのまま、勝手に彼の許を去った。その過程をつまびらかにはできないし、しても、意味がない。
沙織さんという彼の元の彼女の存在があり、ガイの夢があり、そして、追い詰められたようなわたしのぎりぎりの気持ちなど……。
誰のせいか、というならば、わたしのせい。それだけでしかない。
だから、違うと言う。
ううん、とわたしは首を振って、きちんと訂正した。そうじゃない、と。
「おかしいよ。いきなり、不意にいなくなって。手紙だけぽつんとあって。ベランダには洗濯物が干してあるし……。意味がわからない。気分が悪いのなら、どうして僕に言わないの? 診てあげるよ」
彼はそう言って、わたしの頬に触れた。わたしはそれに、少しこれまでとは違う違和感を持ち、やや身を引いた。

先生は、そんなわたしの小さな拒絶に、少し目を細めた。
理知的な彼の瞳。その瞳の奥にあるものが、わたしの取ってつけたような間に合わせの言い訳を許さないのだ。
「ごめんなさい。先生には色々してもらって、たくさんお世話になったのに。本当に、勝手で、ごめんなさい……」
「いいよ、そんなの。君が僕を、ある意味利用していてもいい。そんなの、構わないよ。それが、まさか重荷になったの?」
それも、どこかわたしの中にはきっとある。だから、なるべく彼の意に沿うように、喜んでほしくて……。
どうしたのだろう、やはり暑い。なのに、ぞくりとした悪寒が、腕にまで這う。腕を抱きながら口にするのは、やはり逃げの「ごめんなさい」ばかりだ。
全てをわたしは、「ごめんなさい」の一言で済まそうとしている。
彼が新聞紙を払いのけ、隣りのシートに掛けた。そこから、わたしの表情をのぞき込む。
「ねえ、何があったの? でないと、僕は納得できない。嫌だ、君を失うなんて。本当に、嫌だよ」
「先生……」
突然、彼がわたしを抱きしめた。ねつ気があり、ぼうっとする胡乱な頭にも、羞恥がぱっと浮かぶ。彼だって、知り合いが、もしかしたらこの光景を見るかもしれないのに。

「止めて」
身をよじるほどに、避けるほどに、彼の腕の力は強くなる。

「別れたくない」
首筋の汗が、開いたワンピースの胸に流れ、それがブラの谷間をするりと流れる。
暑い。
どうしてこんなに暑いのだろう、おかしなほどに。風もない。それなのに、わたしの肌も指先も、熱を失い、きんとしんと冷めて凍えていく。
不意に唇が重なった。強く舌が押し込まれてくる。強引で無理やりなキス。それに彼の怒りや戸惑い、焦りなどがにじみ出て溢れている。
「…お願い、止めて。許して…」
それは絡む唇の熱と湿り気で、言葉になったろうか。

「「許して」…?」

気に障ったのだろうか、唇が離れた後で、彼がわたしの言葉尻をぼんやりと繰り返した。
ちょっと水を飲みたいと、腕を解いてもらう。温い水が喉を伝う。それが唇からもれ、首に伝い、先ほどの汗と同じように、ブラの谷間をつるりと流れるのだ。
「君と結婚してもいいと思ってた。二人で暮らしたいと思ってた。後何年か勤務医としてやって、地元に帰って、開業医になるのもいいな、なんて夢みたいに思ってた。君はそれをどう思うかわからないけど、…僕はそんなことを考えてた」
わたしは何も言えない。
不用意にわたしが彼と過ごした時間。その中でわたしが得たもの、彼が得たもの。その色合いの大きな差、違い。
わたしのせいだ。わたしが彼にそれを刻んでしまった。
ガイのように、ガイがわたしに残した残酷なものを、知らず、わたしも柏木先生に。
気紛れで曖昧な好意で、それを彼の胸に沁み込ませて、出来心で寄り添って、肌に触れて……。
好きなときに離れていこうとしている。
わたしはひどい。
わたしの乗る新幹線の到着が、アナウンスに流れた。人々が乗車の準備に並び出す。
「あなたじゃ、駄目なの」
ようやっとわたしの喉から出た意志の言葉だ。

「あなたではないの」
先生の見開いた瞳。瞬きを忘れた瞳。
わたしはそれを見ないように、すぐ目を逸らした。彼がその言葉に虚を突かれてできた僅かな隙に、バスケットを持ち駆け出した。発車ぎりぎりに、車内に乗り込んだ。そうして、ステップのところでしゃがみ込んだ。
ホームに残る彼を見たくなかった。
窓が映す彼の表情を見たくなかった。
わたしは、柔らかい真綿のような彼の心を、都合よく踏みにじった。
これ以上彼を裏切りたくないというのは、既に詭弁。もう少し強く、彼が熱い言葉をくれたのなら、わたしはまたその安逸に逃げ込みそうだったのだ。
だから、目を閉じて、見ない振りをして、それから逃げた。
それだけのことに過ぎない。
 
 
自宅に帰ってすぐに、わたしは熱を出してしまった。
京都にいる間悪寒が始終這っていたのは、風邪の兆候だったようだ。おかしなことに、ふっと訪れた月のものは、あれきりで消えた。
だるい体をベッドに横たえているのに飽きて、わたしはリビングにぼんやりとしていた。耳を塞ぎたい音、忘れたい光景……。それら、すべてからの逃避のようで、それはたわんだわたしの心に心地いいのだ。
夏風邪というのは質が悪い。微熱を残すそれはずるずると長引き、わたしの中の気力や、元気をどんどん奪っていく。
口にするものといえばこのところの食欲のなさで、冷たい飲み物か、もしくは買い置きの缶のフルーツばかり。
急く予定があるわけでもない。待つ人がいるわけでもない。
風邪というものを大義名分にして、わたしはひっそりと暮らしていた。
漫然と家事をこなして日を送り、ぼんやりと冷たいアイスティーを飲みながら、退屈さに、テレビを眺める。ときに、何度か電話が鳴った。その音がきゅうっとわたしの心をしめる。
柏木先生からの電話に、わたしは出ない。やり過ごし、いつかそれが果ててくれるのを、息を殺すようにして待つのだ。それは十日かもしれないし、ひと月後かもしれない。明日、いきなり途切れるのかもしれない……。
食事代わりの、甘い白桃にホイップしたクリームを添えたものを食べて、生温い室内の温度に眠くなった。
ソファに持たれながら、いつしかうとうととしていた。最近はいつもそう。こんな小さなまどろみを幾つも過ごし、眠気が堪らなくなって、ブランケットを軽くかぶり、わたしはそのまま、窓辺に寝転んで寝入ってしまうのだ。
晴れた夜空の月の光を、カーテン越しに感じながら眠るのは、とても好きだった。
ひどく暑い。
朦朧とするまどろみの途中、そう感じた。クーラーが苦手だけども、この暑さは堪らない。少し冷たい空気を浴びたい。暑い。
「え」
目開けた途端、飛び込んできたのは鉛色の嫌なにおいのする煙。それが部屋の中に満ち出していた。リビングのフランス窓のカーテンを、大きくなりつつなる炎がちろちろと舐めている。
カーテンに移った火は、面白いほどに早くすんなりと燃え広がる。
ここに至っても、わたしはどこかぼんやりしていた。煙が足元まで近寄り、それを吸い込んだ肺が、激しく咳き込むことで、やっと今頃、頬を張られたように目が覚めた。
喉が痛い。
じりじりと迫る炎に押され、わたしはキッチンに逃げた。そこには消火器があるはず。庭がのぞける窓、その窓からいきなりがしゃんと何か飛び込んできた。
「きゃあ」
足元近くに飛んできたそれは、アルコールか燃料を染ませたようなぼろ布の塊。その証拠に鼻につく嫌な臭いがする。それは瞬時に床のマットに炎を移し、広がる。
誰かが、火種を投げ込んだ。
そんなことは、わたしにも明白だった。

居場所がない。
どんどん家を燃やしていく炎。逃げ場を求め、咳き込みながら玄関に向かう。裸足のままたたきに降りたが、玄関のドアが開かない。
何度かノブをかしゃかしゃするが、ノブは回るのに、木の扉は開かず、何か表から力で押されているかのようにびくともしない。
誰かが、表にいる。
わたしが中にいることを知って、火種を投げ込み、そして出口を塞いでいるのだ。
どうしよう。
そのまま引き返し、わたしは二階に上がった。どんどんと煙が這い上がってきている。ベランダから外へ、飛び降りようか。けれど、わたしにそれができるのだろうか。ご近所の誰かが、うちの火事に気付いて、通報をしてくれていないだろうか。
結局は、自室に逃げ込んだ。まだ空気の汚れ切っていない部屋のベランダに出て、飛び降りられるかを考えなくてはいけない。できるのだろうか、わたしに。
震えが膝からわたしの恐怖を煽るのだ。
手を触れたサッシが熱い。熱がもう、ここまで伝わっている。どうしよう。カーテンごと、わたしは急いで窓を引き開けた。
ベランダから下を見ると、レンガ敷きの庭の小道が見える。そこではなく左の芝生の部分に降りられればいいのだけれども……。
わたしに、できるのだろうか。
ふと思い立って、引き出しからガイのくれた結婚指輪を取り出した。何を燃やすことになっても、あれだけは失いたくない。あれは、わたしだけに意味のある、ある象徴だ。それを左手の薬指にはめた。
急がなくては。ベランダの柵に身を乗り出したときに、声を聞いた。「ユラ」と。
「え」
わたしの目の前に、するするとおかしなものが現れた。上ってくる煙の中、何もかも視界をぼやつかせるのに、それだけは鮮明に、くっきりと見えた。
それは瞬時に、わたしの瞳に焼きついた。見覚えのある、不思議な縄梯子が。
「ユラ、いらっしゃい」
梯子に片足をちょんと掛け、空いた片手でわたしに手を伸べるのは、ブルーの衣装のスカートと、そこからのぞく清潔な白いペチコートを、煙と熱風にはためかせるジュリア王女の姿だった。
「ユラ、早く」
彼女は急かすように、声を出し、更にわたしへ手を伸ばした。
ガイではない。
けれど、わたしは選ぶ余地もなく、彼女の手を取った。身体がふわりと彼女の側へ倒れ込む。そのわたしを、王女はしっかりと抱きしめてくれた。
どうしてガイではないのだろう。
どうして……。
彼女はいつかの深い海のようなブルーの瞳をきらめかせた。
「あなたを迎えに来たのよ。ガイの代わりに」
どうして、ガイではないのだろう。
なぜガイは来ないのだろう。
ふつっと思考が途切れ、彼女がわたしの身体にきつく回す腕の中で、わたしは意識を失いつつあった。
ガイは、どうして……。



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