甘やかな月 エピソード2
22
 
 
 
薄れゆく意識の中、わたしは瞳を離れていく、ぼんやりと遠くなっていく家に向けていた。
煙を上げ、ときに火を噴いて、大きなばちりという、何かが裂けるような音を響かせて、燃えていくのだ。夜の中、オレンジ色に折に青色の混じる火炎を、わたしはひどく冷めて見ていた。
それは悲しくもある。寂しくもある。わたしが毎日過ごし、愛した場所。守ってくれた家。思い出のたくさん詰まるその家が、単なる灰になってしまうのは確かに辛い。
けれど、わたしの中にはどこか炎の影に、終わったのだ、という安堵がある。もうここにいなくていい、と。
誰も明かりを灯してくれない一人の空間。
そして、柏木先生への裏切り行為の後味の悪さは、癒えず、胸に引きずるものの、やはり安堵している。
終わったのだ。
寂寥と、孤独の日々、迷った日々が、炎と共に果てる。
最後に目にしたものは、何だったのだろうか。燃える家の周辺に集まり出した人だかりを抜け、走り去る見覚えのある女性の姿だったように思える。
それが叔母の姿のようにも思えたのだけれど、どうでもいいと思った。怒りも、驚きも、わたしの中には生まれない。
終わったのだ。
 
意識を取り戻したのは、あのシャンデリアの煌く、応接室のようなサロンの中だった。
シャンデリアの照明の次に目に入ったのは、光る窓ガラスの向こうの漆黒の闇。
ああ、またこの列車の中にいる。少しも揺れのない、おかしな不思議な列車。暖かな室内の温度は、肌に心地よく、身体は重いままだったけれども、わたしは気づいてすぐに、長椅子に横になっていた身を起こした。
ちょうど、見計らったように、あの赤っぽい髪の制服のボーイが、銀のトレイにお茶を乗せてやって来る。
ふわりと漂う、柔らかい紅茶の香り。
「ああ、目が覚めたのね。ユラ」
隣りには、ブルーの衣装を纏うジュリア王女がいる。わたしと目が合い、にこりと笑う。
彼女はどこか落ち着かない様子で、周りをきょろきょろとうかがい、お茶をテーブルにきれいに置いていくボーイに、何か甘いお菓子がないのかを訊ねたりしている。
彼は物言わずに身を翻し、すぐと銀のトレイに、焼き菓子を何種か乗せてきた。物腰はひどく丁寧なのに、彼は言葉を決してもらさない。
もしかしたら、ガイには何か告げるのかもしれない。ジュリア王女ではなく、ガイになら。
ぽりっと音をさせ、さっそく彼女が皿のお菓子をつまんでいる。指の腹で唇に乗ったお菓子の屑を払い、ちろりと出した舌で唇を舐めた。
「ガイは、どうして来ないのですか?」
それにはどうしてか、彼女はブルーの瞳でわたしの目を食い入るように見つめ、ふいっといきなり顎を引いた。なぜか答えてくれない。
お茶に手を伸ばし、熱過ぎるそれに、ちょっと顔をしかめたりしている。相変わらず、不機嫌に黙ってしまう。
わたしは彼女の態度に落ち着かないものを感じ、焦れてきた。どうして教えてくれないのだろう。なぜ彼女は急に、厳しいような視線をわたしに向けるのだろう。
「ねえ、お願い。教えて下さい。どうして…」
わたしは彼女のスカートに手を触れ、懇願する。彼女はわたしの手を払いはしなかった。けれど、更にお菓子の皿に伸ばした手を止めて、戻した。
「あなた、恋をしていたのじゃない? 誰か、別の男性に」
「え」
全く、わたしはそれに虚を突かれた。わたしの表情に何が浮かんだのだろう。それはきっと、彼女への奇妙な恐れだ。
柏木先生との、恋のような、それに似た交じり合った、あの日々。彼女の言葉に、それをすぐ思い出す。
それが、彼女には見えるのだろうか。どうしてわかるのだろうか。わたしはそんなにあけすけな表情を、ぶら下げているのだろうか。
「あなたには気味が悪いのかもしれないけれど、ほんの少し、わたしは人の考えが読めるのよ」
そんなことを言う。

「え」
そういえば、彼女は以前、どうしてだかレディ・アンの人となりを承知している風を見せたときがあった。ガイはそれを口にしていないはずなのに……。確か、そのときわたしは、それにちょっとした引っかかりを感じたのだ。だから、今もそんなことを記憶から引っ張り出せるのだろう。
何となくすんなりと、彼女の告げる能力、または特性のようなものを理解した。納得したといった方がいいかもしれない。

奇跡を乗せて走るこの不思議な列車の中では、何もかも、すべてが信じられる。
「わかるのよ。ほんの少し、何か…気持ちの残り香のようなものがね。ひどく勘がいいくらいに思ってくれたらいいのよ」
その勘のいい彼女が感じたのは、きっとわたしの柏木先生への懺悔したいほどの感情。許されないほどの裏切りをしてしまったわたしの……。
わたしは彼女の目を受け切れずに、瞳を膝に伏せた。自分が恥ずかしかった。
そのわたしに、ほろりと彼女が言葉を落とした。
「ガイは死んだの」
 
「え」
何とも呼べない激しいまでの感情が、一気にせり上がり、胸を嵐のように吹き荒れた。
「嘘、嘘……。い、嫌、嫌」
悲鳴のような声がもれた。恥ずかしいとか、人前であるとか、そんな気持ちは微塵もなかった。取り乱す自分を止めようもない。
瞬時に涙が込み上げ、溢れ、頬を流れた。「嫌よ、嘘を言わないで」。怒気のにじんだわたしの口調。そんな声が自分に出せるかも、知らなかった。首を振りながら激しく言いつのる、そんな激昂した声を。

「お願い、嘘だと言って……」
わたしは彼女の膝に崩れるように上体を伏せた。そのスカートには焚き染めた香水の香りの他に、微かに煙のにおいが混じった。
彼女の指がわたしの髪に伸びた。すくようにそれは流れ、頬の涙をちょっと拭うのだ。
「悲しいのね、ごめんなさい。嘘よ。ガイは生きているわ」
「え」
あっさりとジュリア王女は前言を引っ込めた。わたしに腕を回して、抱き起こすのだ。

「ごめんなさいね。試すようなことをして。あなたに、男性への何か、影のような気持ちが見えたものだから、つい。ごめんなさい。だって、ガイにはあなたへの気持ちしか見えないのに、あなたったら、別の淡い影を宿しているのだもの」
「ガイは、生きているのね? 無事なのね?」
彼女はわたしの問いにうなずいた。乱れた髪を撫ぜてくれ、親指の腹で涙を拭ってくれた。
「わたしは彼に頼まれたのよ。この列車に乗って、あなたを迎えに来ることを」
そこで彼女は、わたしにお茶を飲むことを勧める。「落ち着くから」と。まるでガイのようなせりふ。
わたしは泣き乱れた自分を、ようやく恥じらうことを思い出した。手のひらで頬を押さえる。それから、そろりとお茶のカップに手を伸ばした。
薄い薄い陶器の、唇にぴたりと触れる感覚。口の中に広がる、柔らかい芳香。それが喉を通り、胸にしみていく。
懐かしいようなこの感覚。ガイとつながる、彼のあるシルエットを成す一つのパーツ。
けれど、どうして彼は来ないのだろう。彼女の言葉では、わたしに変わらない気持ちを持ってくれているのに、どうして現れないのだろう。
なぜ、ジュリア王女に迎えを頼むのだろう。
じりじりと心が焦りと戸惑いで、焼けていくようだ。
 
「ガイは大きな怪我を負ったの」
ジュリア王女は、心もちわたしの肩を抱くように話し出した。彼女の濃いブルーの瞳と出会う。なかなか瞬かないその瞳はひどく澄んで、わたしの目を見つめている。
それは心を見通す不思議な、ちょっと恐ろしいほどの瞳であるけれど、わたしは避けなかった。彼女のその目に労わりの色を見たこと、そして、さらされるのを恐れるような疚しいことなど、きっともう、わたしは抱えていないこと……。
何より、ガイのことを知りたい、彼女の話の先を知りたいのだ。
それらがわたしの気持ちを強くしている。
「あなた、顔色が悪いわ。話して大丈夫?」
「構いません、続けて。知りたいの、ガイのことを」
ジュリア王女は微かにうなずいた。そして、ひどく気になる続きを進める。
隣国エーグルに、親善の目的でエドワード皇太子が招かれたという。あちらの国の王室とは親交もあり、特に今回は王室の婚儀が絡んでいた。
けれど、例によってエドワード王子は気管支の持病のため、絶対に静養の必要なときでもある。
「それで、名代として、わたしが行くことになったの。エドの後見人のガイと共にね」
「あの……、ガイは後見人を降りたのじゃ……」
それに王女は、レディ・アンとの離婚から時間もたったこと、他に適当な人物のいないこと、そして今回のエーグルからの招待の件で、王子の後見人格の人物の必要が急務になったこと、を教えてくれた。
「後見人は、できたら血縁のある者で、しかも政治色の薄い人物がなるのよ。それにはもう、ガイを置いていないの。彼は学者で、政治とは無縁だし、わたしたちのお母さまを通してのいとこでしょう。経験者でもあるわ。彼しかいないのよ」
わたしはうなずいた。けれど、厄介な華々しいお役目が再び肩に掛かり、少し唇の端を歪めて肩をすくめるような、そんな彼の仕草が目に浮かぶ。
面倒なこと、賑やかしいこと、彼はそういったことが、面倒で苦手なのだ。
そういう経緯で、改めて後見人の任を受けた彼が、王女と共にエーグルに立ったのは、わたしがこちらに来て、ほぼ一月後のことであったという。
あちらには様々なレセプション、公式儀式などが目白押しで、ひと月ほど滞在の予定だったという。
「あちらの王子の結婚式の帰りだったの。パレスへ戻って、その宵には晩餐会に出る予定だったわ。小雨が降って、でも、なぜか虹の見える、変わった日だったのよ」
馬車から降りた、ちょうどそのとき、いきなり剣を持った男が、警備を振り切り突っ込んで来た。ロイヤルウエディングの賑わいだ朗らかな雰囲気の中、誰もが気の緩みを持っていたのだろう。警備の衛兵も、わたしたちも、と。
そんなことを王女は補足した。
男の剣は、王女に向かっていたという。
彼女はぎゅっと目をつむった。恐ろしさが甦るのだろうか。わたしは知らず、彼女の手をきつく握り締めていた。
「わたしたちの国との親交を、よく思わない輩がいるのよ。斬りかかってきたわ。ガイはとっさに腕にわたしを庇ったの。当たり前のように、庇ってくれたのよ」
警備の衛兵が取り押さえるより早く、その男の剣はガイの背中を斜めに切り下げたという。
嫌な音がしたという。衣服を切る、肌を切る嫌な音が。
「見る間にガイの、タキシードの下のシャツの白が、血に染まって……」
王女はそこで、すうと息を深く吸った。それをためて、ゆっくりと長く吐いた。
激痛にきつく顔をしかめて、背を折り、膝を崩していく彼。轟く悲鳴と警備の声と、発砲の音。

「ああ」
ガイの受けた痛みを、我がことのように感じる。わたしの背中を、彼が受けた剣の切っ先が斬りつけたように熱いのだ。それは広がり、深くなり、胸に達してわたしの心臓を萎縮させる。震え上がらせる。
我がことのようではなく、我がこと。彼が負った傷なら、わたしが負ったのも同じ。
だから、痛い。
「なかなか熱が引かなくて、傷も上手く癒えなくて。ガイは長く床についていたわ。うわ言で、ユラの名を幾度も呼んでいたのよ」
「ガイが……、わたしのことを?」
「ええ」
彼女の煌くブルーの瞳が、わたしの浮かべる涙でぼやけていく。悲しいのではなく、嬉しいのでもなく、悔しい。ただ悔しいのだ。
ガイのそんな辛いときに、どうしてわたしはそばにいてあげられなかったのだろう。見守り、手を握り、熱の汗を拭い、または唇を湿らせる。そんなささやかな献身を、わたしが彼の妻としてできなかったことが、悔しい。
そんなことすらできなかった自分が、情けなくて、そしてガイに申し訳なくて……。
「僕はあなたに変わらぬ愛情と誠実を捧げる」と、彼はそう、プロポーズのときに誓ってくれたではないか。その気持ちはちらりとも揺らがず、ひたすらに、わたしに注いでくれたのに。

なのに、なのにわたしは……。
日々、日常に紛れ、時の中に迷い、さまよって、わたしはガイのことを忘れようとした。
わたしはなんて、なんて浅はかなのだろう。なんて、はしたないのだろう。
涙にぬれるわたしを、王女は腕に抱き、額に唇を当ててくれる。
「ユラ、辛かったのね、あなた。ガイと離れて、きっと辛かったのでしょうね。待ちぼうけで、恐ろしかったのね、きっと。不安だったのね」
彼女はそう言ってくれる。救いの手をそうやって伸べてくれる。
けれど、けれど、わたしは彼女の言うそれらにただのまれ、自分の弱さに逃げて、溺れていただけなのだ。
「ユラ、大丈夫。大丈夫」と、王女の優しいささやきが耳に届く。それがまるで甘やかすかのようにわたしを包んで、なでていく。
だから、わたしの涙はなかなか引かなかった。それは、自分への情けなさへの憤りであり、やはりしっとりと身を包んで感じる安堵であり、またはガイへの、ひたひたと押し寄せる愛情だったり……。
だから、わたしの瞳はなかなか乾かない。
「おかしな人ね、ユラ。あなたのガイに、もうすぐ会えるというのに。笑っていらっしゃいよ。あなたは笑顔がかわゆらしいのよ。ハチドリのようで」



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