甘やかな月 エピソード2
23
 
 
 
朝靄の中、わたしはマキシミリアンのあの広大な駅舎に降り立った。
こちらの空気は既に夏を越え、やや肌寒さの感じる秋のものになっている。
コートを纏うにはやや早く、夏の薄物では心もとないような。わたしの知らないこちらでの季節。そんな中にわたしはいた。
どこかからかもれる朝日。明るさといってはそれだけ。幾つものホームに並ぶ、つるつるとしたグリーンや臙脂の車体の列車は、始発を待ち眠っているように、レールの上に長く横たわっている。
人気のない石の床。そこを王女は颯爽とした背中を見せ、きりりとした歩を真っ直ぐに前へ進めていく。
わたしは彼女が用意してくれた衣装に着替えていた。髪は上手く巻き上げられず、乱れを誤魔化すようにショールを頭から被っている。足にはヒールのある華奢な編み上げのブーツを履いて。
さやさやと脚にまとわりつくペチコートの肌触り。足を運ぶたびに、しゅっと軽い衣擦れの音がする。
それは肌から感じた。
こちらに戻って来られたこと。
苦しみの果てたこと。
ガイに会えること。
肌でそれを知るのだ。
ふと、元来た後ろを振り返った。高い場所の窓から挿す光、それにちらちらと埃が舞うのが見える。その光に目を凝らした先にあるべきもの、あったもの、それはやはり消えていた。かき消すように何も残さずに。
あのわたしを運んだロイヤルブルーの列車の姿は、もうどこにもないのだ。
 
王女がわたしを馬車で伴ったのは、王宮だった。
休むように言われ、メイドの案内である客間に招じ入れられた。そこで少しベッドに横になり、軽い仮眠を取って、バスを使った。
再び衣装を纏い、王女に会ったのは、その彼女の住まいの中のサロンだった。ほんのりと油性の絵の具の匂いのするその明るい部屋は、大きなキャンバスがあちこちに置かれている。描きかけのものなのだろうか、布がすっぽりと覆っているものもある。
王女はどこにでも掛けてと、窓辺に幾つもある長椅子を指した。彼女が言うには、アトリエの小部屋よりも、こちらのほうが採光がよく、絵を描きやすいのだとか。

「お客と話しながら、絵が描けるでしょう
ほどなくメイドが、ワゴンに乗ったお茶の用意を運んできた。スタンドのサンドイッチやケーキ、たっぷりとした銀のジャグの湯気の上がるお湯。ずらりと並んだ百合の花の飾りのあるティーポットやティーカップにソーサーなど。
お茶がカップに満たされる前に、王女は既にスタンドのサンドイッチに手を伸ばしていた。ぱくりとそれを口に運び、どうぞ、とわたしにも取り分けてくれながら、口を動かす。
飾らない彼女。偉ぶらない彼女。ときに人の心を見通すという、濃いブルーの瞳を煌かせる彼女。
どうして彼女が、わたしを迎えに来たのだろうか。列車を降り、肌をさっぱりとし、身だしなみをちちんと整えた後では、もやもやと幾つも疑問が浮かぶ。
ガイは、あの列車に乗る秘密を、もらしてはならないのではなかったろうか。謎にもルールがあると、それを守らねば、破綻すると……。
なぜ王女なのだろう。
そして、今はわたしが去ってから、どれほどの時が流れたのだろう。
お茶を飲みながら、盛んな食欲を見せながら、彼女はわたしの疑問に答えてくれた。
「不思議そうな顔をしているわね、ユラ。そうね、わたしにもひどくみょうちきりんだと思うわ。
彼を見舞ったときに、ガイの懐中時計を、ふとしたことで、手にしたのよ。ベッドのそばの水差しや花瓶の横に置かれていたの。ガーゼに乗ったそれは値打ちものだけれど、古いもので、何気なくぱちりと中を開けてみたの。

こちこちいう時計は、螺子が巻かれずに少し遅れていたし、何ていうことのない物だった。けれど……」
彼女はそこで言葉を切り、お茶を飲んだ。喉の奥にお菓子をしまい込み、続ける。
彼女の目にしたものを、わたしは知っている。蓋の裏にはめ込まれたどんよりとした曇った鏡。ガイはそこに人の影を見るという。
「見えたのよ、あなたが。ユラが映ったの。びっくりしたわ。驚いて、わたし時計を膝に取り落としたわ」
わたしが、映った……? 
それは思いがけないことで、わたしは相づちを忘れた。
彼女の瞳はくりんと瞬いた。

「そのときガイが、わたしの手の中にある時計に気づいて、何か言ったの。
彼はようよう良くはなっていたけれど、一日のうち半分は床についていたの。あちらの医者がひどくうるさいのよ。ガイに何かあったら、国賓ですものね、国際問題でしょう? 襲われただけでも大変なことなのに。
あちらの人々の気持ちはわかるけれど、わたし、それで退屈したわ。ガイとあちこち見て回りたかったのよ。喋る鳥のいる植物園だとか、おかしな劇を催す劇場だとか、いろいろ……」
王女の話は逸れて、滞在時の不満をぽろぽろともらすのだ。「エドの代わりはうんざりよ」と。
話は戻り、ガイが彼女の手の中の懐中時計に気づき、更に彼女が、鏡の中の影を目にしたことにも気付いた。
あんな驚いた顔をしたガイを、初めて見たという。
「わたし、ガイは大好きよ。けれど、あのときの彼は、ちょっと怖いくらいだったわ。
幾度も幾度も、影の中のユラの様子を訊ねて、多分、そうやって自分が見たものと同じかを確かめているのだと思った。
厳しい顔をしたと思ったら、いきなり笑うでしょう。彼の感情の乱れと喜びは感じたけれど、ガイったら、寝込んでばかりでおかしくなったのじゃあないかしら、と本気でわたし、思ったわ。大変なことになったと」
彼女は大きく息をついて、肩をすくめた。真剣に語る彼女の口調はなぜかおかしみを伴い、わたしは口元を緩めた。笑みが浮かぶのは、きっと話の内容が明るいからだ。怪我を負ったものの、快癒に向かうガイ。その彼を見舞った親しい彼女との雰囲気が、明るく伝わるのだろう。
ガイの驚いた顔を、わたしも見たかった。彼の様子を聞けるのが嬉しい。彼が元気でいるのを聞くのが嬉しい。嬉しくて、わたしは涙ぐんだ。
自分と同じ能力、または資質を彼女に見たガイは、わたしの迎えを頼んだという。次の満月に、ある不思議な列車に乗って、わたしを迎えに行ってほしいと。
それで彼女は来てくれたのだ、ガイの代わりに。傷を負って来られないガイの代わりに。
瞳から噴き出す涙。それは強い喜びと、彼女への感謝のためのもの。とめどなく溢れ、頬をぬらし、わたしは膝のナプキンを目に当てた。
わたしが感謝の言葉を発すより早く、彼女は言う。ブルーの瞳を瞬かせ、テーブル越しに手を取った。
「ガイの大切な人なら、わたしにもそうよ。気にしないで、ユラ。面白い経験だったわ」
 
 
王宮には五日ほど滞在をした。
すぐにアシュレイの邸に向かいたかったのだけれど、ガイがわたしの不在の言い訳を、エドワード王子に気に入られ、彼の付き添いをしていたことにしていたため、王子が静養先から帰るのを待つことが必要だった。
わたしの元の世界で過ごした時間、それにみ月を足した時間が、こちらでは流れていた。だから、今とうに夏を終え、秋になっている。冬を徐々に迎えつつある秋に。
わたしがこの地を初めて踏んだときに、少し早い季節。ガイに恋をして、焦がれて、悩んだあの季節。懐かしくもほろ苦い、そして甘い過去。
また再び、彼と一つになれた冬が巡ってくるのだ。マントルピースの炎は優しく室内を暖め、彼の素肌に包まれたあの冬の、うっとりとするような温もり。
それが、また巡ってくる。
時間の流れが違うとガイは言っていた。時空にねじれがあるとも言っていた。難しいことは、わからない。けれど、ここに自分が確かに存在するのは、紛れもない事実。
レディ・ユラが、わたし。
久方ぶりに邸に帰ったわたしを、変わらぬ人々が迎えてくれた。ガイはいない。ガイはまだエーグルにいるのだ。こちらよりやや暖かな隣国で、ぎりぎりまで傷を癒すことを強いられているのだという。
だから、邸に彼の姿はない。
それを除けば、わたしの知る邸と何ら変わらないのだ。手入れの整った庭園、よく磨かれた床、きりりとした動きの使用人の人たち。
鼻の奥に懐かしい匂いがふわりと染み入ってくる。それは喉から肺に入り、わたしの胸を、喜びで満たした。帰ってこられた喜びに、胸が躍るほどにそれは、わたしの中に満ちる。
「お帰りなさいませ、奥さま」
重なる声に、わたしはどう答えるべきなのだろう。どう答えるのが相応しいのだろう。ガイはいない、振り返って指示を仰ぐべき彼はいない。
ちょっと息をのんだ後で、わたしは彼らの目を一渡り見ながら、口を開いた。ハリス、アトウッド夫人、マイク、アリス、ジョン、マークス……
「ありがとう。皆さん、遅れてごめんなさい。……ガイのいない中、よく邸を守って下さったわ、ありがとう。礼を言います」
少しはにかみながら、わたしはそう答えた。お茶のため、お気に入りだった温室に移りながら、わたしは火照った頬に掌を当てる。
ガイは何と言ってくれるのだろうか。今のわたしを見たら、何て言ってくれるのだろう。
わたし、おかしくなかった? みっともなくなかったかしら? 少しは、あなたの奥さまらしかったかしら?
ねえ、ガイ、教えてほしい。あなたの声が聞きたい。



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