甘やかな月 エピソード2
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あちらの世界にいたころに持ったままの夏風邪が、こんなところにもまで引きずり、ぶり返す。気が緩んだためか、邸に帰って間もなく、わたしは数日寝込むことになった。
あれこれと世話を焼いてくれるアトウッド夫人、そしてアリス。彼女たちの甘やかすような仕草が、わたしの気持ちをどんどんと緩ませた。
ベッドに伏せがちの日々が幾日あり、ようやく、わたしは起き出すことができた。まだ身体は少し熱っぽい。けれども、気がはやり、胸が鳴って、横になってなどいられないのだ。

今日は、ガイが帰ってくる日だから。
「もう少々、横におなりになった方がよろしゅうございますよ」
ふっくらした身体を揺すりながら、アトウッド夫人は心配そうに言う。傍らでアリスが、わたしの髪をすくのが、化粧室のドレッサーの大きな鏡に映る。
「こちらでお待ちになられた方がよろしゅうございますよ。頬が、まだ赤うございますのに。港は海風でひどく冷えますから」
「大丈夫よ、厚いショールを持っていくわ、ね?」
ちょっと不服そうに、アトウッド夫人は言うのだ。「お迎えにはハリスが参りますから」
「いいえ、行きたいのよ。行かせて。ガイの迎えに、どうしても港に行きたいの」
そう言ってわたしは、髪を結い上げたアリスに、袖を通した覚えのある菫色のドレスを出してほしいと頼んだ。
衣装の仕度が済み、ショールを腕に、わたしは階下に降りた。馬車の仕度ができたとハリスが告げた。
それにうなずいて、ホールからポーチへと出る。頬が赤いのは微熱のせいだけではない。
ガイに会えるから、今日ガイに会える、その思いがわたしを、熱く昂ぶらせているのだ。
馬車に乗り込み、見送りの人々にうなずいてから、わたしはじゅんと火照る、熱を帯びた頬に手を置いた。手袋を通した指先に熱は感じない。その指先は、あふれて頬に落ちた涙に染まっていく。
ガイに会える。
それが、どんな喜びを伴って、連れて激しくわたしを揺さぶるか。
彼はわたしを見て、何て言うのだろう。少し痩せたと思うかもしれない。何か前とは違う雰囲気を、わたしが纏っているのを認めるかもしれない。
彼は、何を思うのだろう。
ガイと共にかつて通った、彼が教鞭を取る大学前を通過する。色づき始めた街路樹が並ぶ美しい街並みを抜け、湖を右端に望む。
橋を渡り、賑わう街を過ぎ、こんもりとした林を目の端に見る。あのこんもりとした林に囲まれた静かな公園の広大な池は、冬に厚く凍るのだ。
ガイは以前、そこにわたしをスケートに連れ出してくれた。つるつると滑る氷がおっかなくて、わたしはガイにしがみついた。彼はそれをひどくおかしがった。
池の中央に導く彼に、わたしが怖気づくと、
「大丈夫、転んでも僕を下敷きにすればいい」
彼はそう言って笑った。
そんなことが、ほんの昨日のことのように目に浮かぶ。甦る。
いろんなことを乗り越えて、いろんなことを通り抜け、わたしはここにいる。あなたに決して言えない、いろんなことを胸にしまって、わたしはここにいる。
そんなわたしはやはり、ずるいのだろうか。嫌らしいのだろうか。
けれどわたしは、あなたに会いに行く。
ほんのりとした不安。わたしが過ごした日々の残滓、それらを彼に感じ取られてしまうことへの不安。
けれど、わたしはあなたに会いに行く。それらを抱えて、胸にしまって、会いに行くのだ。
 
港は風が冷たかった。
緩い巨大なLの字のような形のそこは、大きな商船や客船が錨を下ろし幾つも停泊していた。出迎えに、多くの人手があり賑わっていた。
鉛色の空。もっと快晴にならないのだろうかと、わたしはそんなことで焦れていた。
沖に船影が、点と見えた。それはどんどんと近くなってくる。あの船にあの客船にガイが乗っている。そう思うだけで、胸が塞がりそうなほどに、息が詰まるほどにときめくのだ。
不意に、後ろから男性の声がする。「レディ・アシュレイ、レディ・アシュレイはいらっしゃいませんか?」
わたしを呼んでいるようだった。そういえば王女が、ガイの迎えを王宮からも幾人か出すようなことを言っていた。それだろうか。
面倒で、わたしは人に紛れ、聞こえない振りをして返事をしなかった。一人で待ちたいから。ざわめいて、落ち着かない今、王宮からの人物のような、気の張る知らない人のそばにいたくない。一人で、ひっそりと待ちたいのだ。
もう一度大きく声がした。「アシュレイ伯爵夫人はいらっしゃいませんか?」
それにも答えなかった。
冷えた手袋の指先を胸の辺りで組み、わたしは一心に水面を見つめていた。
頬に当たる風が、ひりひりとするほどに強く冷たい。寒さに気づいたが、わたしは馬車に、せっかく持ってきたショールを忘れてしまっていた。
でも、いい。取りに戻る気はしなかった。ここを離れたくないのだ。
「失礼」
すぐそばで声が掛かり、軽く肩に手が置かれた。それに振り返る。人ごみを分け入ってきたのは、黒いコートを纏う男性だった。見上げる首の辺りからは軍服のような詰襟がのぞく。
「あ」と思わず声がもれるほどに、ガイに似ていた。整った鼻梁も、少し厳しいほどの表情も。しかし、違う。まったくの別人だ。髪の色が違う。瞳の色も違う。
ほんの少し面差しが似ているだけだ。「レディ・ユラで、いらっしゃいますね?」
ここに至って、彼の声にわたしはうなずいた。
彼は自分は王宮から派遣された軍の人間で、フィッツジェラルド大佐だと名乗った。彼は「こちらへ」と、わたしの背に手を当て、人ごみを縫うように連れ出す。
ガイを襲ったようなエーグルの人間が、もしや下船する乗客に混じっているかもしれず、危険だという。彼は他の同僚と共に、わたしの警護に、王子が派遣したのだと告げた。
「王子が?」
「ええ。それに、レディ・ユラ、残念ながら、アシュレイ伯爵はあの船に乗られていないのですよ」
「え」
「軍のドックへ。民間の船に乗っていただくのは危険なので、途中エーグル領海を出てすぐに、軍の船に移っていただいたのです」
わたしは彼ら数人の騎馬隊に馬車を取り囲まれながら、港の端に隣接する軍港へ向かった。
彼ら軍人の存在に、王子の厚意に、まざまざとガイが遭った奇禍を思う。彼を襲ったのは、両国の親交をよく思わない人間だ。
しかも、ガイが怪我を負ったのは、ジュリア王女を庇ってのことなのだ。本来なら、怪我をしていたのは、王室の人間である彼女だったはずなのだ。
どこかぴりぴりとした剣呑な緊張感を、フィッツジェラルド大佐たちから感じた。
それが、わたしの胸のざわめきを煽る。
厳しい鉄のゲートを抜けると、そこはもう、軍部の中で、大佐たちと同じようなコートを着た人物がたくさんいた。がらんとした巨大な骨組みの工場のような建物を、彼らは行き来している。
それは幾棟もあり、間の路地は迷い込みそうなほど入り組んでいた。大佐についてその中を歩く。
彼が歩を止めた先に、桟橋があった。それは大きく硬い金属の装甲の船のそばにあり、船から降りる人を地上へ導くのだ。

大佐の誘導は、そこで終わった。

「こちらです」

「え」
かんかんと靴底で鉄の桟橋を鳴らしながら、ちょうど降りてくる人物がいた。かんかんと。
それはガイだった。

手にステッキを持ち、片方の指先で帽子のつばにちょっと触れている。小首を傾げるような、そんな彼の仕草。
深いグレイのかちりとしたスーツに身を包んでいた。わたしには、その彼の姿が、まるで美しい絵画のように、ほんのちょっと止まって見えた。
その彼が、背後のやはり軍服の人物の合図で、視線をこちらに向けた。わたしを見た。
瞳が合い、一瞬で彼は目を細め、それを緩やかに和ませていく。
かんかんかん。彼の靴音が早まった。桟橋を降り、靴音は硬いものに変わっても、わたしは動けなかった。縛られたように、自分に近くなる彼に瞳を据えたまま、動けずに、瞳だけが潤み、視界をぼやけさせていくのだ。
距離がほどなく果て、目の前に彼の姿を認めたとき、わたしは崩れるように彼の腕に身を委ねた。
腕が背に回る。わたしを確かに抱きしめる、彼の腕。徐々に込められる力に、その感覚に、涙が瞳をあふれ出した。
彼の胸に突っ伏すように、わたしは顔を当てる。彼が纏う淡い煙草の香り。それがシャツから、ジャケットの腕から、ふわりと香る。わたしを包む。
「僕のお嬢さん。可愛いあなたに泣かれるのは堪らない。ねえ、僕を怒っているのでしょう? あなたを迎えに行けなかったことを。ねえ、お嬢さん、ほら、僕をつねっても引っ掻いてもいいから」
彼の言葉。ずっとほしかった彼の言葉。わたしを「お嬢さん」と呼ぶ彼の声を、わたしはずっと堪らなくほしかったのだ。それが届かない日々、耳に触れない毎日が、わたしは辛かったのだ。苦しかったのだ。
だから彼の言葉に、わたしの涙は止まらない。
顎を指で捉え、彼がわたしをのぞき込んだ。そうして、まなざしに柔らかな笑みを浮かべる。そのブルーグレイの瞳でわたしを見つめるのだ。
「あなたに、会いたかった」
触れた唇の熱。結ばれる口づけ。
それが証。彼といる今の証になった。



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