甘やかな月 エピソード2
25
 
 
 
「おかしなお嬢さんですね、手がこんなにも冷たい。海風が強いのに、帽子もショールも持たずに来たのですか?」
口づけの後で、ガイはそんなことをささやいた。ちょっとからかうような、耳元にくすぐったい、彼の声。それに、じんと胸の奥が痺れてくる。わたしの中の大切にしまった彼との思い出、一度は鍵を掛けたその箱が、するりと簡単に蓋を開ける。
ほろほろとこぼれ出すそれは、あふれて、ひたひたと、あっという間に、わたしの胸を一杯にする。
うろたえるほどに、わたしは自分のほとばしる感情に溺れて、彼のシャツにただ縋って、涙のシミを作るだけ。
ガイがわたしの肩に、自分のジャケットを脱いで羽織らせてくれたのも、彼がわたしの腰に腕を回し、歩き出したのも、まるで実感がない。
ふわふわと柔らかい雲の上にでもいるかのような、そんな感覚の中にいた。
もっときつく抱きしめてほしい。早く二人になって、口づけてほしい。
そうやって、わたしにあなたをしっかりと気付かせてほしい。
馬車に乗るとき、ガイがふと振り返り、「グレイ、ありがとう。妻を連れてきてくれて」そう言ったのが聞こえた。グレイと呼ばれたのは、わたしを軍港に伴ったあのフィッツジェラルド大佐だった。
彼はガイに敬礼を返し、「閣下がご無事で何よりです」、唇に笑みをにじませて返すのが見える。
ガイは馬車にわたしを先に乗せながら、肩をちょっと揺らした。
「閣下は止めてくれ。頼むよ」
「しかし、王子のご後見役でいらっしゃる。閣下以外に何と申し上げれば?」
「僕はこれで後見人は二度目だ。出戻りでも、何とでも。君らの好きに呼んでくれて構わない」
「では、閣下と」
それにはガイが肩をすくめて返した。二人のやり取りに、初めてではない、どこか親密なものを感じた。あのほんのりとガイに似た風貌を持つ大佐とは、ガイは知り合いなのだろうか。そんなように思える。
わたしを先に促し、続いて彼が馬車に乗り込んだ。
かんと、ステッキで車内の壁を打つ音。がくんとした軽い揺れの後で、やおら動き出す馬車。
「さあ、お嬢さん。やっと二人きりになれた」
「僕のそばにいらっしゃい」。わたしの腕を引寄せる、ガイの腕と声。それにわたしの涙がぶり返し、瞳からあふれるのを、止めようがない。
嬉しいのだ。彼の腕も声も、すべて。抱きすくめられるこの瞬間に、わたしを包む柔らかな彼の温もり。
それらが嬉しい。
「嫌だわ、わたし、泣いてばかり。……嬉しいのに……」               
その涙を彼が拭う。そんな仕草を期待しているわたし。そんな自分の甘えと、それを容易く叶えてくれるガイの優しい指のあることが、ほんのそばにあることが、こんなにも嬉しい。
嬉しいのだ。
問いたいことはたくさんある。聞きたいこと、知りたいことも、それは山のようにある。けれど、わたしたちは言葉もなく、互いを見つめて、少し笑い、途切れなく口づけ合うのだ。
それで、何かが埋められるように、少しでも、互いの熱を分け与えるように。
どうしてこの人と、離れていられたのだろう。
どうしてこの人を、忘れられるなどと思ったりしたのだろう。
「何度も夢見たように、やはりあなたは愛らしい。僕の可愛いお嬢さん、あなたはまるで、ハチドリのようにかわゆらしい」
髪に絡む彼の指も、ささやく甘い吐息も、見つめる彼のブルーグレイの瞳も。ふわりと纏う、煙草の香りも……。何もかもが、彼を示す、彼を表す、すべてが好き。
すべてが愛おしい。
あなたを愛している。わたしの命に代えても、何を犠牲にしても。あなただけを。
 
何の頓着もなく邸に入るガイに対して、わたしは瞳は涙で赤く充血し、続いた抱擁と口づけで薄らいだ口紅が恥ずかしく、レースのハンカチを顔に当てて、うつむいてばかりいた。まるで、初めてこの邸に来たときのように。
涙ぐみ、喜んで彼を迎える使用人との対面があり、それにごく柔らかく、何でもないように答えるガイ。
「主人のいない邸を守ってくれて、どうもありがとう。僕もレディ・ユラも、随分と家庭に飢えているんだ。精々奉公を頼むよ」

そんな軽口で、長引いた不在と、自らが負った不幸な事件とを、あっさり過去に紛らせてしまう。
早速と彼に取り付き、少しお痩せになっただの、お加減はもうすっかりよろしいのか、だのと構い出すアトウッド夫人に、ガイは彼女の肩に手を回し、「ママのローストチキンのレシピが、ひどく恋しかったよ」などと言い、彼女を喜ばせるのだ。
ガイがいなくては駄目なのだ。彼が存在することで、この広大な邸は、鮮やかに色を纏い、くるくると動き出す。
わたしの中で長く、セピアの色をした空間が、色を取り戻していく。ガイがいるだけで、こつこつと床に靴音を響かせるだけで、一瞬にわたしを、彼と暮らしたあの日々に戻してくれるのだ。
「おやおや、お嬢さん」
始終うつむいて、ハンカチに顔を埋めてばかりのわたしを、ガイは意地悪にも笑う。
「ひどいわ。…だって、ガイのせいよ」
頬を膨らませるわたしに、ガイは言う。「あなたは笑った方がきれいだ」と。ほろりと簡単に、切ないほどにほしかった、あの言葉をくれるのだ。
「もうあなたをきっと泣かせないから、安心してほしい」
さあ、とガイが手のひらを上にし、わたしを招く。ゆるりとつなぐ手、絡める指、腰に回す彼の腕。
それらが、わたしを確かに、包む。わたしはあなたのそばに帰ってきた。
帰ってきたの。
 
小さく燃えるマントルピースの炎は、照明を落とした室内を穏やかに静かに照らす。夜は冷え、秋が深まりつつある今の季節に、暖炉の火は欠かせない。
寝室に引き取った今、わたしは、ガイに訊ねたかったことを問う。わたしを元の世界に帰す代わりに迎えに行ったという男の子のこと、そしてエーグルでの事件、彼の傷のことなど……。

「おやおや…」
寝間着の上にガウンを羽織り、ベッドに腰を下ろしたガイは、普段になく、矢継ぎ早に質問を重ねるわたしにちょtっと苦笑した。

「だって、知りたいのに…」

「ねえ、ドレスを脱いで、着替えていらっしゃい。僕は、あなたの解いた髪に触れたい。そうしたら話してあげる」

「え」

そんな彼の言葉に、身体も頬も熱くなる。

彼は、化粧室から着替えて戻ってきたわたしの手を取り引寄せながら答えてくれた。
男の子は、向こうで既に亡くなっていたこと。
それにしんと心のどこかが冷えた。
「ない訳ではない事例らしいです。祖母からそういう経験を、聞いたことがある。無駄骨だったとは、思いたくはありませんが……」
するりとわたしは彼に抱かれ、その胸の中にいた。頭に、ちょうどガイの顎が触れるのを感じる。
何かの巡り合わせ、それのほんの小さなずれと、確率で、会えるはずの命と会えない。
その反面に、奇跡のような可能性でわたしはここにいて、彼の腕に触れていられる。「あなたが戻る際の、時間の巡りもよかった」と、ガイは微笑んだ。わたしの元の世界とは、時空や時間の流れに捻れがあることは、以前に彼から聞いていた。
「それが微妙に異なっていたら、僕だけがあなたよりうんと年を重ねていたかもしれない。お爺さんの僕では、あなたはきっと愛想を尽かしたでしょうね」
そんなことを言って笑うのだ。そう言いつつも、計算してはいたという。これまでの時間のずれの一覧を頭にいれ、できる限り最小限のずれの狭間を見つけ、ジュリア王女に迎えを頼んだという。
「王女が僕と同じような資質をお持ちなのには驚いた。彼女は…そう、不思議な力がおありだから、案外それも関係するのかもしれない」
「聞いたわ、王女から。わたし、驚かされたのよ。……心の中を見透かされて」
「おやおや、ねえ、何か僕に、やましいことでもあるの?」
わたしはそれに、曖昧に微笑んだだけ。
彼と離れていた間のわたしの心の迷いや葛藤、またはさまざまな経験を打ち明けるのは、容易い。それは告白という形を取り、まるで懺悔でもしたように、わたしの胸をきっと楽にしてくれるのだろう。
そして、きっとガイは許してくれる。その躊躇を、ためらいを。
迎えに来られなかったという、一端の責任を、彼はきっと感じることで、わたしを許してくれる。
けれど、それはわたしだけの救い。わたしだけの自己満足。彼の気持ちを考慮しない、わたしだけの独りよがりな解決法ではないのか。
大きな傷を負い、その傷を癒す最中、高熱の中、わたしの姿を夢見ていたと言ってくれる彼に、孤独だったわたしの心の迷いや移ろいを話す勇気を、今持てなかった。それは、ひどくいやらしいから。彼への裏切りだったから……。

わたしはずるくて、卑怯。
だから、言わない。
優しい彼は、きっとわたしの心の弱さを許してくれるだろう。「しょうがない」と、笑ってくれるかもしれない。最後に選んだのは、心の中で唯一焦がれるのは、紛れもなく彼なのだから。
けれど、わたしは決して話さない。
彼に与えるショックを思うためでもあり、その他に、ささいなことでも、わたしへの負の感情を持ってほしくないという、嫌らしい逃げの気持ちも確かにあるのだ。
だから、わたしは話さない。
ほんのりとした背信の気配を、どこかにわたしはしまって、彼の腕の中にいるのだ。何も知らない、純情なお嬢さんの振りで。
会話が途切れ、深いキスの末に重なり合う。ほしいのはあなただけ、わたしの深い奥の部分で、求めて潤むのは、あなたのためだけ。
あなたしか、ほしくない。
つきんと痛むほどの、そのつながる歓び。そして肌の熱もその香りも、あなただけがほしい。
待っていたの。
あなたに抱かれたくて、こうして肌に包んでもらいたくて。
「あなたの肌に触れたかった」
そんな言葉を、ブルーグレイの真っ直ぐなまなざしと共にくれるあなた。
はにかんで、わたしが上手く返せないのはいつものこと。それを笑うあなたもいつもと変わらない。
何もきっと変わらない。



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