甘やかな月 エピソード2
26
 
 
 
ふと、目が覚めた。
いまだ宵は空けず、ほのかな暖炉の小さな火の明かりと、レースのカーテン越しに届く柔らかな月の光のみが室内を照らす。
ぼんやりと、視界に入ってくる寝室の調度類。艶光のするチェストにテーブル。布張りの長椅子や、一人掛けの椅子。
ベッドを緩く上から覆うのは、レースの天蓋。その生地と生地の境目から、部屋中を眺めることができるのだ。
ゆっくりと身を起こす。ベッドの柱に引っ掛けた薄いガウンを羽織り、立ち上がる。垂らしたままの髪を後ろにかきやりながら、テーブルの水差しから、グラスに少し注ぎ、水を飲んだ。
思いの他冷たい水が、喉を走っていく。
グラスを戻し、わたしは窓辺に向かう。
広いテラスに続くそこは、眼下に庭園の様子が見える。今は暗く、緑の影と、白っぽく映る小道が見えるばかり。
なじんだ、既にわたしの一部になりつつある風景。それをわたしは確認したいのだ。確かに目に映ると、手を伸ばせば、テラスに出れば、その風に舞う木々の芳香も感じられるのだと、実感したいのだ。
どれだけそうやっていたのだろう。身体が冷えてきた。ガウンを脱ぎ、ベッドに戻る。
ガイは目に片方の手の甲を乗せて眠っている。わたしを向くその素肌の胸には見られない傷が、背のほうにはしっかりと痕を留めているのだ。抜糸の痕は、少し盛り上がり、明らかに他の部分とは違う色と質感の傷跡がある。
抱き合いながら、幾度かその傷跡に、わたしは触れた。指を這わせた。
「もう、痛くも何ともない。でも、気味が悪いでしょう? ねえ、お嬢さん、僕はまるで、どこかのならず者にでもなったみたいでしょう?」
彼はそんなことを言って、笑うのだ。「あなたに嫌われないか、それだけが気がかりだった」と、笑うのだ。
彼がわたしと離れた時間の中で、くっきりと残したもの。得たもの。その傷の痛みは消えても、痕は消えることなく、残る。
それを目にしたとき、彼の受けた恐ろしいばかりの出来事に、肌が粟立ちそうになった。ジュリア王女を守るために、受けた大きな傷。彼女は言っていた。「ガイは当たり前のように、わたしを守ってくれたの」と。
わたしのよく知る、彼らしい優しさと思いやりに溢れた振る舞い。彼はそれを押し付けることなく、さりげなく、自分の大切な人に与えるのだ。
わたしは彼のそばで過ごした月日、それをまるで水でも飲むように当然に受けて、存在した。
ガイが選んでくれたから。彼が愛してくれて、わたしをレディ・ユラにしてくれたのだから。
優しいガイ。
聡明で凛としたあなたの瞳は、眠る今は伏せられて、閉じられているけれど、彼が目覚めたとき、そこに映るのは、わたし。髪を乱し、素肌でシーツに包まり、幾つかのキスの跡を肌に残したわたし。
わたしは何も知らぬ顔で、懐かしいほどに久しぶりに彼に抱かれ、恍惚となり、恥じらって、すべてを許した。
わたしが真に求めるのは、彼。わたしのすべてを捧げたいと思うのも、彼。
けれど、わたしは彼に相応しいのだろうか。
彼が達したとき、わたしは思ったのだ。心の底から、思ったのだ。
ああ、柏木先生とできていなくてよかった、と。
 
いやらしいわたし、そしてはしたないわたし。それらのずるさを承知で、隠して、わたしはこれからもガイのそばに寄り添うのだろう。
離れられないほどの絆を刻まれて、彼のそばでないと、生きている意味がない。また、生きていけないのも知り抜いている。
だから、わたしはやはり胸に大きな堅い箱を置き、その中にみっしりと嫌らしい思い出を詰め、しっかりと鍵をかけるのだ。開かないように、けっして中身がこぼれ出さないように。
それはいっときは、わたしを安心させる。させたのだ。
しかし、その箱は時を経て、周囲に錆をつくり、かびを呼び、苔生し、胸の中に真っ黒ですえたにおいを放ちはしないだろうか。
または僅かに箱からもれる何か。それが、わたしの中ではびこり、爪の先まで染めていくことはないだろうか。
ガイがそれに、気づかないはずはない。
怖いのだ。
彼に明かせない過去。それをしまい続ける、なかったことにして振舞うわたし。
そんなわたしを、ガイはいつまでも愛してくれるのだろうか。
どこかで低い部分で、きっとわたしは、彼の忌まわしい前妻レディ・アンとつながる。かたちや状況は違えど、同じ。究極の部分で、同じ……。
わたしは、抱いてほしかったのだ。それで、充足をしたいと思った。空っぽな心の空虚を、わたしは身体で埋めようとした。
別の男性の手で、愛してほしいと思った。
そんなわたしを、ガイは、いつまで愛してくれるのだろう。
 
「どうして、泣いているの?」
身体を横たえ、静かに涙を流し続けるわたしに、ガイが腕を伸ばした。緩く、胸に抱いてくれる。
指先で頬の涙をはじきながら、「ホームシックになった?」と笑う。
わたしはそれに首を振り、そらぞらしい言葉で誤魔化す。「ガイの傷を思い出して、怖かったの」、「あなたがエーグルにいたときに、そばにいたかった」、「看病をできなくて、ごめんなさい」……と。
嘘ではない。けれど、それは心の真の部分を上滑りする言葉。きれいごとで隠そうと、飾ろうとするわたしらしい虚偽。
既に、鼻につくほどに嫌らしい。
「あなたがいなくてよかったと、僕は思っていた。怖がらせるから。あの気丈なジュリア王女が、蒼ざめるほどだったから……。あなたなら、きっと倒れてしまう。僕は申し訳ないが、そうであっても、あなたを支えてあげられなかった」
だから、わたしはいなくてよかったのだという。
どうしてこんなに、彼は優しいのだろう。わたしを思ってくれるのだろう。あちらでのわたしの日々を、詮索もしない。
わたしはひどく汚いのに。身体の、心の奥で、いつだってじくじくした弱さをさらけ出し、誰かに縋り、楽になろうとするのに。
わたしは、あなたに相応しくない。あなたのレディ・ユラに、相応しくない。
「おやおや、泣かせてしまったの? もう大丈夫。あなたを離さないから。一人にしないから」
止まらない涙を、わたしはガイに拭ってもらう。裏切りと心の醜い鬱屈がもたらす涙を、わたしは彼に拭ってもらうのだ。
ガイはほろりともらした。少し乾いた声で、
わたしが、もしかしたら戻ってこないかもしれないと、どこかで感じていたと。
 
「王女には、もしあなたがこちらの世界へ戻ることを拒んだら、無理につれて来ないでほしいと、お願いしていました。……不本意ではあるが、僕は長く、あなたを置き去りにしたから」
その彼の言葉は、しんと胸の中で固まり、冷えた。それがゆっくりとわたしの中で広がるまで、言葉を返せなかった。
ようやく唇を開く。
「王女は、そんなこと、言わなかったわ。一言も」
「それは、それは」
ガイは笑う。その声が、わたしが頬を当てる胸に響くのだ。
こちらに、ガイのそばに帰りたくないなど、考えたこともなかった。諦めが頭を支配し、不可能なことを認め出したときでも、彼が手を伸ばしてくれたのなら、迷わずにあなたを選んだ。無理だったから、無理だと思ったから、何かを探したのだ。別の、楽になる方法を。
「あなたが僕と離れて、約七ヶ月。きっと迎えに来ると誓った僕は、一向に現れない。何があったのか、何が起きたのか。時空の向こうの気配など、感じるすべもない。お嬢さん、あなたも。そして僕にも」
ガイはわたしの指に、唇で触れた。その一本一本に口づけをし、最後の小指で、軽くやんわり歯を当てる。
「可愛いあなたが不安に怯えて、僕の心変わりや、もしくは約束自体を疑ったのも、おかしくない。当然のことだ」
「ガイ……?」
彼は何を言うのだろう。何を知っているのだろう。
「約七ヶ月とは、そういう時間。一人であなたが過ごすには、長くて退屈な、多分、辛い時間……。だから、いい。あなたのかわゆらしい胸の中を、そんな下らないもので埋めてしまうのは止しなさい」
「どうして……?」
(知っているの?)とつながる言葉。辛うじて、あるいは無意識に止めた。
もしかして、ガイは王女のように、わたしの心の中を見透かせるのだろうか。
「そんなきょとんとした瞳をして。おかしなお嬢さんですね。まさか、王女のような摩訶不思議な眼力でも、僕にあると思ったのですか?」
「違うの?」
「まさか……」

「さっき、あなたは悲しそうに泣いていたから」
「え」
彼は、いつからわたしの涙に気づいていたのだろう。わたしは、しばらく泣いていたように思う。
「……約七ヶ月間の間に、あなたがあちらで過ごした時間の、何か屈託があるのだろうと、単純に想像しただけですよ」
そこまで告げて、彼は、ちょっと笑う。
「僕では満足できない? 何か足りない? あなたに捧げられないものがあるの? どうしたら、晴れやかに笑ってくれるの?」
「ごめんなさい。わたし……、ごめんなさい……」
唇に指を置き、その冷たさを感じ、爪を噛み、指先を噛んだ。
消せやしない。わたしがしたこと。そして過去。それらは彼の背の傷痕のようにくっきりと残るのだ。
まざまざと、それが目の前に横たわっている。
 
わたしはいつまで固まったように、目をつむり続けていたのだろう。そのまぶたに受けた彼の唇の柔らかな熱で、ふっと我に返る。
「あなたが苦しんだのなら、それは僕のせいだ。あなたが負うべきものではない」
だから、忘れてしまいなさい。
彼はそう言うのだ。「僕は、あのアンとの醜い過去を、あなたの存在でねじ伏せるように消している。あっさりと何のこだわりもなく、あなたが許してくれたからだ」
「だって、あれは……、ガイは悪くなんてないもの」
「あなただって、悪くない」
だから、消してしまいなさい。
「ガイ……」

「あなたがここにいるのは、すべてを捨てて僕を選んだからだ。その事実だけでいい」
唇に置いたわたしの指を、彼が外す。少しきついほどに両の手首に込められた力。それはわたしの微かな抵抗を、あっさりと屈服させるのだ。
「僕が消してあげる。あなたの忘れたいことの、全部を、僕が」
わたしは何を、言おうとしたのだろう。彼の口づけを受けながら、ときにもれる吐息に、それは代わるのだ。
きっと他愛もないこと。暖炉の火がはぜたとか、彼の髪が首筋に触れくすぐったいとか、どこかでシンガの鳴き声が聞こえたとか……。
きっとそんなこと。
ただ、彼の指を肌に感じながら、それに疼くようなものを奥に抱えながら、わたしは満たされていくのを感じるのだ。
終わったのはきっと、今。
再び一つになれたのも、今のように思う。



サイトのご案内、トップページへ♪         

『甘やかな月』ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければメッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪