甘やかな月 エピソード2
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時計が刻む音に耳を傾けるまでもなく、緩やかに、しなやかにわたしという異物が、こちらの世界に溶け込んでいく。
何気なく膝に広げたレースのハンカチに触れたとき、または街の鉄塔や堅牢な建物の背景の空、がオレンジ色に染まるときにもそれは感じる。
邸の温室の花の一瞬むっとなるほどの芳香。使用人の立てるささやかなざわめきと、その気配。
朝目覚めて、化粧室でバスを使い、身の整わないガウンのままで、わたしはまだ眠るガイを起こす。二人でベッドに掛け、熱い紅茶を飲むひととき。カーテンからの朝の光に、あなたはちょっとまぶしそうに目を細めるのだ。
日常の細々した幾つものシーン。それらをわたしは大事に集め、一人の時間に広げ、眺めて反芻する。
わたしが手に持つもの、取り戻せたもの。
その確かな重さを感じることが嬉しいのだ。
あなたのそばにいられることが、こんなにも嬉しい。
萎れた草花が、水を吸い上げ、呼吸を始めるように。わたしが息をし始めるのに気づく。
あなたをそばに感じるこの自然が、堪らなく嬉しい。愛しい。
 
 
「ジュリア王女が、あなたに会いたいとおっしゃっていましたよ。ぜひに、王宮へいらっしゃいと」
帰国後の挨拶のため、王宮の晩餐会に出席したガイが、帰宅してそんなことを言った。
確かに、こちらに迎えに来てくれた彼女へのお礼も何も、きちんとした形で済ませていない。すぐに寝込んだり、ガイが帰ってきたりと、ざわざわと落ち着かなかった。しばらく時もたち、そろそろちゃんとお礼を言うべきなのだろう。
しかし王宮とは、ちょっとわたしには訪れるのに場違いな、敷居の高いイメージがあり、どうしても億劫になってしまう。そんなわたしの気持ちなど、伏せた瞳に容易に感じるのか、ガイが笑う。「おやおや、お嬢さん」と。
「では、近く僕は、王子の御用であちらへ伺うので、そのときにあなたも」
わたしはそれにうなずいた。ガイがそばにいてくれるのなら、とひどく安心した気分になるのだ。
けれど、案外な早さでその件が実現することになり、少々戸惑った。「近く」と、彼は言っていたけれど、再開した大学での仕事もあり、それほどすぐではないと、わたしは思っていた。
 
お茶の時間に合わせるように、邸を出たのは、昼下がりの時刻。しぶしぶと冷たい雨が降り、ときに霧の出る天気。
冬が近いことを、空気の冷たさに肌で感じる。
淡い菫色の衣装を着た。最近作らせたもので、ほんのりと大人めいたデザインが気に入っている。ガイは馬車の中で、わたしの手袋をはめた手を取り、甲に唇を重ねた。
「あなたはそうしていると、ひどく愛らしい。かわゆらしいハチドリのようですよ」
わたしはそれに恥じらって目を伏せた。「こちらへいらっしゃい。僕のお嬢さん」。ガイは取った手を、そのまま引く。わたしは彼の隣りに引き寄せられた。
額に受けた軽い口づけ。彼の指がわたしの髪に緩く絡んで、長く留まる。
彼に恋をして、苦しんで、秘めていたころ、わたしがとてもときめいて、涙ぐむほどに胸が痛んだその仕草。
それは時間を置いて、意味を深め、今すぐそばにある。わたしのすぐそばに。
「ガイが好き。愛しているわ」
不意に口にしたのは、どうしてだろう。夕べ、あんなにもささやいてもらったそのお返し? ううん、そうではない。告げたかった。何の出来事に伴わなくても、わたしの気持ちを伝えたい。
それは喉が渇いて水を飲むのと同じ、ごく自然なわたしの欲求。
彼はわたしの突然の言葉に、少しブルークレイの瞳を開き、ややして細めた。
微笑む彼が、ほんのそばにいる。
重なる唇。深くなるそれは、馬車のがくりとした揺れで、離れた。御者台のマークスの馬を励ます大きな声が聞こえる。
「あなたと、ずっとこうしていたい。僕は王子の後見役など、引き受けるのではなかった。雪崩のような厄介が、肩に乗ってくるのだから。やれやれ……」
珍しいような彼の愚痴。それにちょっとしたおかしさが込み上げてくる。わたしはシャツの彼の胸に指で円を描いたり、三角を描いたり……。
面倒がっても、厄介がっても、眉をしかめても、彼は引き受けたのだ。きっと多分、あの気管支の弱い、か弱いような王子のために。「王女は、あなたしか適任がいないと言っていたわ」
「それはいないでしょう。近親者で、政治色のない、更に経験者……」
「王子はガイでないと、お嫌なのよ、きっと。ガイがいいのよ」
ガイはそこで目をこすった。眠いのだろうか、小さなあくびをもらし、
「なら、疲れた僕を、お嬢さんはきっと、慰めてくれるでしょう?」
そんなことを言う。ちょっと笑って。
わたしはそれに答えない。その代わりに、彼の頬にキスをした。「ねえ、ガイ、教えて。ハチドリってなあに?」
 
 
ジュリア王女のサロンは以前と同じ、油性の絵の具の匂いがして、所々にキャンパスが立てられていた。布を被っていないものは、つい最前まで、彼女が絵筆を握っていたからだという。
わたしがその華やかなサロンに招かれたとき、別の人物がいた。その男性は長椅子に掛け、王女の言葉にうなずいて、笑っている。
髪の毛と顎ひげがつながっている。口ひげもあるので、顔中がひげだらけのような印象になる。
「フレドリックよ。わたしの絵の先生。怯えなくてもいいわよ、ユラ。至極穏やかな人物だから。一見、熊みたいでしょう?」
王女の紹介に、フレドリックと呼ばれた彼は、わたしへ慇懃に腰を折ってお辞儀をした。その風貌に随分と年かさに思えたけれど、ガイとそう変わらないような年齢のようだ。
「レディ・アシュレイでいらっしゃいますね。お会いできて光栄です。今回はアシュレイ伯爵がご無事でお帰りになられ、誠におめでとう存じます」
「ありがとうございます」
王女はわたしの腕を取り、自分の隣りの長椅子に招いた。濃いブルーの瞳で、いつかのようにじろりというほどわたしの目をのぞき、「ガイのお供なんかいらないじゃない。あなた一人でいらっしゃいなさいな。わたし、待ちくたびれたわ」
やはり、こちらの王宮を訪れることに臆した気持ちを、あっさりと読まれてしまっている。

「ごめんなさい。つい……」
「次は一人でいらっしゃい。そうして、わたしと一緒にフレドリックから絵を習いましょうよ」
返答に困り、彼を見ると、ひげに埋もれた頬を緩ませている。王女のこういった様子には慣れたように感じる。「油彩もよろしいですが、水彩もいいものですよ。趣がありますから」。そんな風に応じてくれた。
絵など習ったこともない。絵心などきっとない。
逡巡していると、王女が耳元でささやくのだ。「いいのよ。わたしのコンパニオンになってくれれば。お話ししたり、遊びましょうよ。それならいいでしょう? 絵はついででいいのよ。ほら、絵を習っているというと、何か外聞がいいじゃない」
それなら、とうなずく。フレドリックは苦笑した。「外聞のためなのですね。絵は……」
「あ、ごめんなさい。…わたし、絵が下手なものだから」
「いや、ジュリアさまもかなりのものでいらっしゃいましたから、きっと大丈夫でございますよ」
「まあ、ひどいわ。端から筋がいいと言っていたくせに」
王女のサロンで、お茶をいただきながらしばらく過ごすと、そこへふらりとガイがやって来た。王子のパレスへ向かう彼とは、馬車を降りてから別れたのだ。
「聞いて、ガイ。あなたのユラが、フレドリックから、わたしと一緒に絵を習うことになったのよ。素敵でしょう」
ガイはフレドリックの丁寧な挨拶に応じた後で、おやおやとでもいうように、わたしの顔をのぞきこんだ。その表情は、どこか笑っているように思える。
「あなたにそんな興味があったとは、僕は初耳ですね」
「大した画家になるかもよ、ガイ。そう、マキシミリアンの邸という邸に、ユラの絵が掛けられるようになってごらんなさい。ねえ、ガイ、あなたきっと鼻が高いわよ」
それにガイは大笑いした。「そうなるといいね」、そんなことを言って、わたしの手を握る。
わたしは「笑ってばかりで、ひどいわ」と膨れ、彼をひっそりと睨んだ。
王女のサロンを出た後、なぜかそのまま帰らずに、ガイはわたしを別の場所へ伴った。
そこは王子のパレスで、その居間にわたしを連れて行くのだ。「王子が、お嬢さんにお会いになりたいとおっしゃているのですよ。ご挨拶なさるのもいいでしょう」
それに、わたしは王女にきちんと礼を述べていないことを思い出した。あの場にはフレドリックがいたから、細かな話はできなかった。
王女は全く例のことに頓着していない風だったけれども、また近いうちに訪れて、今度こそ、ちゃんと告げようと思った。
どうしてだか、絵も習うことになってしまったこともあるし……。
広々とした居間には、白の調度が設えられていた。その端々に金の装飾が光る。テラスにつながる大きなフランス窓には、濃いブルーのカーテンが、レースを残して、今は両端にまとめられている。そのため、曇天の柔らかな日の光が部屋に入ってくる。
窓からは、庭園から伸びる木々が雨風にぬれ、揺れるのが見える。
そこに王子はいた。「やあ、ユラ」と、彼はわたしを見て言った。
わたしが知るのは、昼も窓を厚くカーテンで閉じた室内のベッドで身を横たえる彼だ。ときに苦しげに、乾いた咳を繰り返していた彼。わたしは言葉ももらえなかった。
そのエドワード王子は、華奢な雰囲気は変わらないものの、背が伸び、輝くようなブロンドはまぶしく、どこかしっかりと、少年らしく逞しく成長していた。この一年近くの間に、彼が大きく変わったのをわたしは目にした。
白くきれいな顔。そこには姉のジュリア王女と同じ、印象的な濃い海のようなブルーの瞳が瞬く。それは、ほのかにはにかみをのぞかせ、わたしを見ているのだ。
まぶしいほどに、何かを脱いだように、彼は成長していた。「あ」と目を瞬くほどに。
「ごめんね」
ぽつりと彼がもらした言葉の意味に、わたしはすぐに気がつかなかった。言葉を返さずにいると、彼が継いだ。「ガイが怪我をしたのは、僕のせいでもあるから」と。
わたしはそれに返答できずにいた。彼が健康であったのなら、ジュリア王女ではなく彼がエーグルに行ったのだろう。そこに本人がいれば、後見人のガイの存在は必要ではなかったろう。だから、彼は僕のせいだと言っているのだろう。しばらくの間に、そんな合点が、ようやくいった。
ガイを振り返ると、彼はちょっとうなずいている。きっとそれは、わたしの言葉で、好きに話したらいいという、サインなのだろう。
「でも、ガイは怪我も癒えて、帰って来てくれましたから」
「ふうん、君は少し雰囲気が変わったね」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。わたしの変化の意味を、彼がジュリア王女のように瞳に悟ったのかと一瞬思った。
ガイはわたしの腕を取り、引寄せた。「ほら、お嬢さんはひどく驚いていますよ。王子のまぶしいほどの変貌振りに、言葉もないようだ」
わたしを和ませるためか、そんなことを言う。王子は何も感じていないのだと、暗に諭してくれるかのように。
「まあね、ガイが怪我をしたのを聞いて、僕は寝ていたくなかったんだ。それだけだよ……、ユラ。それだけ」
「お元気になられて、おめでとうございます。背も、随分高くおなりになったのですね」
きっとわたしとそれほど変わらなかったろう身長が、ガイほどではなくとも、見上げるほどになっているのだ。
それに彼は楽しそうに、にっこりと笑う。
「ジュリアを見下ろせるのが楽しいんだ。彼女はエーグルでちょっぴり痩せたけど、また帰ってきて太ったよ。見ただろう? ユラは」
朗らかに笑う彼は、快活で闊達さに満ち、魅力的で、王子という身分に相応しい人物に見えた。ときに表情に見える性格の繊細な様子も、それはそれで、高貴な雰囲気に感ぜられる。
そこへ、ある人物の来訪が伝えられた。「グレイが? うん、通して」
ほどなくして居間に現われたのは、以前わたしを軍港に連れて行ってくれたあのフィッツジェラルド大佐だった。彼はこの日も、きりりと紺の軍服に身を包み、かちりとした敬礼を王子とそしてガイに向けた。
ガイに似ていると思ったけれど、二人が並ぶとその違いが、はっきりと浮き上がる。大佐の瞳の厳しさ、頬の辺りの冷たさ。表情を覆う寡黙が、ガイにはない。
どうして、彼がここにいるのだろう。王子に何の用があるのだろう。
わたしは怪訝な顔をしたのだろう。疑問に答えてくれたのは、果たしてガイだった。
「王子は皇太子でいらっしゃる。十六歳を迎えられ、軍の統括を行う身分に立たれたのですよ」
「そうなの」
それにうなずきながら、わたしは感じた。では、彼の後見人であるガイの立場はどうなったのだろう。病弱で療養しがちな、これまでのごく少年の王子の後見とは、やや意味合いが変わってくるのではないか……。
「ユラ、掛けなよ」
王子に促され、わたしはガイに腕を取られたまま、長椅子に掛けた。自然、手が隣りの彼の膝に置かれる。
三人の交わされる言葉が、耳に入る。
報告する大佐の声は、やはり硬い。
「今朝未明、我が国のゴブジス島の沖、エーグルとの領海ぎりぎりの海域で、両国の小型艦同士で、小競り合いが起きました。沈静化したようですが、依然、緊張は続いているとの報告です」
「それで、こっちの被害者は?」
「死者が二名程度、負傷者が十数名。やはり、アシュレイ閣下が襲撃された件に端を発しての件かと…」
「止めてくれ、グレイ。僕は生きているよ。傷も癒えた。両国がいがみ合う禍根などもうないよ。それを、早くゴブジス詰めの者に伝えてくれないか」
わたしはガイのため息混じりの声を聞きながら、彼の膝に置いた手を外せないままでいた。
どきりと、胸が嫌な響きを伴って鳴る。どきり、とそれは、別の不安の響きを伴うのだ。
「僕もガイと同じ意見だよ。そのように僕の名で通達を出してほしい。背いた者には、除隊も含めた厳罰を与えて」
「承りました」
ほどなく、大佐が王子の命に従い敬礼し、きびきびとした仕草で室内を後にした。
わたしのきんと冷えた指先を、ガイが握ってくれる。
わたしをのぞく、そのブルーグレイの瞳が言う。大丈夫と。きっと何も起こらないと。
わたしはそれに、ぱちりと瞬いて返し、うなずきに代えた。
 
震えないでいよう。
いたずらに怯えないでいよう。
ガイのそばにいるのだ。離れて不安だった日々のあの恐ろしさと孤独を思えば、ガイの温もりをすぐと感じられる今は、どんなに満ち足りているか。
だから、怯えないで、気持ちを強く持つのだ。自分で自分を、見えない不安の糸で縛るのは止めよう。それがまた、新たな不安を呼ぶのだから。
「大丈夫、お嬢さん。怖いことなんてない」
言葉にしてくれるもの、触れて感じさせてくれるもの。
あなたがいる。
それが、どんなにわたしを強くしてくれるか。
あなたのそばにいるのだ。
紛れもない、今という真実。
わたしはあなたを感じている。
 
 






長らくおつき合いを下さりまして、誠にありがとうございます。

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